万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

秋といえば「萩」か「尾花」か<万葉歌碑を訪ねて(その1305ー2)>

「その1305-1」に続いて尾花の魅力に迫ります。

 

◆人皆者 芽子乎秋云 縦吾等者 乎花之末乎 秋跡者将言

 

≪書き下し≫人皆は萩(はぎ)を秋と言ふよし我(わ)れは尾花(をばな)が末(うれ)を秋とは言はむ

 

(訳)世の人びとは皆萩の花こそが秋の印だという。なに、かまうものか、われらは尾花の穂先を秋の風情だと言おう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)我れ:上の「人皆」(世間の人皆)に対して、この場に集うわれわれはの意。原文も「吾等」とある。(伊藤脚注)

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水辺のススキ(尾花) 新宿御苑HPより引用させていただきました。

 桃山時代以降は、秋といえば「菊」となっているが、「万葉集」では、「萩」は約一四〇首詠まれ、二位は「梅」で約一二〇首である。いかに万葉びとは、秋の萩を愛したかである。

この歌は、「尾花」のなよなよしい華麗さに秋の風情を感じ、心奪われる人の考えを主張した面白い歌である。

 

 

◆暮立之 雨落毎<一云 打零者> 春日野之 尾花之上乃 白霧所念

       (作者未詳 巻十 二一六九)

 

≪書き下し≫夕立(ゆふだち)の雨降るごとに <一には「うち降れば」といふ>春日野(かすがの)の尾花(をばな)が上(うへ)の白露思ほゆ

 

(訳)夕立の雨が降るたびに<さっと降ると>、春日野の尾花の上に輝く白露が思われてならない。

 

 

◆吾屋戸之 麻花押靡 置露尓 手觸吾妹兒 落巻毛将見

       (作者未詳 巻十 二一七二)

 

≪書き下し≫我(わ)がやどの尾花(をばな)押しなべ置く露に手触(てふ)れ我妹子(わぎもこ)散らまくも見む

 

(訳)我が家の庭先の尾花を押し伏せて置いているこの露に、手を触れてごらん、お前さん。露のこぼれ落ちる風情も見たいから。(同上)

(注)まく :だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。 ⇒語法 活用語の未然形に付く。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

◆道邊之 乎花我下之 思草 今更尓 何物可将念

      (作者未詳 巻十 二二七〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)の尾花(をばな)が下(した)の思(おも)ひ草(ぐさ)今さらさらに何をか思はむ

 

(訳)道のほとりに茂る尾花の下蔭の思い草、その草のように、今さらうちしおれて何を一人思いわずらったりするものか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。下二句の譬喩。

(注)思ひ草:一年生寄生植物。ススキ、チガヤ、サトウキビなどに寄生し、その根元にひっそりと花を咲かせる。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1151)」で紹介している。

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 可憐なススキ(尾花)の根元にひっそりとたたずむ可憐な「思ひ草」、最高の取り合わせである。

 

 

◆左小壮鹿之 入野乃為酢寸 初尾花 何時加 妹之手将枕

      (作者未詳 巻十 二二七七)

 

≪書き下し≫さを鹿(しか)の入野(いりの)のすすき初尾花(はつをばな)いづれの時か妹(いも)が手まかむ

 

(訳)雄鹿が分け入るという入野(いりの)のすすきの初尾花、その花のようにういういしい子、いったいいつになったら、あの子の手を枕にすることができるのであろうか。(同上)

(注)さをしかの【小牡鹿の】分類枕詞:雄鹿(おじか)が分け入る野の意から地名「入野(いりの)」にかかる。(学研)

(注)はつをばな【初尾花】:〔名〕 秋になって初めて穂の出た薄(すすき)。《季・秋》(weblio辞書 精選版 日本国語大辞典

(注の注)はつをばな:初々しい女の譬え。(伊藤脚注)

 

 

 

◆蜒野之 尾花苅副 秋芽子之 花乎葺核 君之借廬

       (作者未詳 巻十 二二九二)

 

≪書き下し≫秋津野(あきづの)の尾花(をばな)刈り添へ秋萩(あきはぎ)の花を葺(ふ)かさね君が仮廬(かちいほ)に

 

(訳)秋津野の尾花に刈り添えて、秋萩の花をお葺き遊ばせ。あばたの仮のお住まいに。(同上)

(注)秋津野:奈良県吉野町宮滝付近の野か。(伊藤脚注)

(注)葺かす:「葺く」の尊敬語。(伊藤脚注)

 

 

 

◆天地等 登毛尓母我毛等 於毛比都ゝ 安里家牟毛能乎 波之家也思 伊敝乎波奈礼弖 奈美能宇倍由 奈豆佐比伎尓弖 安良多麻能 月日毛伎倍奴 可里我祢母 都藝弖伎奈氣婆 多良知祢能 波ゝ母都末良母 安佐都由尓 毛能須蘇比都知 由布疑里尓 己呂毛弖奴礼弖 左伎久之毛 安流良牟其登久 伊▼見都追 麻都良牟母能乎 世間能 比登乃奈氣伎波 安比於毛波奴 君尓安礼也母 安伎波疑能 知良敝流野邊乃 波都乎花 可里保尓布<伎>弖 久毛婆奈礼 等保伎久尓敝能 都由之毛能 佐武伎山邊尓 夜杼里世流良牟

      (葛井連子老 巻十五 三六九一)

    ▼は「亻(にんべん)」+「弖」 「伊▼見都追」=「出で見つつ」

 

≪書き下し≫天地(あめつち)と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離(はな)れて 波の上(うへ)ゆ なづさひ来(き)にて あらたまの 月日(つきひ)も来経(きへ)ぬ 雁(かり)がねも 継(つ)ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳(も)の裾(すそ)ひづち 夕霧に 衣手(ころもで)濡(ぬ)れて 幸(さき)くしも あるらむごとく 出(い)で見つつ 待つらむものを 世間(よのなか)の 人の嘆きは 相思(あひおも)はぬ 君にあれやも 秋萩(あきはぎ)の 散らへる野辺(のへ)の 初尾花(はつをばな) 仮廬(かりほ)に葺(ふ)きて 雲離(くもばな)れ 遠き国辺(くにへ)の 露霜(つゆしも)の 寒き山辺(やまへ)に 宿りせるらむ

 

(訳)天地とともに長く久しく生きていられたらと思いつづけていたであろうに、ああ、いたわしいこと、懐かしい家を離れて、波の上を漂いながらやっとここまで来たが、月日もずいぶん経ってしまった上に、雁も次々来て鳴くようになったので、家の母もいとしい妻も、朝露に裳の裾をよごし、夕霧に衣の袖(そで)を濡らしながら、君が恙(つつが)なくあるかのように、門に出ては見やりながらしきりに待っているであろうに、この世の中の人の嘆きなど、何とも思わない君なのか、そんなはずはあるまいに、どうして、秋萩の散りしきる野辺の初尾花、そんな初尾花なんかを仮廬に葺(ふ)いて、雲居はるかに離れた遠い国辺の、冷え冷えと露置くこんなさびしい山辺に、旅寝などしているのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なづさふ 自動詞:①水にもまれている。水に浮かび漂っている。②なれ親しむ。慕いなつく。(学研)ここでは①の意

 

左注は、「右三首葛井連子老作挽歌」<右の三首は、葛井連子老(ふぢゐのむらじこおゆ)が作る挽歌(ばんか)>である。

 

 

◆暮立之 雨打零者 春日野之 草花之末乃 白露於母保遊

       (小鯛王 巻十六 三八一九)

