万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2527)―

●歌は、「玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(長忌寸意吉麻呂) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>である。この互いに無関係の四つのものを、ある関連をつけて即座に歌うのが条件であった。

 

◆玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為

        (長忌寸意吉麻呂  巻一六  三八三〇)

 

≪書き下し≫玉掃(たまはばき) 刈(か)り来(こ)鎌麿(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため

 

(訳)箒にする玉掃(たまばはき)を刈って来い、鎌麻呂よ。むろの木と棗の木の根本を掃除するために。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)玉掃:メドハギ、ホウキグサなどの説があるが、今日ではコウヤボウキ(高野箒)とするのが定説である。現在でも正倉院に「目利箒(めききのはふき)」として残されているが、これがコウヤボウキで作られていたことが分かった。しかしコウヤボウキの名は後世高野山で竹を植えられなかったことから、これで箒を作ったことに由来するといわれているから、あるいは別の名があったかもしれない。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學「万葉の花の会」発行)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2067)」で『玉箒』とともに紹介している。

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 長忌寸意吉麻呂の歌全十四首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その987)」で紹介している。

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「忌寸」という姓について調べてみよう。

コトバンク 株式会社平凡社 改訂新版 世界大百科事典」の「八色の姓 (やくさのかばね)」に次のように書かれている。

「684年(天武13)に制定された8種類の姓。・・・真人(まひと)、朝臣(あそん)/(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8種類があげられている。第1の真人は、主として継体天皇以降の天皇の近親で、従来、公(君)(きみ)の姓を称していたものに授けられた。第2の朝臣は、物部連や中臣連は例外として、主として臣の姓を有していた景行天皇以前の天皇の後裔と伝える皇別氏族に与えられた。第3の宿禰は、伴造氏族であるもと連の姓を称していた天神、天孫の後裔という神別系の有力氏族に賜った。そして第4の忌寸は、主として従来、直(あたい)の姓を持っていた国造氏族や、渡来系の有力氏族に与えられた。第5の道師以下は、この新姓制定にともなう賜姓がなされておらず、道師、稲置は、ついに姓として姿を見せていない。ただし第6の臣、第7の連は、他の旧姓、たとえば造(みやつこ)、首(おびと)などとともに7~8世紀を通じて、諸氏族に賜っており、とくに八色の姓の制定以後の臣、連の両姓は、第6の臣,第7の連に相当するものとみなしてよいであろう。684年の段階で、八色の姓を制定したことは、姓の制度の面において、天皇の近親氏族を真人として、その第1位に置き、以下、朝臣宿禰に有力氏族を配し、整然とした姓による政治的秩序づけを意図し、さらにその制度の上に天皇、王族が位するという律令国家体制確立のための一つの足がためをねらったものと考えられる。

 

主な万葉歌人を上げてみると次のとおりである。

太原真人今城、柿本朝臣人麻呂、笠朝臣金村、大伴宿禰家持、山部宿禰赤人、長忌寸意吉麻呂、山上憶良、高市黒人、高橋虫麻呂

 

大伴坂上郎女については、唯一、巻八 一四五〇歌の題詞に「大伴宿禰坂上郎女」と書かれていた。この歌をみてみよう。

 

 

題詞は、「大伴宿祢坂上郎女歌一首」<大伴宿禰坂上郎女が歌一首>である。

(注)坂上郎女に姓(かばね)を加えた唯一の例。身分の高い女性には姓を用いることがある。(伊藤脚注)

 

◆情具伎 物尓曽有鶏類 春霞 多奈引時尓 戀乃繁者

       (大伴坂上郎女 巻八 一四五〇)

 

≪書き下し≫心ぐきものにぞありける春霞(はるかすみ)たなびく時に恋の繁(しげ)きは

 

(訳)何とも息苦しい思いのするものです。春霞のたなびくこの時節に、恋心がちぢにいりみだれるなんていうことは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)こころぐし【心ぐし】形容詞:心が晴れない。せつなく苦しい。(学研)

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社 改訂新版世界大百科事典」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2526)―

●歌は、「橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(作者未詳) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「古歌曰」<古歌に曰(い)はく>である。

 

◆橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可

       (作者未詳 巻十六 三八二二)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)の寺の長屋(ながや)に我(わ)が率寝(ゐね)し童女(うなゐ)放髪(はなり)は髪上げつらむか

 

(訳)橘の寺の長屋に私が引っ張り込んで寝た、童女髪(うなゐ)というか放髪(はなり)というかあのおぼこむすめは、もう一人前に髪を結い上げていることだろうかなあ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)橘の寺:明日香にあった橘寺。(伊藤脚注)

(注)ゐぬ【率寝】他動詞:連れていって一緒に寝る。共寝する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うなゐはなり【髫髪放髪・童女放髪】〘名〙: (「うない」は髪を項(うなじ)のあたりに垂らしているのをいい、「はなり」は髪をあげないでおさげのままにしていることをいう) 童女が髪をまだ結い上げないで振分髪にしていること。また、その童女。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)かみあぐ【髪上ぐ】分類連語:①成人の儀式の髪上げをする。②(ある仕事のために)髪を上げる。(学研)ここでは①の意

