万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2534)―

●歌は、「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」である。

東京都府中市矢崎町 郷土の森公園万葉歌碑(宇遅部黒女) 20231118撮影

●歌碑は、東京都府中市矢崎町 郷土の森公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆阿加胡麻乎 夜麻努尓波賀志 刀里加尓弖 多麻能余許夜麻 加志由加也良牟

       (宇遅部黒女 巻二十 四四一七)

 

≪書き下し≫赤駒(あかごま)を山野(やまの)にはかし捕(と)りかにて多摩(たま)の横山(よこやま)徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ

 

(訳)赤駒、肝心なその赤駒を山野に放し飼いにして捕らえかね、多摩の横山、あの横山を歩いて行かせることになるのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)山野にはかし捕りかにて:山裾に放し飼いにして捕らえかね。「山野」は共有の野か。(伊藤脚注)

(注)多摩の横山:国府から見て相模の方角に低く連なる山。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遅部黒女」<右の一首は豊島(としま)の郡(こほり)の上丁(じやうちやう)椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が妻(め)の宇遅部黒女(うぢべのくろめ)>である。

(注)こほり【郡】名詞:律令制で、国の下に属する地方行政区画。その下に郷(ごう)・里などがある。今日の郡(ぐん)に当たる。また、「県(あがた)」とも同義に用いた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

 歌碑の解説案内碑には、「・・・武蔵の防人らはまず武蔵の国府だった府中の地に集合し、多摩川を渡り、」いま、目の前に横たわる多摩の横山を越えて生還の困難な旅に出発していった。・・・」と書かれている。



 

 次の地図で、分倍河原駅、武蔵の国国府阯、郷土の森公園の位置関係が読み取れる。

 

 グーグルマップより作成引用させていただきました。

 

 

■箱根越え万葉歌碑を訪ねて■

毎年、明治大学で特別講義の機会をいただいている。コロナ渦にあって、しばらくオンライン講義であったが、今回は久しぶりに対面授業となった。質疑応答において当事者の学生さんはもちろん、まわりの学生さんらの反応までつかめるのがなによりであった。

 特別講義は、万葉集に関してではなく、小生の退職時の仕事に絡んで、プラスチックの社会的貢献についてである。

 講義は11月18日(土)の午後である。

 

 折角の箱根越えのチャンスである。

 かねてから是非行ってみたいと考えていたのは、日本で一番古いとされる前玉神社の万葉歌碑、それと玉川碑であった。

 

 当初の計画では、18日の午前中に、府中市郷土の森公園・調布市多摩川児童公園・狛江市中和泉「玉川碑」を、19日(日)は、前玉神社・八幡山古墳・川越氷川神社を巡る予定であった。

 

 小生は、晴男であるが、何と今回は、出発時に激しい雷雨に見舞われたのである。始発電車に間に合わせるには歩いていかなければならない。やむなく最寄り駅まで、釣り用の防水ズボンをはき、荷物には45リッター用のポリ袋をかぶせ駅まで歩く。先が思いやられる。

 

 京都から新幹線である。車中、講義用のレジメをチェックしていたが、ウトウトしてしまい、車内放送で慌てて「新横浜」で下りる。よく眠ったものである。

なんと嘘みたいに晴れ渡っている。ラッキー!

 

 新横浜駅から東急新横浜線に乗り換えさらに武蔵小杉でJR南武線のコースである。

 新横浜駅で乗り換えに手間取る。完全に浦島太郎である。

 ようやく、分倍河原駅に。

 駅から歩いて20分。郷土の森公園に到着。しかしどこへ行けばいいのかわからない。案内標識をみて「郷土の森公園管理事務所」まで行く。

 そこで、万葉歌碑の場所を訪ねると郷土の森公園には「ない」との返事が。

あわてて携帯を取り出し見てもらうと「郷土の森博物館」の方であるとの返事。

 結局、元のところまで戻る羽目に。郷土の森正門受付で係の人に、園内の案内パンフレットをいただき歌碑の場所の説明を受けた。

 通常、入園料が必要であるが、農業祭が開催されており、無料であった。

無料はいいが、悔やまれるロスタイム。

 

 園内をあちこちさ迷ったおかげで、「郷土の森正門前」というバス停を見つける。帰りはこのバスを利用することにした。

 何やかやで、予定を大幅に変更せざるをえないはめに。

講義には絶対に遅刻はできない。

もう1か所見に行けないかと検討するも安全を見て、18日は、結局ここの歌碑一基で予定終了とした。

明日に期待である。




 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2533)―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(大伯皇女) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

一六五、一六六歌の題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

        (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)磯:池や川などの磯。(伊藤脚注)

(注の注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)在りと言はなくに:当時、死者に逢ったことを述べて縁者を慰める習慣があった。これを踏まえる表現。罪人については人々は口をつぐんだ。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首今案不似移葬之歌 蓋疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作るか。>である。

 