 

≪書き下し≫夕立(ゆふだち)の雨うち降れば春日野の尾花(をばな)が末(うれ)の白露思ほゆ

 

(訳)夕立の篠(しの)つく雨が降ると、いつも、あの春日野の尾花の先に置く白露が思われる。(同上)

(注)白露:春日の遊行婦女などの譬えか。(伊藤脚注)

 

 

 

 四二九五から四二九七歌の題詞は、「天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首」<天平勝宝五年の八月の十二日に、二三(ふたりみたり)の大夫等(まへつきみたち)、おのもおのも壷酒(こしゅ)を提(と)りて高円(たかまと)の野(の)に登り、いささかに所心(おもひ)を述べて作る歌三首>である。

 

◆多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母

      (大伴池主 巻二十 四二九五)

 

≪書き下し≫高円の尾花(をばな)吹き越す秋風に紐(ひも)解き開(あ)けな直(ただ)ならずとも

 

(訳)高円の野のすすきの穂を靡かせて吹きわたる秋風、その秋風に、さあ着物の紐を解き放ってくつろごうではありませんか。いい人にじかに逢(あ)うのではなくても。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)直ならずとも:直接恋人にあうのではなくても。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首左京少進大伴宿祢池主」<右の一首は左京少進(さきやうのせうしん)大伴宿禰池主

(注)左京少進:左京職の三等官。正七位上相当。七月頃、越前から帰任していたらしい。この宴は池主歓迎を兼ねているのか。(伊藤脚注)

 池主の他は、中臣清麻呂大伴家持である。

 

 

最後に家持の歌をみてみよう。

 

題詞は、「七夕歌八首」<七夕(しちせき)の歌八首>である。

 

◆波都乎婆奈 ゝゝ尓見牟登之 安麻乃可波 弊奈里尓家良之 年緒奈我久

       (大伴家持 巻二十 四三〇八)

 

≪書き下し≫初尾花(はつをばな)花に見むとし天の川(あまのがは)へなりにけらし年の緒(を)長く

 

(訳)咲いてすぐほおけてしまう初尾花、その花のようにほんのちょっと逢うだけの定めなのだと、天の川なんかが二人の隔てになっているらしい。年月長くずっと。(同上)

(注)初尾花:「花」の枕詞的用法。(伊藤脚注)

(注)へなる【隔る】自動詞:隔たっている。離れている。(学研)

 

四三〇六から四三一三歌の歌群の左注は、「右大伴宿祢家持獨仰天海作之」<右は、大伴宿禰家持、独り天漢(あまのがは)を仰(あふ)ぎて作る>である。

 

 

 「尾花」と「露」を詠んだ歌が多いが、尾花に露を置いた写真は検索してもイメージに合うようなしっくりくるものがない、機会をみて挑戦したいものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 精選版 日本国語大辞典

★「新宿御苑HP」

 

※20221031 三八一九歌追記

東歌そして尾花の魅力に迫る<万葉歌碑を訪ねて(その1304、1305の1)>―島根県益田市 県立万葉植物園(P15、16)―万葉集 巻十四 三四四四、巻十 二二四二

―その1304―

●歌は、「伎波都久の岡の茎韮我れ摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね」である。

 

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島根県益田市 県立万葉植物園(P15)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)


●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛美多奈布 西奈等都麻佐祢

      (作者未詳 巻十四 三四四四)

 

≪書き下し≫伎波都久(きはつく)の岡(おか)の茎韮(くくみら)我(わ)れ摘めど籠(こ)にも満(み)たなふ背(せ)なと摘まさね

 

(訳)伎波都久(きわつく)の岡(おか)の茎韮(くくみる)、この韮(にら)を私はせっせと摘むんだけれど、ちっとも籠(かご)にいっぱいにならないわ。それじゃあ、あんたのいい人とお摘みなさいな。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)茎韮(くくみら):《「くく」は茎、「みら」はニラの意》ニラの花茎が伸びたもの。(コトバンク デジタル大辞泉) ユリ科のニラの古名。コミラ、フタモジの異名もある。中国の南西部が原産地。昔から滋養分の多い強精食品として知られる。(植物で見る万葉の世界  國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)なふ 助動詞特殊型:《接続》動詞の未然形に付く。〔打消〕…ない。…ぬ。 ※上代の東国方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

伊藤氏は、この歌の脚注で「上四句と結句とを二人の女が唱和する形」になっていると書かれている。

 この歌は、「田植え歌とか茶摘み歌といわれる生活の必要が生んだ労働歌といえるだろう。「籠いっぱい摘む」ことが求められる、いわば収穫の作業時に歌う「茎韮摘み歌」であると思われる。東歌の原点ともいえよう。

 

 「くくみら」を詠った歌はこの一首のみである。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1182)」で紹介している。

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 時を経たこの万葉歌碑(プレート)も味があっていいものである。

 

 

 

―その1305の1―

●歌は、「秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P16)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)


●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P16)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨

       (柿本人麻呂歌集 巻十 二二四二)

 

≪書き下し≫秋の野の尾花(をばな)が末(うれ)の生(お)ひ靡(なび)き心は妹に寄りにけるかも

 

(訳)秋の野の尾花の穂先が延びて風に靡くように、私の心はもうすっかりあの子に靡き寄ってしまった。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。下二句の譬喩。

 

 巻十 二二四一から二二四三歌の歌群の左注は、「右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。」とある。部立「秋相聞」の先頭歌である。

 

 手招きしているようなススキ(尾花)の穂。風にゆらぐ光景は、まさに心ひかれる人への思いそのものである。

 万葉びとの自然のなかの植物の特性に心情を重ね合わせる巧みな詠い方には心惹かれるものがある。

 

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ススキ(尾花)の穂 「みんなの趣味の園芸NHK出版HP)」より引用させていただきました。

 ススキは漢字で「芒」、国字で「薄」と記し、文学的には花穂の姿が獣の尾に似るところから「尾花」とも称される。

 「尾花」と詠っている歌をみてみよう。

 巻八 一五七一歌の様に、万葉仮名では「吾屋戸乃 草花上之・・・」とあるが「我が宿の尾花が上の・・・」と読むものもあるが、原文も「尾花」(乎花、乎婆奈を含む)となっているものを対象としました。

 

 

◆伊香山 野邊尓開者 芽子見者 公之家有 尾花之所念

        (笠金村    巻八 一五三三)

 

≪書き下し≫伊香山(いかごやま)野辺(のへ)に咲きたる萩見れば君が家なる尾花(をばな)し思ほゆ

(訳)伊香山、この山の野辺に咲いている萩を見ると、あなた様のお屋敷の尾花が思い出されます。(同上)

 

題詞は、「笠朝臣金村伊香山作歌二首」<笠朝臣金村、伊香山(いかごやま)にして作る歌二首>である。

この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その403)」で紹介している。

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◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花

                  (山上憶良 巻八 一五三八)

   ▼は「白」の下に「八」と書く。「朝+『白』の下に『八』」=「朝顔

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1083)」で紹介している。

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題詞は、「日置長枝娘子歌一首」<日置長枝娘子(へきのながえをとめ)が歌一首>である。

(注)日置長枝娘子:伝未詳。

 

◆秋付者 尾花我上尓 置露乃 應消毛吾者 所念香聞

       (日置長枝娘子 巻八 一五六四)

 

≪書き下し≫秋づけば尾花(をばな)が上に置く露の消(け)ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも

 

(訳)秋めいてくると尾花の上に露が置く、その露のように、今にも消え果ててしまいそうなほどに、私はせつなく思われます。(同上)