 

左注は、「右歌椎野連長年脉曰 夫寺家之屋者不有俗人寝處 亦稱若冠女曰放髪丱矣 然則腹句已云放髪丱者 尾句不可重云著冠之辞哉」<右の歌は、椎野連長年(しひののむらじながとし)、脈(とり)めて曰はく、「それ、寺家(じけ)の屋は、俗人(よのひと)の寝(ぬ)る処にあらず。また、若冠(じやくくわん)の女(をみな)を偁(い)ひて、放髪丱(はなり)といふ。しからばすなはち、腰句(えうく)、すでに放髪丱と云へれば、尾句(びく)、重ねて著冠(ちやくわん)の辞(こと)を云ふべからじか」といふ>である。

(注)椎野連長年:伝未詳。「椎」にシヒ(誣・強)の意をみているか。(伊藤脚注)

(注)みゃく【脈/脉】① 動物の体内で血液が流通する管。血管。②脈拍。「—が乱れる」③《医師が患者の脈拍をみて病状を診断するところから》先の望み。見込み。➃ひとつづきになっているもの。筋道。「話の—をたどる」(weblo辞書 デジタル大辞泉)ここでは➃の意

(注)若冠の女:ここは成人の髪上げした女。(伊藤脚注)

(注)放髪丱:成人の髪型を曲解している。(伊藤脚注)

(注)腰句(ようく)〘名〙: 和歌や漢詩で、第三番目の句をいう。時には四句目をさすこともある。こしの句。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)びく【尾句】① 終わりの句。特に律詩の最後の2句。②短歌の第3句以下の句。特に第5句。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)著冠:ここは女の成人式の髪上げ。(伊藤脚注)

(注)云ふべからじか:言うべきではあるまいよ、(伊藤脚注)

 

 

 三八二三歌もみてみよう。

題は、「决曰」<決(さだ)めて日はく>である。

(注)正しいと定めてこ言った。(伊藤脚注)

 

◆橘之 光有長屋尓 吾率宿之 宇奈為放尓 髪擧都良武香

       (作者未詳 巻十六 三八二三)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)の照れる長屋に我(わ)が率(ゐ)寝(ね)し童女放髪(うなゐはなり)に髪上げつらむか

 

(訳)橘の照り映える長屋に、私が引っ張り込んで寝た、あの童女髪のおぼこは、もうお下げを人並みの髪に結い上げていることだろうかなあ。(同上)

(注)前歌の「橘」を植物に取りなして改めたもの。前歌の「俗人云々」に対応。(伊藤脚注)

(注)童女放髪:童女は放髪に。一語である前歌の「童女放髪」を二語と見て改めたもの。曲解に基づく改悪。以上はわざと「誣」を楽しんだ話か。(伊藤脚注)

 

 

 三八二二の左注について、池田弥三郎氏は、その著「万葉びとの一生」(講談社現代新書)のなかで、「・・・原文の『童女波奈里』に対応して、左注の歌は『宇奈為放』と書き記しているので、・・・童女うなゐ、放ははなりと訓むことが明らかだ・・・しかし、うなゐはなりという語はうなゐはなりと切れて、二語の接続している語なのか、うなゐの状態のはなりという言い方をしている語なのか、はっきりしない。本来は、うなゐという髪型の少女と、はなりという髪型の少女とは、年齢段階はそれぞれ異なるので、一人の女性を、うなゐはなりと、接続した形の一語で言い表していることについては、問題があるわけである。

 これについては、『万葉集』では、左注として、椎野連長年のものものしい説を引用している。その指摘は二点についてだが、二番目の指摘がこの点に触れている。

  • 寺の長屋は僧の住むところで、俗人の寝所ではない。だからおかしい。『照れる長屋』であろう。また、
  • うなゐはなりとは元服の女のことで、それがさらに『髪をあげる』というのはおかしい。これは、『うなゐが、はなりに』髪をあげたとあるべきだろう。したがってこの歌は、

  橘の 照れる長屋に わが率寝し うなゐ はなりに 髪あげつらむか

 であろう、とした。この訂正の歌について、椎野連長年は、『決して日く』と記しているのだが、その言い方が自信たっぷりで、いかにもおかしい。

 椎野連というのは、おそらく『志斐ノ連』であろう。そうだとすれば、その名自身、こじつけの本家みたいな名である。・・・『万葉集』の巻三に、持統天皇と志斐ノ嫗(しひのおうな)との歌のやりとり(二三六・二三七)があり、その中に『強語』という語がでてくる。しひがたりと訓む。すなわち『こじつけ物語』だ。そうでないことを、むりやりにこじつけて、そうだと証明してしまうのだ。ここにでてくる椎野連も、こういう風に名を記してはいるが、これも『しひ』(強ふ・誣ふ)を名告っている同じ仲間の者に違いない。」と書いておられる。

 

 持統天皇と志斐ノ嫗(しひのおみな)との歌のやりとり(二三六・二三七)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で紹介している。

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 またまた広大な万葉集の海を見せつけられたように思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉びとの一生」 池田弥三郎 著 (講談社現代新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2525)―