 大津皇子は謀反を企てたある意味大逆犯人であるが、鸕野皇女(うののひめみこ:後の持統天皇)は、罪を憎んで人を憎まずの形にもっていき、亡骸を丁寧に葬るのである。題詞にある「移葬大津皇子屍於葛城二上山大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬りし>」とあるが、これは殯宮(あらきのみや:埋葬までの間、種々の儀礼を行うたえに亡骸を安置しておくところ)から二上山の山頂に本葬したことをいっている。

 

 「大伯皇女と大津皇子」については、三重県HP「歴史の情報蔵」に次のように書かれている。(アンダーラインは以下で紹介するキーワード:追記させていただきました。)

「斎王大伯皇女と弟大津皇子

 斎宮は、伊勢神宮に奉仕した斎王が居た古代の役所です。斎王は、天皇の即位ごとに選定される制度でありましたが、この制度が確立されたのは 、天武天皇内親王、大伯皇女(おおくのひめみこ)が斎王に任命されてからだといわれています。今日は、この大伯皇女と弟大津皇子のお話をします。

 大伯皇女が斎王の時に詠んだ和歌が「万葉集」にあります。

   わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に 吾が立ち濡れし

   二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ

 これは、大伯皇女に会いにきた弟大津皇子を奈良に見送る歌で、幼くして母を亡くした姉と弟の親愛の情がうかがわれます。この大津皇子については天武天皇逝去後の皇位継承をめぐる事件があり、古代史上有名です。

 天武天皇には、太田皇女(おおたのひめみこ)との間に大伯皇女とその弟の大津皇子が、そして後の持統天皇となるう野讃良(うののさらら)皇后との間に草壁皇子という子供がありました。天武天皇の後の皇位の継承にあたっては、草壁皇子が最も有力な候補であり、年下である大津皇子はその次の候補でした。しかし人物的には大津皇子の方が優れていたようで、『日本書記』や『懐風藻』によると、風貌が大きく逞しく、文武両道に優れ、人望も厚かったということです。天武天皇大津皇子の才能と人望を高く評価し、政治に参加させていました。

 草壁皇子天皇即位を願う母のう野讃良皇后にとって大津皇子は最も怖い存在であり、わが子の将来のためには大津皇子を早いうちに排除する必要がありました。天武15年(686)9月に天武天皇崩御すると、う野讃良皇后は持統天皇となり、草壁皇子は皇太子に留まりました。

 そうした状況の中で、10月2日、大津皇子は捕らわれこの世を去ったのでした。24年の生涯でした。弟の死後、大伯皇女は斎王の任を解かれて都に戻りましたが、亡き弟をしのびつつ、さみしく暮らしたのでしょう。

 また、平安時代の『薬師寺縁起』という文献に拠りますと、大伯皇女は伊賀国名張郡に天武天皇の供養のために供養のために『昌福寺』というお寺を建立した記録があります。この寺院が、天武天皇の供養のために建立されたというのは表向きの理由で、実は悲運の大津皇子の冥福を祈るためだとする説もあります。なお、この昌福寺は、県指定の史跡となっている名張市夏見廃寺ではないか、とも考えられています。

※『うののさらら』の『う』は盧に鳥と書きます。」

 

 「斎宮」「斎王」ならびに皇女の歌「わが背子を・・・(巻二 一〇五歌)」「二人行けど ・・・(同 一〇六歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その427,428,429)」で紹介している。

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大津皇子の辞世の句については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で奈良県橿原市東池尻町の妙法寺手前の歌碑とともに紹介している。

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 大津皇子の辞世の漢詩懐風藻)と皇女の一六三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で、奈良県桜井市吉備春日神社の歌碑とともに紹介している。

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 夏見廃寺跡については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その392)」で紹介している。

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 今回で、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森シリーズは終わります。2基見落としたのが悔やまれる。

 初のレンタカーによる挑戦も何とか無事に終了することができたのがよかった。




 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「歴史の情報蔵」 (三重県HP)

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2532)」―

●歌は、「からたちの茨刈り除け倉建てむ尿遠くまれ櫛造る刀自」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(忌部首黒麻呂) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「忌部首詠數種物歌一首 名忘失也」<忌部首(いむべのおびと)、数種の物を詠む歌一首 名は、忘失(まうしつ)せり>である。

 

◆枳 棘原苅除曽氣 倉将立 尿遠麻礼 櫛造刀自

        (忌部黒麻呂 巻十六 三八三二)

 

≪書き下し≫からたちの茨(うばら)刈り除(そ)け倉(くら)建てむ屎遠くまれ櫛(くし)造る刀自(とじ)

 

(訳)枳(からたち)の痛い茨(いばら)、そいつをきれいに刈り取って米倉を建てようと思う。屎は遠くでやってくれよ。櫛作りのおばさんよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)まる【放る】他動詞:(大小便を)する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