(注)上三句は序。「消ぬ」を起こす。

 

 「尾花が上に置く露」、この言語情報だけで、はかなく消えていく露の絵画的情景が目に浮かんでくる。

 

 ススキ(尾花)の花穂の可憐さを踏まえた歌が多いが、空洞の茎のしなやかな構造物としての力強さも歌われているところがまた面白いのである。歌をみてみよう。

 

 題詞は、「太上天皇 御製歌一首」<太上天皇(おほきすめらみこと)の御製歌一首>である。

(注)だいじゃうてんわう【太上天皇】名詞:譲位後の天皇の尊敬語。持統天皇が孫の文武(もんむ)天皇に譲位して、太上天皇と称したのに始まる。太上皇(だいじようこう)。上皇。「だじゃうてんわう」「おほきすめらみこと」とも。(学研) ここは、四十四代元正天皇

 

◆波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代

        (元正天皇 巻八 一六三七)

 

≪書き下し≫はだすすき尾花(をばな)逆葺(さかふ)き黒木もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに

 

(訳)はだすすきや尾花を逆さまに葺いて、黒木を用いて造った新室(にいむろ)、この新室はいついつまでも栄えることであろう。(同上)

(注)はだすすき【はだ薄】名詞:語義未詳。「はたすすき」の変化した語とも、「膚薄(はだすすき)」で、穂の出る前の皮をかぶった状態のすすきともいう。(学研)

(注)をばな【尾花】名詞:「秋の七草」の一つ。すすきの花穂。[季語] 秋。 ※形が獣の尾に似ていることからいう。(学研)

(注)くろき【黒木】名詞:皮付きの丸太。[反対語] 赤木(あかぎ)。(学研)

 

 

 次は高橋虫麻呂の歌である。

 

題詞は、「登筑波山歌一首 幷短歌」<筑波山(つくはやま)に登る歌一首 幷せて短歌>である。

 

草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有哉跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒来喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積来之 憂者息沼

      (高橋虫麻呂 巻九 一七五七)

 

≪書き下し≫草枕(くさまくら) 旅の憂(うれ)へを 慰(なぐさ)もる こともありやと 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 雁(かり)がねも 寒く来鳴(きな)きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂(うれ)へはやみぬ

 

(訳)草を枕の旅の憂い、この憂いを紛らわすよすがもあろうかと、筑波嶺に登って見はるかすと、尾花の散る師付の田んぼには、雁も飛来して寒々と鳴いている。新治の鳥羽の湖にも、秋風に白波が立っている。筑波嶺のこの光景を目にして、長い旅の日数に積りに積もっていた憂いは、跡形もなく鎮まった。(同上)

(注)旅の憂へ:漢語の「旅愁」にあたる。他には見えない表現。(伊藤脚注)

(注)師付の田居:万葉の歌人高橋虫麻呂が歌に詠んだ場所といわれており、現在の志筑地区の北側、恋瀬川下流一帯の水田をさしたものと推定されています。この地には、昭和48年以前は鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの深井戸があったとされていますが、耕地整理によって景観がかわり、もとの深井戸があった場所から水を引いています。

この井戸にまつわる話として、日本武尊が水飲みの器を落したという内容や、鹿島の神が陣を張って炊事用にしたという内容が伝えられています。(かすみがうら市歴史博物館HP)

(注)新治:筑波山東麓の地。国府のあった石岡市の西郊。(伊藤脚注)

(注)鳥羽の淡海:東に小貝川、西に鬼怒川が流れ、その間にある市街地は北から伸びる洪積台地の末端となっています。小貝川沿岸の低地は「万葉集」に詠まれた鳥羽の淡海跡で、水田地帯となっています。主な観光スポットは、茨城百景に選定されている「砂沼」や関東最古の八幡様の「大宝八幡宮」などがあります。(いばらき観光キャンペーン推進協議会HP)

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仙石原のすすき草原 「箱根全山」(箱根町総合観光案内所HP)より引用させていただきました。

 「その1305」では、2回に分けて、万葉びとが感じ取ったススキ(尾花)の魅力に迫るべく尾花を詠んだ歌を見てきています。次稿(その1305の2)もよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「みんなの趣味の園芸」 (NHK出版HP)

★「かすみがうら市歴史博物館HP」

★「いばらき観光キャンペーン推進協議会HP」

★「箱根全山」 (箱根町総合観光案内所HP

万葉集は歌で歴史的ストーリーを物語っている<万葉歌碑を訪ねて(その1303)>―島根県益田市 県立万葉植物園(P14)―万葉集 巻十九 四二七八

●歌は、「あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P14)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足日木之 夜麻之多日影 可豆良家流 宇倍尓左良尓 梅乎之努波

       (大伴家持 巻十九 四二七八)

 

≪書き下し≫あしひきの山下(やました)ひかげかづらける上(うへ)にやさらに梅をしのはむ

 

(訳)山の下蔭の日蔭の縵、その日陰の縵を髪に飾って賀をつくした上に、さらに、梅を賞でようというのですか。その必要もないと思われるほどめでたいことですが、しかしそれもまた結構ですね。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)かづらく【鬘く】他動詞:草や花や木の枝を髪飾りにする。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)ひかげのかづら【日陰の蔓・日陰の葛】名詞:①しだ類の一種。つる性で、常緑。深緑の色は美しく、変色しないという。神事に使われた。日陰草。②大嘗祭(だいじようさい)などのとき、親王以下女孺(によじゆ)以上の者が物忌みのしるしとして冠の左右に掛けて垂らしたもの。古くは①を使ったが、のちには、白色または青色の組み紐(ひも)を使った。日陰の糸。◇「日陰の鬘」とも書く。(学研) ここでは①の意で、これを縵にするのは新嘗祭の礼装。

や :反語と詠嘆を兼ねる(伊藤脚注)

しのぶ【偲ぶ】他動詞:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。(学研)

 

 題詞は、「廿五日新甞會肆宴應詔歌六首」<二五日に、新嘗会(にひなへのまつり)の肆宴(とよのあかり)にして詔(みことのり)に応(こた)ふる歌六首>である。

大納言巨勢朝臣(だいなごんこのあそみ)、式部卿石川年足朝臣(しきぶのきやういしかはのとしたりあそみ)、従三位文室智努真人(ふみやのちののまひと)、右大弁藤原八束朝臣(うだいべんふぢはらのやつかのあそみ)、藤原永手朝臣(ふぢはらのながてのあそみ)といった面々が歌を詠い、家持のこの歌で歌い納めになっている。家持は少納言であった。従五位上、時に三五歳であった。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1055)」で紹介している。

 ➡ 

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 この歌群の前に、四二六九から四二七二歌が収録されている。

 題詞は、「十一月八日在於左大臣朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。

(注)十一月八日:天平勝宝四年(752年)

 

 この橘諸兄の宅にて開かれた宴には、聖武天皇橘諸兄、藤原八束、家持が参加し歌を詠っている。

 

 家持の歌は、左注にあるように「未奏」となっているが、この歌をみてみよう。

 

◆天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里 

       (大伴家持 巻十九 四二七二)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)に足(た)らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里(をさと)

 

(訳)天地の間にあまねく照り輝いて、我が大君、われらの君がお治めになっているからか、ここは、何とも楽しくてならぬお里でございます。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首少納言大伴宿祢家持  未奏」<右の一首は少納言(せうなごん)大伴宿祢家持  未奏>である。

(注)未奏:奏上せずに終わった歌。

伊藤氏は、この歌の脚注で、「前三首に感興を催して後に作り成したもの。」と書かれている。家持の聖武天皇に対する熱い思いが込められている。もとより橘諸兄に対しても同じような思いを抱いていたと思われる。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その190)」で紹介している。

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 さらにこの歌群の前に四二七一歌が収録されている。

 題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首   命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首   命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。

(注)天皇孝謙天皇

(注)太后天皇の母、光明皇后

(注)大納言:藤原仲麻呂仲麻呂天平勝宝元年(749年)七月に大納言になっている。

(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。

(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち

(注)命婦:宮中や後宮の女官の一つ

 

 伊藤氏は、この四二六八歌について、脚注で「天平勝宝四年二月頃、家持が耳にしたもの」と書かれている。

 

 四二六八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その35改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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 天平感宝元年(749年)七月、聖武天皇は譲位し孝謙天皇が即位、天平勝宝と改められた。参議であった藤原仲麻呂が大納言に昇進、八月に光明皇后のために紫微中台が設けられ長官に仲麻呂が任ぜられた。

 孝謙天皇・その母光明皇后仲麻呂というラインが出来上がったのである。

 それに対抗するのが、聖武太上天皇左大臣橘諸兄のラインである。

 こういった、橘奈良麻呂の変(天平勝宝九年<757年>)への伏線が収録されている。

 万葉集は、歌物語として歴史的な流れを語っている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 

「思ひ草」に思いを<万葉歌碑を訪ねて(その1302)>―島根県益田市 県立万葉植物園(P13)―万葉集 巻十 二二七〇

●歌は、「道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P13)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P13)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆道邊之 乎花我下之 思草 今更尓 何物可将念

       (作者未詳 巻十 二二七〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)の尾花(をばな)が下(した)の思(おも)ひ草(ぐさ)今さらさらに何をか思はむ

 

(訳)道のほとりに茂る尾花の下蔭の思い草、その草のように、今さらうちしおれて何を一人思いわずらったりするものか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。下二句の譬喩。

(注)思ひ草:一年生寄生植物。ススキ、チガヤ、サトウキビなどに寄生し、その根元にひっそりと花を咲かせる。

(注)いまさら【今更】副詞:今はもう。今になって。今改めて。(学研)

(注)さらに【更に】副詞:①改めて。新たに。事新しく。今さら。②その上。重ねて。いっそう。ますます。③〔下に打消の語を伴って〕全然…(ない)。決して…(ない)。少しも…(ない)。いっこうに…(ない)。(学研)

(注の注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)

 

「思ひ草」を詠んだ歌は、万葉集ではこの1首だけである。

 

この歌に巡り逢ったのは、平成元年10月23日に、滋賀県東近江市糠塚町の万葉の森船岡山に行った時である。

同12月30日のブログ作成のため、「おもひぐさ」を調べてみた。「植物で見る万葉の世界」(國學院大學 萬葉の花の会 著)に、「1年生寄生植物のナンバンキセル(南蛮煙管)。これが集中に詠まれている『おもひぐさ』であるかどうかについては、古来意見が分かれるところであるが、チガヤ・ミョウガ・オカボ・サトウキビなどにも寄生して、その根元にひっそりと花を咲かせる。失ってしまった恋を想い、ホッと大きなため息をついているような風情は、読み人知らずのこの歌にまさにぴったりの花ではないだろうか。」と書かれている。

これを読み、ナンバンキセルの可憐なたたずまいの写真を見て、実際の花を見て見たいと思ったのである。

 

 今年の8月17日のインスタグラムに、「heijoukyusekirekishikouen」発の、「園内の中央区朝堂院南側オギの根元に、ナンバンキセルが咲いている」との投稿があった。

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 すぐにでも見に行きたいと思うが、連日の雨である。

8月19日も朝から雨である。降る時は中途半端ではない。各地で川の氾濫などのニュースが流れている。

しかし、午後に一旦雨が上がった。予報では1時間くらいしたらまた雨の予想となっている。 

今しかないと車を走らせる。20分ほどで到着。しかし、コロナ禍の影響で駐車場は閉鎖されていた。仕方なく引き返すも、あきらめきれず西大寺駅近辺の駐車場に車を留め歩くことに。入り口で確認すると、歩きでの園内散策はOKであった。

 時折、雨がぱらつく。平城宮跡資料館前を南下し朱雀門を目指す。オギやススキの根元に寄生するので丹念に根元を見ながら探し歩く。

 オギなどの根元にチョコリンと可憐に咲いているイメージを描きながら探し回る。なかなか見つからない。紅の裳裾が濡れると言えば、色っぽいが、ズボンの裾も靴もびしょ濡れである。

 漸く、朱雀門近くのオギの群生地の根元付近からからすこし遊歩道寄りに数本固まっている花やつぼみを見つける。オギの根元の林立した茎と茎のなかにチョコリンというイメージではなかった。花も思っていたよりは大きめであった。

 まさに、歌のように、「道の辺」、「尾花が下」(ここではオギであるが)のロケーション、「今さらさらに何をか思はむ」と、可憐ななかにしっかりとした自己主張する花である。まさに、これぞ「思ひ草」である。感動の初対面であった。

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雨に濡れた可憐な「思ひ草」<ナンバンキセル>20210819撮影平城旧跡朱雀門近くのオギの根元

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林立する「思ひ草」<ナンバンキセル>20210819撮影平城旧跡朱雀門近くのオギの根元

 

 ナンバンキセルは8月から10月が開花期とある。

 10月21日に平城宮跡を訪れた。ナンバンキセルがもしかしたらまだ見られるかと思って、朱雀門近くのオギの群生地を見て周った。さすがに、丹念に見逃すまいと探してみるがなかなか見つけることができない。

 根元あたりに食い入るように見て周る。

 何と、咲いていました。オギの根元から顔を出すように。よりひっそりと可憐に。感動の再会である。

 また、花も小さく、萎れたようなものも多く、残り火のような感じではあったが。

 しかし、再会した歓びは何とも言えないものである。

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やっと見つけた「思ひ草」211021撮影 平城宮跡朱雀門近く

 

 もう一度見たい、というか逢いたい気持ちに駆られる。

 10月26日にも行って見た。花の数は少なくなっていたが、まだ可憐な姿を見せてくれたのである。

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見つけました「思ひ草」 20211026撮影 平城宮跡朱雀門近くのオギ

 そして今日(12月26日)冷たい風の中平城宮跡を散策。

 枯れオギの根元に冬枯れの「思ひ草」にお目にかかることができたのである。枯れても可憐。

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20211226撮影 朱雀門近くのオギの根元

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枯れても可憐な「思ひ草」 20211226撮影 朱雀門近くのオギの根元

来年は、もっと逢いに来るよと、「思ひ草」に思いを告げたのであった。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「heijoukyusekirekishikouen」(インスタグラム)

 

 

 

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1301)―島根県益田市 県立万葉植物園(P12)―万葉集 巻十一 二八二七

 島根県立万葉公園人麻呂展望広場をぶらつき歌碑を見て周った後、車で東口駐車場へ移動、万葉植物園を散策し、高津柿本神社へと向かった。

 島根県立万葉公園HP園内ガイドには、「万葉植物園」について、次のように書かれている。「万葉集に詠まれた植物が、歌を紹介する歌板とともに、多数紹介されており、気軽に散策しながら万葉歌に親しむことができます。植物園は高津柿本神社に隣接しており、鎮守の森の古い木々に囲まれた静かな場所です。」