 このような「物名歌」における物の名に関して、清水克彦氏は、その著「萬葉論集」(桜楓社)の中で、「いずれも、歌語とは程遠い現実世界の言葉である。すなわち、物名歌は、歌の中に、歌語にあらざる現実世界の言葉を持ち込むことによって成立する歌であり、・・・物の名は、それが歌語から遠ければ遠い程、歓迎されたと思われる。この事は、巻十六の物名歌の中に、日常の会話においてさえ忌まれようとする『屎』というような言葉が、長忌寸意吉麻呂の作(三八二八)、忌部首の作(三八三二)、高宮王の作(三八五五)と、作者を異にする三首もの作品に、物の名として指定されている事によっても知り得よう。このような、いわばもっとも非歌語的な言葉を歌の中に持ち込む事は、決して容易な事柄ではないと思われる。ところが、さらに加えて、巻十六の物名歌は、この巻の言葉で言えば、その多くが『詠数種物歌』(三八三二、三八三三、三八五五―六の各題詞)である。すなわち、物の名は一つではないのであり、しかも物名歌はすべて短歌だから、限られた三十一文字の中に、与えられた数種の物の名を詠み込まねばならない。作歌の困難は一層加わるものと考えられる。しかし、だからこそ、この条件を充たし得た物名歌は高次言語なのであり、日常言語に対して、その卓越性を主張しうるものである。・・・幾つかの困難な条件を充たして、これを意味の通った三十一文字にまとめあげたという事は、それ自身が芸であり、それ自身が聴衆の賞讃を博しうる条件であったと思われる。この巻の物名歌は、日常言語性をなお濃厚に残しつつも、同時に、この意味で日常言語を越えていたのである。」と書かれている。

 

三八二八歌と三八五五歌をみてみよう。

 

■三八二八歌■

 題詞は、「香(かう)、塔(たふ)、厠(かはや)、屎(くそ)、鮒(ふな)、奴(やつこ)を詠む歌」である。

(注)厠:便所。川隈を利用した。(伊藤脚注)

(注の注)かはや【厠】名詞:便所。 ※川の上につき出して作った「川屋」の意とも、母屋のそばに建てた「側屋(かはや)」の意ともいう。(学研)

 

◆香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴

       (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二八)

 

≪書き下し≫香(かう)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそぶな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)

 

(訳)香を塗りこめた清らかな塔に近寄ってほしくないな。川の隅に集まる屎鮒(くそぶな)など食って、ひどく臭くてきたない女奴よ。(同上)

(注)香:仏前で焚く香。(伊藤脚注)

(注)かはくま【川隈】名詞:川の流れが折れ曲っている所。「かはぐま」とも。(学研)

(注)屎鮒:淀みで流れ来る屎を餌としている鮒のことか。

(注)いたき女奴:ひどくにおう女奴は。(伊藤脚注)

(注の注)いたし【痛し・甚し】形容詞:①痛い。▽肉体的に。②苦痛だ。痛い。つらい。▽精神的に。③甚だしい。ひどい。④すばらしい。感にたえない。⑤見ていられない。情けない。(学研)ここでは、⑤の意

(注の注)めやつこ【女奴】:女の奴隷。また、女をののしっていう語。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 三八三二、三八二八歌については、万葉時代のトイレとともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1227)」で紹介している。

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■三八五五歌■

題詞は、「高宮王詠數首物歌二首」<高宮王(たかみやのおほきみ)、数種の物を詠む歌二首>である。

 

◆           ▼莢尓 延於保登礼流 屎葛 絶事無 宮将為

       (高宮王 巻十六 三八五五)

   ▼は「草かんむりに『皂』である。「▼+莢」で「ざうけふ」と読む。

 

≪書き下し≫ざう莢(けふ)に延(は)ひおほとれる屎葛(くそかづら)絶ゆることなく宮仕(みやつか)へせむ

 

(訳)さいかちの木にいたずらに延いまつわるへくそかずら、そのかずらさながらの、こんなつまらぬ身ながらも、絶えることなくいついつまでも宮仕えしたいもの。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)おほとる 自動詞:乱れ広がる。(学研)

(注)上三句は序。「絶ゆることなく」を起こす。自らを「へくそかずら」に喩えている。

(注)ざう莢(けふ)>さいかち【皂莢】:マメ科の落葉高木。山野や河原に自生。幹や枝に小枝の変形したとげがある。葉は長楕円形の小葉からなる羽状複葉。夏に淡黄緑色の小花を穂状につけ、ややねじれた豆果を結ぶ。栽培され、豆果を石鹸(せっけん)の代用に、若葉を食用に、とげ・さやは漢方薬にする。名は古名の西海子(さいかいし)からという。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)へくそかづら〕【屁糞葛】:アカネ科の蔓性(つるせい)の多年草。草やぶに生え、全体に悪臭がある。葉は卵形で先がとがり、対生。夏、筒状で先が5裂した花をつけ、灰白色で内側が赤紫色をしている。実は丸く、黄褐色。やいとばな。さおとめばな。くそかずら。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この歌については、三八五六歌とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2372)」で紹介している。

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 「物の名」から「物名歌」を改めて見直してみるとこれまでと違う面白みに気づかされたと同時に万葉集のさらなる懐の深さに驚かされたのである。おそるべし萬葉集・・・。

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉論集」 清水克彦氏 著 (桜楓社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2531)―

●歌は、「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(紀女郎) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