 これまでのブログで「鴨山五首」を梅原 猛氏の「水底の歌 柿本人麿論 上下」を踏まえて紹介してきたが、万葉公園を訪れた時は、不勉強でこのような見解があるということを知らなかったのである。パンフレット「令和の万葉公園を楽しむ」のMAPを眺めていて、そこに「万葉一人者・梅原猛先生 鴨島展望台1.5m石碑」と海上の「鴨島跡」が記されていた。ノーチェックであった。機会があればもう一度訪れて見てみたいものである。

 しばし、人麻呂から離れ、万葉歌に接してみよう。

 

 

●歌は、「紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P12)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆紅 花西有者 衣袖尓 染著持而 可行所念

        (作者未詳 巻十一 二八二七)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)の花にしあらば衣手(ころもで)に染(そ)め付け持ちて行くべく思ほゆ

 

(訳)お前さんがもし紅の花ででもあったなら、着物の袖に染め付けて持って行きたいほどに思っているのだよ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ころもで【衣手】名詞:袖(そで)。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その992)」で紹介している。

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 いとしい人と一時も離れたくないが故に、肌身離さず身に着けている着物に摺り付けて持って行きたいという切なる気持ちを詠っている。

東国から防人として任につく場合は、長きにわたり別れなければならず、それだけに一緒にいたいという切実な気持ちを、自分の持っている弓束であったらずっと離れなくてよいのにと詠った歌もある。こちらもみてみよう。

巻十四「東歌」の「防人歌」の問答歌をみてみよう。

 

◆於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛

        (作者未詳 巻十四 三五六七)

 

≪書き下し≫置きて行(い)かば妹(いも)はま愛(かな)し持ちて行(ゆ)く梓(あづさ)の弓の弓束(ゆづか)にもがも

 

(訳)家に残して行ったら、お前さんのことはこの先かわいくってたまらないだろう。せめて握り締めて行く、この梓(あずさ)の弓の弓束であってくれたらな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)まかなし【真愛し】形容詞:切ないほどいとしい。とてもいじらしい。 ※「ま」は接頭語。上代語。(学研)

(注)ゆつか【弓柄・弓束】名詞:矢を射るとき、左手で握る弓の中ほどより少し下の部分。また、そこに巻く皮や布など。「ゆづか」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 この歌に対して、妻が答えた歌、三五六八歌をみてみよう。

 

◆於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎

      (作者未詳 巻十四 三五六八)

 

≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋(こ)ひば苦しも朝猟(あさがり)の君が弓にもならましものを

 

(訳)あとに残されていて恋い焦がれるのは苦しくてたまりません。毎朝猟にお出かけのあなたがお持ちの弓にでもなりたいものです。(同上)

(注)おくれゐる【後れ居る】自動詞:あとに残っている。取り残される。(学研)

 

三五六七、三五六八歌の左注は、「右二首問答」<右の二首は問答>である。

 

 この問答歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その996」」で紹介している。

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 巻二十の防人歌には、両親が花であったら一緒に行けるのにといった、親孝行の鑑のような歌もある。こちらもみてみよう。

 

◆知ゝ波ゝ母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐々己弖由加牟

       (丈部黒当 巻二十 四三二五)

 

≪書き下し≫父母(ちちはは)も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(さき)ごて行かむ

 

(訳)父さん母さんがせめて花ででもあってくれればよい。そしたら草を枕の旅なんかに行くにしても、捧げ持って行こうものを。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1174)」で紹介している。

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 もう一首みてみよう。

 

◆阿母刀自母 多麻尓母賀母夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敝麻可麻久母

       (津守宿禰小黒栖 巻二十 四三七七)

 

≪書き下し≫母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴(いただ)きてみづらの中(なかに合(あ)へ巻かまくも

 

(訳)お袋様がせめて玉ででもあったらよいのにな。捧(ささ)げ戴いて角髪(みずら)の中に一緒に巻きつけように。(同上)

(注)みづら【角髪・角子】名詞:男性の髪型の一つ。髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねて結んだもの。上代には成年男子の髪型で、平安時代には少年の髪型となった。(学研)

 

 家族と離れて生活するのは、やはり寂しいものである。

話は脱線するが、携帯電話やLINEなどがなかった時代に、小生が単身赴任をしていた時には、家族の写真を定期入れに忍ばせ、辛い時など写真と話をしていたものであった。

 人を思う気持ちは、万葉の世も現代も変わらない。万葉びとの思いも歌を通して現代にも響くのである。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著 (新著文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「島根県立万葉公園HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1298、1299、1300)―島根県益田市 県立万葉公園(P9、10,11)―万葉集 巻二 二二三,二二四,二二五

「鴨山五首」は、個々の歌ごとに紹介してきましたが、島根県立万葉公園の歌碑(プレート)の写真を見ながら、一括してみます。

 

 まず、五首(書き下し)を並べて見る。

◆鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(柿本人麻呂

◆今日今日と我が待つ君は石川の峽に交りてありといはずやも(依羅娘子)

◆直に逢はば逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(依羅娘子)

◆荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ(丹比真人)

◆天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし(作者未詳)

 

 

―その1298―

●歌は、「鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P9)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P9)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首>である。

 

◆鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有

       (柿本人麻呂 巻二 二二三)

 

≪書き下し≫鴨山(かもやま)の岩根(いはね)しまける我(わ)れをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ

 

(訳)鴨山の山峡(やまかい)の岩にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)鴨山:石見の山の名。所在未詳。

(注)いはね【岩根】名詞:大きな岩。「いはがね」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研)ここでは①の意

(注)しらに【知らに】分類連語:知らないで。知らないので。 ※「に」は打消の助動詞「ず」の古い連用形。上代語。(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1266)」で紹介している。

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―その1299―

●歌は、「今日今日と我が待つ君は石川の峡に交りてありとはいはずやも」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P10)万葉歌碑<プレート>(依羅娘子)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P10)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首」<柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首>である。

 

◆且今日ゝゝゝ 吾待君者 石水之 貝尓 <一云 谷尓> 交而 有登不言八方

       (依羅娘子 巻二 二二四)

 

≪書き下し≫今日今日(けふけふ)と我(あ)が待つ君は石川(いしかは)の峽(かひ)に <一には「谷に」といふ> 交(まじ)りてありといはずやも

 

(訳)今日か今日かと私が待ち焦がれているお方は、石川の山峡に<谷間(たにあい)に>迷いこんでしまっているというではないか。(同上)

(注)石川:石見の川の名。所在未詳。諸国に分布し、「鴨」の地名と組みになっていることが多い。

(注)まじる【交じる・雑じる・混じる】自動詞:①入りまじる。まざる。②(山野などに)分け入る。入り込む。③仲間に入る。つきあう。交わる。宮仕えする。④〔多く否定の表現を伴って〕じゃまをされる。(学研)ここでは②の意

(注)やも [係助]《係助詞「や」+係助詞「も」から。上代語》:(文中用法)名詞、活用語の已然形に付く。①詠嘆を込めた反語の意を表す。②詠嘆を込めた疑問の意を表す。 (文末用法) ①已然形に付いて、詠嘆を込めた反語の意を表す。…だろうか(いや、そうではない)。②已然形・終止形に付いて、詠嘆を込めた疑問の意を表す。…かまあ。→めやも [補説] 「も」は、一説に間投助詞ともいわれる。中古以降には「やは」がこれに代わった。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1267)」で紹介している。

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―その1300―

●歌は、「直に逢はば逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P11)万葉歌碑<プレート>(依羅娘子)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞「柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首」<柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首>の二首目である。

 

◆且今日ゝゝゝ 吾待君者 石水之 貝尓 <一云 谷尓> 交而 有登不言八方

       (依羅娘子 巻二 二二四)

 

≪書き下し≫今日今日(けふけふ)と我(あ)が待つ君は石川(いしかは)の峽(かひ)に <一には「谷に」といふ> 交(まじ)りてありといはずやも

 

(訳)今日か今日かと私が待ち焦がれているお方は、石川の山峡に<谷間(たにあい)に>迷いこんでしまっているというではないか。(同上)

(注)石川:石見の川の名。所在未詳。諸国に分布し、「鴨」の地名と組みになっていることが多い。

(注)まじる【交じる・雑じる・混じる】自動詞:①入りまじる。まざる。②(山野などに)分け入る。入り込む。③仲間に入る。つきあう。交わる。宮仕えする。④〔多く否定の表現を伴って〕じゃまをされる。(学研)ここでは②の意

(注)やも [係助]《係助詞「や」+係助詞「も」から。上代語》:(文中用法)名詞、活用語の已然形に付く。①詠嘆を込めた反語の意を表す。②詠嘆を込めた疑問の意を表す。 (文末用法) ①已然形に付いて、詠嘆を込めた反語の意を表す。…だろうか(いや、そうではない)。②已然形・終止形に付いて、詠嘆を込めた疑問の意を表す。…かまあ。→めやも [補説] 「も」は、一説に間投助詞ともいわれる。中古以降には「やは」がこれに代わった。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1268)」で紹介している。

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次の二首の歌碑(プレート)はなかったので歌のみの紹介となります。

 

題詞は、「丹比真人〔名闕〕擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首」<丹比真人(たぢひのまひと)〔名は欠けたり〕、柿本朝臣人麻呂が意に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首>である。

(注)まひと【真人】名詞:奈良時代天武天皇のときに定められた「八色(やくさ)の姓(かばね)」の最高位。皇族に賜った。(学研)

(注の注)やくさのかばね【八色の姓・八種の姓】名詞:家柄の尊卑を八段階に分けた姓。天武天皇の十三年(六八四)に定められた、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)の八つ。「八姓(はつしやう)」とも。

(注)なずらふ【準ふ・擬ふ】他動詞:①同程度・同格のものと見なす。比べる。②同じようなものに似せる。まねる。 ※「なぞらふ」とも。(学研)

 

◆荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告

       (丹比真人 巻二 二二六)

 

≪書き下し≫荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ

 

(訳)荒波に寄せられて来る玉、その玉を枕辺に置いて、私がこの浜辺にいると、誰が妻に告げてくれたのであろうか。(同上)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1269)」で紹介している。

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題詞は、「或本歌曰」<或本の歌に曰はく>である。

 

◆天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無

       (作者未詳 巻二 二二七)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)の荒野(あらの)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし

 

(訳)都を遠く離れた片田舎の荒野にあの方を置いたままで思いつづけていると、生きた心地もしない。(同上)

(注)あまざかる【天離る】分類枕詞:天遠く離れている地の意から、「鄙(ひな)」にかかる。「あまさかる」とも。(学研)

(注)いけ【生】るともなし:(「いけ」は四段動詞「いく(生)」の命令形、「と」は、しっかりした気持の意の名詞) 生きているというしっかりした気持がない。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

左注は、「右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也」<右の一首の歌は、作者未詳、ただし、古本この歌をもちてこの次に載す>である。

(注)古本:いかなる本とも知られていない。一五・一九歌の左注にある「旧本」とは別の本と思われる。

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1270)」で紹介している。

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 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 下」(新潮文庫)の中で、「万葉集の歌を一首ずつ切り離して観賞するくせがついているが、私は、こういう観賞法は根本的にまちがっていると思う。」と書かれ、万葉集の歌物語性を強調、「鴨山五首」を通して、柿本人麻呂流罪、刑死説を展開されている。非業の死故、「神」としてあがめられ、さらに柿本人麻呂が正史に登場しないことに関しても、持統帝への讃歌等華やかな側面があるが、持統帝の挽歌がないことなどから罪に問われ、柿本佐留と変名させられたのではと推測、「人麻呂=佐留(猨)(=猿丸大夫)」説を展開されている。「歌の聖」としての復権も諸々の資料を踏まえ展開されている。

 万葉集の編纂経緯にもふれ、万葉集は、藤原権力への告発歌物語というとらえ方もされている。

 

 島根県益田市の県立万葉公園「人麻呂展望広場」を訪れ、同氏の「水底の歌 柿本人麿論 上下」を読んで、万葉集への見方の視野が違ってきた。

今までは、歌を中心に、深耕をと思っていたが、空間的な広がりとともに更なる深耕が必要だと痛感させられたのである。

今まで見ていた万葉集は儚く消え去り、想像を超え巨大化した万葉集が目の前に立ちはだかったのである。

 一歩、一歩、一歩・・・

 

 もう一度、五首(書き下し)をながめてみよう。

◆鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ(柿本人麻呂

◆今日今日と我が待つ君は石川の峽に交りてありといはずやも(依羅娘子)

◆直に逢はば逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ(依羅娘子)

◆荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ(丹比真人)

◆天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし(作者未詳)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

万葉歌碑を訪ねて(その1290~1297)―島根県益田市 県立万葉公園(P1~8)―万葉集 巻二 一三一~一三九

 「石見相聞歌」をこれまで、個々の歌群ごとで紹介はしてきましたが、島根県立万葉公園の歌碑(プレート)の写真を見ながら、一括してみます。

題詞は、「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国より妻に別れて上(のぼ)り来(く)る時の歌二首并(あは)せて短歌>である。

 

―その1290―

●歌は、「石見の海角の浦みを人こそ見らめ潟なしと人こそ見らめよしゑやし・・・」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P1)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等<一云 礒無登> 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 <一云 礒者> 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎<一云 波之伎余思妹之手本乎> 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山

     (柿本人麻呂 巻二 一三一)

 

≪書き下し≫石見(いはみ)の海 角(つの)の浦(うら)みを 浦なしと 人こそ見(み)らめ潟(かた)なしと<一には「礒なしと」といふ> 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は<一に「礒は」といふ>なくとも 鯨魚(いさな)取(と)り 海辺(うみへ)を指して 和多津(にきたづ)の 荒礒(ありそ)の上(うへ)に か青(あを)く生(お)ふる 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振(ふ)る 風こそ寄らめ 夕 (ゆふ)羽振る 波こそ来(き)寄れ 浪の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を<一には「はしきよし妹が手本(たもと)を> 露霜(つゆしも)の 置きてし来(く)れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)の 里は離(さか)りぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 夏草(なつくさ)の 思ひ萎(しな)へて 偲(しの)ふらむ 妹(いも)が門(かど)見む 靡(なび)けこの山

 

(訳)石見の海、その角(つの)の浦辺(うらべ)を、よい浦がないと人は見もしよう。よい干潟がないと<よい磯がないと>人は見もしよう。が、たとえよい浦はないにしても、たとえよい干潟は<よい磯は>はないにしても、この角の海辺を目指しては、和田津(にきたづ)の荒磯のあたりに青々と生い茂る美しい沖の藻、その藻に、朝(あした)に立つ風が寄ろう、夕(ゆうべ)に揺れ立つ波が寄って来る。その寄せる風浪(かざなみ)のままに寄り伏し寄り伏しする美しい藻のように私に寄り添い寝たいとしい子であるのに、その大切な子を<そのいとしいあの子の手を>、冷え冷えとした露の置くようにはかなくも置き去りにして来たので、この行く道の曲がり角ごとに、いくたびもいくたびも振り返って見るけど、あの子の里はいよいよ遠ざかってしまった。いよいよ高く山も越えて来てしまった。強い日差しで萎(しぼ)んでしまう夏草のようにしょんぼりして私を偲(しの)んでいるであろう。そのいとしい子の門(かど)を見たい。邪魔だ、靡いてしまえ、この山よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)角の浦:島根県江津市都野津町あたりか