 一四六〇、一四六一歌の題詞は、「紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首」<紀女郎(きのいらつめ)大伴宿禰家持に贈る歌二首>である。

 

◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代

        (紀女郎 巻八 一四六一)

 

≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ

 

(訳)昼間は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれてねむるという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)きみ【君・公】名詞:①天皇。帝(みかど)。②主君。主人。③お方。▽貴人を敬っていう語。④君。▽人名・官名などの下に付いて、「…の君」の形で、その人に敬意を表す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ここでは、②の意

(注)わけ【戯奴】代名詞:①私め。▽自称の人称代名詞。卑下の意を表す。②おまえ。▽対称の人称代名詞。目下の者にいう。(学研)       

 

 

 

 

紀女郎(きのいらつめ)については、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」に「生没年未詳。『万葉集』末期の歌人。別名紀小鹿(おしか)。紀鹿人(かひと)の娘で、安貴王(あきのおおきみ)の妻。『万葉集』に12首の短歌が所収。このうち5首が大伴家持(おおとものやかもち)への贈歌。いずれも友交関係による社交的な歌であるが、当時の一般的傾向として恋歌的な、あるいは諧謔(かいぎゃく)的なことば遣いが持ち込まれる。『戯奴(わけ)がためわが手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)そ召して肥えませ』など、当時の新風の一典型といえる。事実とは異なる恋や、言語遊戯的な諧謔を通して、和歌が社交の重要な具となりつつあった。また一方では、月下の梅への観照による新しい風流の歌をも詠んでいる。」と書かれている。

 

 

 大伴家持とのやりとりをみてみよう。

 

■一四六〇、一四六一歌(紀女郎)・一四六二、一四六三歌(家持)■

題詞は、「紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首」<紀女郎(きのいらつめ)、大伴宿禰家持に贈る歌二首>である。

 

◆戯奴<變云和氣>之為 吾手母須麻尓 春野尓 抜流茅花曽 御食而肥座

         (紀女郎 巻八 一四六〇)

 

≪書き下し≫戯奴(わけ)<変して「わけ」といふ>がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥(こ)えませ

 

(訳)そなたのために、私が手も休めずに春の野で抜き採った茅花(つばな)ですよ、これは。食(め)し上がってお太りなさいませよ。(同上)

(注)戯奴(わけ):「若」と同根。下僕などを呼ぶ語。ここは戯れて言ったもの。(伊藤脚注)

(注の注)わけ【戯奴】代名詞:①私め。▽自称の人称代名詞。卑下の意を表す。②おまえ。▽対称の人称代名詞。目下の者にいう。(学研)ここでは②の意

(注)変して:訓じて、の意。(伊藤脚注)

(注)手もすまに:我が手も休めずに。「すま」は休む意か。ニは打消し(伊藤脚注)

(注の注)てもすまに【手もすまに】分類連語:手を働かせて。一生懸命になって。(学研)

 

 

◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代

        (紀女郎 巻八 一四六一)

 

≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ

 

(訳)昼間は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれてねむるという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 左注は、「右は、合歓(ねぶ)の花と茅花(つばな)を折り攀(よ)ぢて贈る」である。

 

 

 題詞は、「大伴家持、贈り和(こた)ふる歌二首」である。

 

◆吾君尓 戯奴者戀良思 給有 茅花乎雖喫 弥痩尓夜須

        (大伴家持 巻八 一四六二)

 

≪書き下し≫我(あ)が君に戯奴(わけ)は恋ふらし賜(たば)りたる茅花(つばな)を食(は)めどいや痩せに痩す

 

(訳)ご主人様に、この私めは恋い焦がれているようでございます。頂戴した茅花をいくら食べても、ますます痩せるばかりです。(同上)

(注)我が君に:我が主君に。(伊藤脚注)

(注)痩せに痩す:恋のあまりに痩せる。戯れて逆襲したもの。(伊藤脚注)

 

 

 

◆吾妹子之 形見乃合歓木者 花耳尓 咲而蓋 實尓不成鴨

        (大伴家持 巻八 一四六三)

 

≪書き下し≫吾妹子(わぎもこ)が形見の合歓木(ねぶ)は花のみに咲きてけだしく実(み)にならじかも

 

(訳)あなたが下さった形見のねむは、花だけ咲いて、たぶん実を結ばないのではありますまいか。(同上)

(注)けだし【蓋し】副詞①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研)

(注)実にならじ:交合が実らないことを寓する。(伊藤脚注)

 

 一四六〇から一四六三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その487)」で紹介している。

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■七六二、七六三歌(紀女郎)・七六四歌(家持)■

題詞は、「紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首  女郎名曰小鹿也」<紀女郎(きのいらつめ)、大伴宿禰家持に贈る歌二首  女郎、名を小鹿といふ>である。

 

◆神左夫跡 不欲者不有 八多也八多 如是為而後二 佐夫之家牟可聞

       (紀女郎 巻四 七六二)

 

≪書き下し≫神(かむ)さぶといなにはあらずはたやはたかくして後(のち)に寂(さぶ)しけむかも

 

(訳)もう老いぼれだから恋どころではないと拒(こば)むわけではないのです。そうはいうものの、こうしてお断りしたあとでさびしい気持ちになるのかもしれません。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)神さぶといなにはあらず:年老いているからいやだというわけではない。以下三首、「老いらくの恋」の遊び。(伊藤脚注)

(注)はたやはた:その反面。そうはいうものの。(伊藤脚注)

(注の注)はたやはた【将や将】分類連語:ひょっとして。もしや万一。 ※副詞「はたや」に副詞「はた」を続け、さらに強調する語。(学研)

 

 

 

◆玉緒乎 沫緒二搓而 結有者 在手後二毛 不相在目八方

        (紀女郎 巻四 七六三)

 

≪書き下し≫玉の緒(を)を沫緒(あわを)に搓(よ)りて結(むす)べらばありて後にも逢はずあらめやも

 

(訳)互いの玉の緒の命を、沫緒(あわお)のようにやわらかく搓(よ)り合わせて結んでおいたならば、生き長らえて、のちにでもお逢いできることがあるかもしれません。(同上)

(注)たまのを【玉の緒】名詞:①美しい宝玉を貫き通すひも。②少し。しばらく。短いことのたとえ。③命。(学研)ここでは③の意

(注)沫緒:糸を緩く搓り合わせた緒。以下二句、互いの心を緩く結ぶ意。(伊藤脚注)

(注の注)あわを【沫緒】〘名〙: 緒のより方の名。具体的なより方については諸説ある。あわ。 [補注]糸のより方をいうのか、紐の結び方をいうのか、さらにその状態が柔らかいのか強いのか、さまざまに説かれるが、未詳。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)ありて後にも逢はずあらめやも:生き長らえて後に逢わないことがありましょうか。今逢うことを言外に断ったもの。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で、万葉集に収録されている紀女郎の十二首とともに紹介している。

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題詞は、「大伴宿祢家持和歌一首」<大伴宿禰家持が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆百年尓 老舌出而 与余牟友 吾者不猒 戀者益友

       (大伴家持 巻四 七六四)

 

≪書き下し≫百年(ももとせ)に老舌(おいした)出(い)でてよよむとも我(あ)れはいとはじ恋ひは増(ま)すとも

 

(訳)あなた様が百歳になって老舌をのぞかせてよぼよぼになっても、私はけっしていやがったり致しません。恋しさはますます募ることはあっても。(同上)

(注)よよむ[動]:年老いて腰が曲がる。よぼよぼになる。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 

■七七五歌(家持・)七七六歌(紀女郎)■

題詞は、「大伴宿祢家持贈紀女郎歌一首」<大伴宿禰家持、紀女郎(きのいらつめ)に贈る歌一首>である。

 

◆鶉鳴 故郷従 念友 何如裳妹尓 相縁毛無寸

       (大伴家持 巻四 七七五)

 

≪書き下し≫鶉(うづら)鳴く古(ふ)りにし里ゆ思へども何(なに)ぞも妹(いも)に逢ふよしもなき

 

(訳)鶉の鳴く古びた里にいた頃からずっと思い続けてきたのに、どうしてあなたにお逢いするきっかけもないのでしょう。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)鶉鳴く:「古る」の枕詞。鶉は荒涼たる草深い野に鳴く。(伊藤脚注)

(注の注)うずらなく【鶉鳴く】:[枕]ウズラは草深い古びた所で鳴くところから「古(ふ)る」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)古りにし里ゆ:古さびた奈良の里にいた時代からずっと。(伊藤脚注)

(注)にし 分類連語:…てしまった。(学研)

(注)よし【由】名詞:①理由。いわれ。わけ。②口実。言い訳。③手段。方法。手だて。④事情。いきさつ。⑤趣旨。⑥縁。ゆかり。⑦情趣。風情。⑧そぶり。ふり。(学研)ここでは③の意

 

 

 

題詞は、「紀女郎報贈家持歌一首」<紀女郎、家持に報(こた)へ贈る歌一首>である。

 

◆事出之者 誰言尓有鹿 小山田之 苗代水乃 中与杼尓四手

        (紀女郎 巻四 七七六)

 

≪書き下し≫言出(ことだ)しは誰(た)が言(こと)にあるか小山田(をだやま)の苗代水(なはしろみず)の中淀にして

 

(訳)先に言い寄ったのはどこのどなただったのかしら。山あいの苗代の水が淀んでいるように、途中でとだえたりして。(同上)

(注)小山田の以下二句序。「中よど」を起す。(伊藤脚注)

(注)中よど:流れが中途で止まること。妻問いが絶えることの譬え。(伊藤脚注)

(注の注)よど【淀・澱】名詞:淀(よど)み。川などの流れが滞ること。また、その場所。(学研)

 