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。(学研)

(注)よしゑやし【縦しゑやし】分類連語:①ままよ。ええ、どうともなれ。②たとえ。よしんば。 ※上代語。 ⇒なりたち 副詞「よしゑ」+間投助詞「やし」(学研)ここでは②の意

(注)いさなとり【鯨魚取り・勇魚取り】( 枕詞 ):クジラを捕る所の意で「海」「浜」「灘(なだ)」にかかる。 (weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)和田津(にきたづ):所在未詳

(注)ありそ【荒磯】名詞:岩石が多く、荒波の打ち寄せる海岸。 ※「あらいそ」の変化した語。(学研)

(注)はぶる【羽振る】自動詞:飛びかける。はばたく。飛び上がる。「はふる」とも。(学研)

(注)朝羽振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ:風波が鳥の翼のはばたくように玉藻に寄せるさま。(伊藤脚注)

(注)むた【共・与】名詞:…と一緒に。…とともに。▽名詞または代名詞に格助詞「の」「が」の付いた語に接続し、全体を副詞的に用いる。(学研)

(注)かよりかくよる【か寄りかく寄る】[連語]あっちへ寄り、こっちへ寄る。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を:前奏を承け、「玉藻」を妻の映像に転換していく。(伊藤脚注)

(注)つゆしもの【露霜の】分類枕詞:①露や霜が消えやすいところから、「消(け)」「過ぐ」にかかる。②露や霜が置く意から、「置く」や、それと同音を含む語にかかる。③露や霜が秋の代表的な景物であるところから、「秋」にかかる。(学研)

(注)なつくさの【夏草の】分類枕詞:①夏草が日に照らされてしなえる意で「思ひしなゆ」②夏草が生えている野の意で「野」を含む地名「野島」や「野沢」にかかる。③夏草が深く茂るところから「繁(しげ)し」「深し」にかかる。④夏草を刈るの意で「刈る」と同音を含む「仮(かり)」「仮初(かりそめ)」にかかる。(学研)

(注)夏草の思ひ萎へて偲ふらむ妹が門見む靡けこの山:結びは短歌形式をなす。(伊藤脚注)

 

 

―その1291―

●歌は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P2)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香

      (柿本人麻呂 巻二 一三二)

 

≪書き下し≫石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)の木の間より我(わ)が振る袖を 妹見つらむか

 

(訳)石見の、高角山の木の間から名残を惜しんで私が振る袖、ああこの袖をあの子は見てくれているであろうか。(同上)

(注)高角山:角の地の最も高い山。妻の里一帯を見納める山をこう言った。(伊藤脚注)

(注)我が振る袖を妹見つらむか:最後の別れを惜しむ所作。(伊藤脚注)

(注)つらむ 分類連語:①〔「らむ」が現在の推量の意の場合〕…ているだろう。…たであろう。▽目の前にない事柄について、確かに起こっているであろうと推量する。②〔「らむ」が現在の原因・理由の推量の意の場合〕…たのだろう。▽目の前に見えている事実について、理由・根拠などを推量する。 ⇒なりたち 完了(確述)の助動詞「つ」の終止形+推量の助動詞「らむ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注の注)「妹見つらむか」に作者の興奮した気持ちが表れている。(学研)

 

一三一、一三二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1271)で紹介している。

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―その1292―

●歌は、「笹の葉はみ山もさやにさやけども我は妹思ふ別れ来ぬれば」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P3)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆

        (柿本人麻呂 巻二 一三三)

 

≪書き下し≫笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我(わ)れは妹思ふ別れ来(き)ぬれば

 

(訳)笹の葉はみ山全体にさやさやとそよいでいるけれども、私はただ一筋にあの子のことを思う。別れて来てしまったので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「笹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども」は、高角山の裏側を都に向かう折りの、神秘的な山のそよめき(伊藤脚注)

(注の注)ささのはは…分類和歌:「笹(ささ)の葉はみ山もさやに乱るとも我は妹(いも)思ふ別れ来(き)ぬれば」[訳] 笹の葉は山全体をざわざわさせて風に乱れているけれども、私はひたすら妻のことを思っている。別れて来てしまったので。 ⇒鑑賞長歌に添えた反歌の一つ。妻を残して上京する旅の途中、いちずに妻を思う気持ちを詠んだもの。「乱るとも」を「さやげども(=さやさやと音を立てているけれども)」と読む説もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)さやに 副詞:さやさやと。さらさらと。(学研)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1272)」で紹介している。

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―その1293―

●歌は、「つのさはふ石見の海の言さへく唐の崎なる海石にぞ深海松生える荒磯にぞ・・・  」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P4)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P4)にある。

●歌をみていこう。

 

◆角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃 <一云 室上山> 山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沾奴

         (柿本人麻呂 巻二 一三五)

 

≪書き下し≫つのさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 唐(から)の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松(ふかみる)生(お)ふる 荒礒(ありそ)にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝(ね)し夜(よ)は 幾時(いくだ)もあらず 延(は)ふ蔦(つた)の 別れし来れば 肝(きも)向(むか)ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船(おほぶね)の 渡(わたり)の山の 黄葉(もみちば)の 散りの乱(まが)ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上(やかみ)の<一には「室上山」といふ> 山の 雲間(くもま)より 渡らふ月の 惜しけども 隠(かく)らひ来れば 天伝(あまづた)ふ 入日(いりひ)さしぬれ ますらをと 思へる我(わ)れも 敷栲(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡(ぬ)れぬ

 

(訳)石見の海の唐の崎にある暗礁にも深海松(ふかみる)は生い茂っている、荒磯にも玉藻は生い茂っている。その玉藻のように私に寄り添い寝たいとしい子を、その深海松のように深く深く思うけれど、共寝した夜はいくらもなく、這(は)う蔦の別るように別れて来たので、心痛さに堪えられず、ますます悲しい思いにふけりながら振り返って見るけど、渡(わたり)の山のもみじ葉が散り乱れて妻の振る袖もはっきりとは見えず、そして屋上(やかみ)の山<室上山>の雲間を渡る月が名残惜しくも姿を隠して行くように、ついにあの子の姿が見えなくなったその折しも、寂しく入日が射して来たので、ひとかどの男子だと思っている私も、衣の袖、あの子との思い出のこもるこの袖は涙ですっかり濡れ通ってしまった。(同上)

(注)つのさはふ 分類枕詞:「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などにかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)ことさへく【言さへく】分類枕詞:外国人の言葉が通じにくく、ただやかましいだけであることから、「韓(から)」「百済(くだら)」にかかる。 ※「さへく」は騒がしくしゃべる意。(学研)

(注)唐の崎:江津市大鼻崎あたりか。

(注)いくり【海石】名詞:海中の岩石。暗礁。(学研)

(注)ふかみる【深海松】名詞:海底深く生えている海松(みる)(=海藻の一種)(学研)

(注)ふかみるの【深海松の】分類枕詞:同音の繰り返しで、「深む」「見る」にかかる。(学研)

(注)たまもなす【玉藻なす】分類枕詞:美しい海藻のようにの意から、「浮かぶ」「なびく」「寄る」などにかかる。(学研)