 「言出(ことだ)しは誰(た)が言(こと)にあるか」と、大上段から切り返しているところは、紀女郎の勝気な性格が出ているするどい歌である。

また、女郎の名は、「小鹿」というから、疑問の助詞の「か」に「鹿」をあてたのは、書き手の戯れであろうか。

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その945)」で紹介している。

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「小山田の苗代水の中淀」について、上野 誠氏は、その著「万葉集の心を読む」(角川ソフィア文庫)の中で、「『山田の苗代は風邪ひかすな』・・・これは山の水は冷たいので苗の発育には悪く、水を温めることが必要だという・・・言葉なのです。・・・わざと水路を長くして、水が流れる間に温まるのを待つ・・・ところが、水路を長くすると、『よど』ができやすく・・・水が滞って苗代が干上がってしまう。・・・だから『山田の苗代は風邪ひか』さないように水はよく温めるが、水が滞らないように見張る必要もある、・・・おそらく当時においても、そういった知識が多くの人に共有されていたのではないでしょうか。だからこそ『小山田の』という言葉が何のことわりもなく冠されているのでしょう。そして、それは家持の『鶉鳴く 故りにし郷』に呼応した切り返しとして考えられた表現なのでした。・・・紀女郎の巧みな序は、笑いによって相手を揶揄しながら、そこに逃げ道をも作るものでした。」と書かれている。「『ああいえば、こういう』という男女間のやり取りは、・・・一つの文芸の伝統であり、歌垣の文化の流れを引き継ぐものである、と考えることもできます。」とも指摘されている。

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集の心を読む」 上野 誠 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク デジタル大辞泉

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2530)―

●歌は、「あぢさはふ妹が目離れて敷栲の枕もまかず桜皮巻き作れる船に・・・」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(山部赤人) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不巻 櫻皮纒 作流舟二 真梶貫 吾榜来者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際従 吾宅乎見者 青山乃 曽許十方不見 白雲毛 千重尓成来沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隠 嶋乃埼ゝ 隈毛不置 憶曽吾来 客乃氣長弥

     (山部赤人 巻六 九四二)

 

≪書き下し≫あぢさはふ 妹(いも)が目離(か)れて 敷栲(しきたへ)の 枕もまかず 桜皮(かには)巻(ま)き 作れる船に 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 淡路(あはぢ)の 野島(のしま)も過ぎ 印南都麻(いなみつま) 唐荷(からに)の島の 島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山(あをやま)の そことも見えず 白雲(しらくも)も 千重(ちへ)になり来(き)ぬ 漕ぎたむる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々(さきざき) 隈(くま)も置かず 思ひぞ我(わ)が来(く)る 旅の日(け)長み

 

(訳)いとしいあの子と別れて、その手枕も交わしえず、桜皮(かにわ)を巻いて作った船の舷(ふなばた)に櫂(かい)を通してわれらが漕いで来ると、いつしか淡路の野島も通り過ぎ、印南都麻(いなみつま)をも経て唐荷の島へとやっと辿(たど)り着いたが、その唐荷の島の、島の間から、わが家の方を見やると、そちらに見える青々と重なる山のどのあたりがわが故郷なのかさえ定かでなく、その上、白雲までたなびいて幾重にも間を隔ててしまった。船の漕ぎめぐる浦々、行き隠れる島の崎々、そのどこを漕いでいる時もずっと、私は家のことばかりを思いながら船旅を続けている。旅の日数(ひかず)が重なるままに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)あぢさはふ 分類枕詞:①「目」にかかる。語義・かかる理由未詳。②「夜昼知らず」にかかる。語義・かかる理由未詳。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ※ここでは①

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(学研)

(注)かには(桜皮):船で使う場合は、木材の接合部分に用い、防水の役目もしていた。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)まかぢ【真楫】名詞:楫の美称。船の両舷(りようげん)に備わった楫の意とする説もある。「まかい」とも。(学研)

(注)印南都麻:加古川河口の島か。播磨風土記に記載がある。

(注)我家(わぎへ)を見れば:我が家の方角。(伊藤脚注)

(注)青山のそことも見えず。:連なる青山のどのあたりかもわからず。(伊藤脚注)

(注)こぎたむ【漕ぎ回む・漕ぎ廻む】自動詞:(舟で)漕ぎめぐる。(学研)  

(注)ことごと【事事】名詞:一つ一つのこと。諸事。(学研)

 

九四二から九四五歌の題詞は、「過辛荷嶋時山部宿祢赤人作歌一首并短歌」<唐荷(からに)の島を過し時に、山部宿禰赤人が作る歌一首并せて短歌>である。

(注)唐荷の島:兵庫県西部、室津沖合の島(伊藤脚注)

 

 長歌ならびに反歌三首すべて、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その612)」で紹介している。  

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 「かには(桜皮)」ならびに「あぢさはふ」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1105)」で紹介している。

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 「唐荷島」については、「兵庫県南西部、たつの市に属す無人島。唐味(からみ)島ともいい、室津(むろつ)の沖合いに並ぶ三つの島、地の唐荷島、中の唐荷島、沖の唐荷島の総称。『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』に、韓人(からびと)の船が難破して、その荷がこの島に流れ着いたので韓荷島と名づけたとある。『万葉集』では辛荷島と詠まれ、山部赤人の『玉藻(たまも)刈る辛荷の島に島廻(しまみ)する鵜(う)にしもあれや家念(おも)はざらむ』の歌で知られる。」とある。(コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))




 唐荷の島の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その687)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2529)―

●歌は、「山の際に雪は降りつつしかずがにこの川楊は萌えにけるかも」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(作者未詳) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆山際尓 雪者零管 然為我二 此河楊波 毛延尓家留可聞

       (作者未詳 巻十 一八四八)

 

≪書き下し≫山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも

 

(訳)山あいに雪は降り続いている。それなのに、この川の楊(やなぎ)は、もう青々と芽を吹き出した。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)   

(注)しかすがに【然すがに】副詞:そうはいうものの。そうではあるが、しかしながら。※上代語。 ⇒参考:副詞「しか」、動詞「す」の終止形、接続助詞「がに」が連なって一語化したもの。中古以降はもっぱら歌語となり、三河の国(愛知県東部)の歌枕(うたまくら)「志賀須賀(しかすが)の渡り」と掛けて用いることも多い。一般には「しか」が「さ」に代わった「さすがに」が多く用いられるようになる。(学研)

 

「柳」は、枝を上に張るカワヤナギ(楊)と、下に垂れるシダレヤナギ(柳)に分かれる。

 

 「川楊、河楊」の場合は、カワヤナギとみて差し支えないであろう。

 集中で「川楊、河楊」と書き記してる歌は、上記の一八四八歌と一二九三、一七二三歌である。

 

■一二九三歌■

◆丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一二九三)

 

≪書き下し≫霰(あられ)降(ふ)り遠江(とほつあふみ)の吾跡川楊(あとかわやなぎ) 刈れどもまたも生(お)ふといふ吾跡川楊

 

(訳)遠江の吾跡川の楊(やなぎ)よ。刈っても刈っても、また生い茂るという吾跡川の楊よ。(同上)

(注)あられふり【霰降り】[枕]:あられの降る音がかしましい意、また、その音を「きしきし」「とほとほ」と聞くところから、地名の「鹿島(かしま)」「杵島(きしみ)」「遠江(とほつあふみ)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)やうりう【楊柳】名詞:やなぎ。 ※「楊」はかわやなぎ、「柳」はしだれやなぎの意。(学研)

(注)恋心を川楊に譬える。(伊藤脚注)

(注)吾跡川:静岡県浜松市北区細江町の跡川か。(伊藤脚注)

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1592)」で吾跡川の歌碑とともに紹介している。

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■一七二三歌■

◆河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨

       (絹 巻九 一七二三)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く六田(むつた)の川の川楊(かはやなぎ)のねもころ見れど飽(あ)かぬ川かも

 

(訳)河鹿の鳴く六田の川の川楊の根ではないが、ねんごろにいくら眺めても、見飽きることのない川です。この川は。(同上)

(注)川楊:川辺に自生する。挿し木をしてもすぐに根付くほどの旺盛な生命力を持っている。ネコヤナギとも言われる。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会) 

(注)ねもころ【懇】副詞:心をこめて。熱心に。「ねもごろ」とも。(学研)

 

 この歌の題詞は、「絹歌一首」<絹が歌一首>である。

(注)絹:伝未詳。土地の遊行女婦か。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その767)」で吉野郡大淀町下渕 鈴ヶ森行者堂前の歌碑(一一〇三歌)とともに紹介している。

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 この三首以外は「柳」と見て差し支えがないように思えるが、少し細かくみてみよう。

 

 巻十の一八四六から一八四九歌の題詞は「柳を詠む」である。

 一八四七歌をみてみよう。

 

◆淺緑 染懸有跡 見左右二 春楊者 目生来鴨

        (作者未詳 巻十 一八四七)

 

≪書き下し≫浅緑(あさみどり)染(そ)め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも 

 

(訳)薄緑色に糸を染めて木に懸けたと見紛うほどに、春の柳は、青々と芽を吹き出した。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 原歌では「楊」であるが、「春楊」を「春の柳」と書き下している。

 この場合は、「楊」と表記されているが、歌の意味からは「シダレヤナギ」である。

 

 

 また、表記に、垂柳(四垂柳)の例がある。

 

◆百礒城 大宮人之 蘰有 垂柳者 雖見不飽鴨

        (作者未詳 巻十 一八五二)

 

≪書き下し≫ももしきの大宮人(おほみやひと)のかづらけるしだり柳は見れど飽(あ)かぬかも 

 

(訳)ももしきの大宮人たちが縵(かずら)にしているしだれ柳は、見ても見ても見飽きることがない。(同上)

 

 「垂柳」は、一八五二、一八九六、一九〇四(四垂柳)の三首である。これは文字通り「シダレヤナギ」で間違いはないだろう。

 

 

 「安乎楊木(あをやぎ)」と表記した例が、三五四六歌、「安乎楊疑(あをやぎ」が三六〇三歌にある。

 

安乎楊木能 波良路可波刀尓 奈乎麻都等 西美度波久末受 多知度奈良須母

        (作者未詳 巻十四 三五四六)

 