(注)さね【さ寝】名詞:寝ること。特に、男女が共寝をすること。 ※「さ」は接頭語。(学研)

(注)はふつたの【這ふ蔦の】分類枕詞:蔦のつるが、いくつもの筋に分かれてはいのびていくことから「別る」「おのが向き向き」などにかかる。(学研)

(注)きもむかふ【肝向かふ】分類枕詞:肝臓は心臓と向き合っていると考えられたことから「心」にかかる。(学研)

(注)おほぶねの【大船の】分類枕詞:①大船が海上で揺れるようすから「たゆたふ」「ゆくらゆくら」「たゆ」にかかる。②大船を頼りにするところから「たのむ」「思ひたのむ」にかかる。③大船がとまるところから「津」「渡り」に、また、船の「かぢとり」に音が似るところから地名「香取(かとり)」にかかる。(学研)

(注)渡の山:所在未詳

(注)つまごもる【夫隠る/妻隠る】[枕]:① 地名「小佐保(をさほ)」にかかる。かかり方未詳。② つまが物忌みのときにこもる屋の意から、「屋(や)」と同音をもつ地名「屋上の山」「矢野の神山」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)屋上の山:別名 浅利富士、室神山、高仙。標高246m(江津の萬葉ゆかりの地MAP)

(注)わたらふ【渡らふ】分類連語:渡って行く。移って行く。 ⇒なりたち 動詞「わたる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(学研)

(注)かくらふ【隠らふ】分類連語:繰り返し隠れる。 ※上代語。 ⇒なりたち 動詞「かくる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(学研)

(注)あまづたふ【天伝ふ】分類枕詞:空を伝い行く太陽の意から、「日」「入り日」などにかかる。(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1258)」で紹介している。

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―その1294―

●歌は、「青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P5)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P5)にある。

●歌をみていこう。

 

◆青駒之 足掻乎速 雲居曽 妹之當乎 過而来計類 <一云 當者隠来計留>

         (柿本人麻呂 巻二 一三六)

 

≪書き下し≫青駒(あをごま)が足掻(あが)きを速(はや)み雲居(くもゐ)にぞ妹(いも)があたりを過ぎて来にける<一には「あたりは隠り来にける」といふ>

 

(訳)この青駒の奴(やつ)の歩みが速いので、雲居はるかにあの子のあたりを通り過ぎて来てしまった。<あの子のあたりは次第に見えなくなってきた>(同上)

(注)あがき【足掻き】:① 苦しまぎれにじたばたすること。② 手足を動かすこと。手足の動き。③ 馬などが前足で地をかくこと。また、馬の歩み④。 子供がいたずらをして暴れること。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは③の意

(注)くもゐ【雲居・雲井】名詞:①大空。天上。▽雲のある所。②雲。③はるかに離れた所。④宮中。皇居。(学研)ここでは③の意

 

 

―その1295―

●歌は、「秋山に散らふ黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P6)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P6)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之當将見<一云 知里勿乱曽>

        (柿本人麻呂 巻二 一三七)

 

≪書き下し≫秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む <一云 散りな乱ひそ>

 

(訳)秋山に散り落ちるもみじ葉よ、ほんのしばらくでもよいから散り乱れてくれるな。あの子のあたりを見ようものを。<散って乱れてはくれるな>(同上)

(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。 ※上代語。(学研)

 

 

―その1296―

●歌は、「石見の海角の浦みをなみ浦なしと人こそ見らめ潟なしと人こそ見らめ・・・」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P7)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P7)にある。

●歌をみていこう。

 

◆石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山

      (柿本人麻呂 巻二 一三八)

 

≪書き下し≫石見(いはみ)の海(うみ) 津(つ)の浦(うら)をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 和田津(にきたつ)の 荒礒(ありそ)の上(うへ)に か青(あを)く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻 明け来(く)れば 波こそ来(き)寄れ 夕(ゆふ)されば 風こそ来寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 靡(なび)き我(わ)が寝し 敷栲(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜(つゆしも)の 置きてし来(く)れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里離(さか)り来(き)ぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ はしきやし 我が妻の子が 夏草(なつくさ)の 思ひ萎(しな)えて 嘆くらむ 角(つの)の里見む 靡けこの山

 

(訳)石見の海、この海には船を泊める浦がないので、よい浦がないと人は見もしよう、よい潟がないと人は見もしよう、が、たとえよい浦はなくても、たとえよい潟はなくても、この海辺を目ざして、和田津の荒磯のあたりに青々と生い茂る美しい沖の藻、その藻に、朝方になると波が寄って来る、夕方になると風が寄って来る。その風浪(かざなみ)のまにまに寄り伏しする玉藻のように寄り添い寝た愛しい子なのに、その子を冷え冷えとした霜の置くようにはかなくも置き去りにして来たので、この行く道の多くの曲がり角ごとにいくたびもいくたびも振り返って見るけれど、いよいよ遠く妻の里は遠のいてしまった。いよいよ高く山も越えて来てしまった。いとおしいわが妻の子が夏草のようにしょんぼりしているであろう、その角(つの)の里を見たい。靡け、この山よ。(同上)

(注)津の浦:船を泊める港用の浦。

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(学研)

(注)たもと【袂】名詞:①ひじから肩までの部分。手首、および腕全体にもいう。②袖(そで)。また、袖の垂れ下がった部分。 ※「手(た)本(もと)」の意から。(学研)

(注の注)「手本(たもと)」は手首。男女共寝の折の枕。

(注)はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 ⇒参考 愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 ⇒なりたち 形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(学研)

 

 

―その1297―

●歌は、「石見のや打歌の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(P8)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園(P8)にある。

●歌をみていこう。

 

◆石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香

       (柿本人麻呂 巻二 一三九)

 

<書き下し>石見の海打歌(うつた)の山の木(こ)の間(ま)より我(わ)が振る袖を妹(いも)見つらむか

 

(訳)石見の海、海の辺の打歌の山の木の間から私が振る袖、この袖を、あの子は見てくれているのであろうか。(同上)

(注)打歌の山:所在未詳。「高角山」の実名らしいが、これだと見納めの山の意が伝わらない。

 

左注は、「右歌躰雖同句々相替 因此重載」<右は、歌の躰(すがた)同じといへども、句々(くく)相替(あひかは)れり。これに因(よ)りて重ねて載(の)す。>である。

 

一三六、一三七、一三八、一三九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1259、1260)」で紹介している。

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 あらためて、中西 進氏の著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)を踏まえて、一三五歌をみてみると、「つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寝し子を」と「靡く」という男女の愛の具体的描写があり、 次に「深海松の 深めて思へど さ寝(ね)し夜(よ)は 幾時(いくだ)もあらず 延(は)ふ蔦(つた)の 別れし来れば」と、慕情にくらべるとあまりに逢瀬が少ないことを嘆き、その妻との離別へと歌い進み、「肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の 黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず」と、人麻呂自身の悲痛な姿を歌い、「妻ごもる 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ」とせんすべのなさの中にあり、涙するという壮絶な結びとなっている。この壮絶さについて、中西 進氏は、前出著の中で、「離別とは、愛への告別である。だから死が愛をもって語られたように、愛もまた死をもって語られなければならなかったのである。死によって透かし見た愛がこの壮絶な結びを呼んだのではなかったか。」と書いておられる。「死によって」とあるが、梅原 猛氏が「水底の歌 柿本人麿論 上」(新潮文庫)で主張されていた、妻依羅娘子と別れ、鴨島に向かう「死」を覚悟したが故の壮絶さと考えると納得させられるものがある。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