≪書き下し≫青柳(あをやぎ)の萌(は)ろろ川門(かはと)に汝(な)を待つと清水(せみど)は汲(く)まず立処(たちど)平(なら)すも

 

(訳)(訳)青柳が芽を吹く川の渡し場で、お前さんを心待ちにしながら、清水は汲まずに、往ったり来たりして足許を踏み平(な)らしている。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)萌らろ:「萌れる」の東国形 

(注の注)はる【張る】自動詞:①(氷が)はる。一面に広がる。②(芽が)ふくらむ。出る。芽ぐむ。(学研)

(注)かはと【川門】名詞:両岸が迫って川幅が狭くなっている所。川の渡り場。(学研)

(注)清水(せみど):シミズの訛り

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その958)」で紹介している。

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安乎楊疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母

        (作者未詳 巻十五 三六〇三)

 

≪書き下し≫青柳(あをやぎ)の枝(えだ)伐(き)り下(お)ろしゆ種(だね)蒔(ま)きゆゆしき君に恋ひわたるかも

 

(訳)青柳の枝を伐り取り挿し木にして、斎(い)み浄めたゆ種を蒔くそのゆゆしさのように、馴れ馴れしくできない君、そんなあなたさまに、焦がれつづけています。(同上)

(注)青柳の枝伐り下ろし:青柳の枝を伐って苗代にさして。苗の発育を祈る神事。

(注)ゆ種:斎み浄めた籾種。

(注)上三句は序。「ゆゆしき」を起こす。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その620)」で紹介している。

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 三五四六、三六〇三歌はどちらも「青柳」と書き下されているが、三五四六歌では歌の解釈からシダレヤナギがぴったりであるが、三六〇三歌では小生では今のところ判断がつかない。「やな」に「楊」を書いたのは書き手の遊び心なのであろう。

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

★「植物で見る万葉の世界」 (國學院大學「万葉の花の会」発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2528)―

●歌は、「岩つなのまたをちかえりあをによし奈良の都をまたも見むかも」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森(作者未詳) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 題詞は、「傷惜寧樂京荒墟作歌三首  作者不審」<寧楽(なら)の京の荒墟(くわうきよ)を傷惜(いた)みて作る歌三首 作者審らかにあらず>である。

(注)寧楽の京の荒墟:天平十二年(740年)から同十七年奈良遷都まで古京と化す。(伊藤脚注)

 

◆石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨

      (作者未詳 巻六 一〇四六)

 

≪書き下し≫岩つなのまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも

 

(訳)這(は)い廻(めぐ)る岩つながもとへ戻るようにまた若返って、栄えに栄えた都、あの奈良の都を、再びこの目で見ることができるであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)岩つなの:「またをちかへり」の枕詞。「岩つな」は蔓性の植物。(伊藤脚注)

(注の注)岩綱【イワツナ】:定家葛の古名、岩に這う蔦や葛の総称(weblio辞書 植物名辞典)

(注の注の注)「石綱(イワツナ)」は「石葛(イワツタ)」と同根の語で岩に這うツタのことだが、延びてもまた元に這い戻ることから「かへり」にかかる枕詞となる、(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)をちかへる【復ち返る】自動詞:①若返る。②元に戻る。繰り返す。(学研)

 

 奈良の都が突然廃都となり、伊勢行幸の後に恭仁京遷都となるが、作者未詳とはいえ、この三首に見られる、無常観、虚無感ははかりしえない。

 

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1097)」で「彷徨の五年」に絡んだ歌とともに紹介している。

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「彷徨五年」については、「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」に次のように書かれている。

「彷徨五年(ほうこうごねん)は、奈良時代天平12年(740年)から天平17年(745年)5月にかけて、聖武天皇が当時の都であった平城京を突然捨て、新規に建設した恭仁宮と紫香楽宮、副都として整備されていた難波宮の3か所を転々としながら政治を行った時代。天平12年10月29日に天皇が伊勢方面へ旅立った東国行幸に始まり、天平17年5月11日に天皇平城京に戻るまでを指す。」

 

 恭仁京については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねてシリーズ」の前のシリーズ「ザ・モーニングセット&フルーツデザート190226(万葉集時代区分・第4期<その1>)」で紹介している。

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 紫香楽の宮については、「ザ・モーニングセット&フルーツデザート190301(紫香楽宮阯を訪ねる)」で紹介している。

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「彷徨の五年」は「逃避行」と言われているが、松浦茂樹氏(建設産業史研究会代表(工学博士))の稿「聖武天皇と国土経営」(水利科学 No.358 2017)では、水運という国土経営の観点から新たな仮説を論じておられる。これについては拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1225)」で紹介している。

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 「彷徨の五年」というのも万葉集に取り組んで初めて知ったことである。機会があれば、彷徨五年の足取りを追ってみたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「聖武天皇と国土経営」 松浦茂樹氏(建設産業史研究会代表(工学博士))稿 (水利科学 No.358 2017)

★「植物で見る万葉の世界」 (國學院大學「万葉の花の会」発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「weblio辞書 植物名辞典」