●歌は、「野辺見ればなでしこの花咲にけり我が待つ秋は近づくらしも」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(作者未詳) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆野邊見者 瞿麦之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母

      (作者未詳 巻十 一九七二)

 

≪書き下し≫野辺(のへ)見ればなでしこの花咲きにけり我(わ)が待つ秋は近づくらしも

 

(訳)野辺を見やると、なでしこの花がもう一面に咲いている。私が待ちに待っている秋は、すぐそこまで来ているらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)らし 助動詞特殊型 《接続》活用語の終止形に付く。ただし、ラ変型活用の語には連体形に付く。:①〔推定〕…らしい。きっと…しているだろう。…にちがいない。▽現在の事態について、根拠に基づいて推定する。②〔原因・理由の推定〕(…であるのは)…であるかららしい。(…しているのは)きっと…というわけだろう。(…ということで)…らしい。▽明らかな事態を表す語に付いて、その原因・理由となる事柄を推定する。

助動詞特殊型語法(1)連体形と已然形の「らし」(2)上代の連体形「らしき」 上代の連体形には「らしき」があったが、係助詞「か」「こそ」の結びのみで、しかも用例は少ない。係助詞「こそ」の結びの場合、上代では、形容詞型活用の語の結びはすべて連体形であるので、これも連体形とされる。(3)「らむ」との違い⇒らむ(4)主として上代に用いられ、中古には和歌に見られるだけである。(5)ラ変型活用の語の連体形に付く場合、活用語尾の「る」が省略されて、「あらし」「けらし」「ならし」などの形になる傾向が強い。⇒注意「らし」が用いられるときには、常に、推定の根拠が示されるので、その根拠を的確にとらえることである。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)も 終助詞:《接続》文末、文節末の種々の語に付く。〔詠嘆〕…なあ。…ね。…ことよ。 ※上代語。(学研)

 

 

 なでしこを詠った歌をみてみよう。

■四〇八歌■

題詞は、「大伴宿祢家持贈同坂上家之大嬢歌一首」<大伴宿禰家持、同じき坂上家(さかのうえのいへ)の大嬢(おほいらつめ)に贈る歌一首>である。

石竹之 其花尓毛我 朝旦 手取持而 不戀日将無

       (大伴家持 巻三 四〇八)

 

≪書き下し≫なでしこがその花にもが朝(あさ)な朝(さ)な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

 

(訳)あなたがなでしこの花であったらいいんいな。そうしたら、毎朝毎朝、この手に取り持って賞(め)でいつくしまない日とてなかろうに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

 

■四六四歌■

題詞は、「又家持見砌上瞿麦花作歌一首」<また、家持、砌(みぎり)の上(うへ)の瞿麦(なでしこ)の花を見て作る歌一首>である。

(注)みぎり【砌】「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという》:①時節。おり。ころ。「暑さの—御身お大事に」「幼少の—」②軒下や階下の石畳。③庭。➃ものごとのとり行われるところ。場所。⑤水ぎわ。水たまり。池。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは②の意

 

◆秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞

        (大伴家持 巻三 四六四)

 

≪書き下し≫秋さらば見つつ偲へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

 

(訳)「秋になったら、花を見ながらいつもいつも私を偲(しの)んで下さいね」と、いとしい人が植えた庭のなでしこ、そのなでしこの花はもう咲き始めてしまった。(同上)

(注)咲きにけるかも:早くも夏のうちに咲いたことを述べ、秋の悲しみが一層増すことを予感している。(伊藤脚注)

 

 家持の「亡妾悲歌」の一首である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2264)」で)四六二~四七四歌までの「亡妾悲歌」とともに紹介している。

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■一四四八歌■

 題詞は、「大伴宿祢家持贈坂上家之大嬢歌一首」<大伴宿禰家持、坂上家(さかのうえのいへ)の大嬢(おほいらつめ)に贈る歌一首>である。

 

◆吾屋外尓 蒔之瞿麦 何時毛 花尓咲奈武 名蘇経乍見武

       (大伴家持 巻八 一四四八)

 

≪書き下し≫我がやどに蒔(ま)きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む

 

(訳)我が家の庭に蒔いたなでしこ、このなでしこはいつになったら花として咲き出るのであろうか。咲き出たならいつもあなただと思って眺めように。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)なそふ【準ふ・擬ふ】:なぞらえる。他の物に見立てる。

 

 

 

■一四九六歌■

題詞は、「大伴家持石竹花歌一首」<大伴家持が石竹(なでしこ)の花の歌一首>である。

 

◆吾屋前之 瞿麥乃花 盛有 手折而一目 令見兒毛我母

       (大伴家持 巻八 一四九六)

 

≪書き下し≫我がやどのなでしこの花盛(さか)りなり手折(たを)りて一目(ひとめ)見せむ子もがも

 

(訳)我が家の庭のなでしこの花、この花は、今がまっ盛りだ。手折って一目なりと、見せてやる子がいればよいのに。(同上)

 

 

 

■一五一〇歌■

題詞は、「大伴家持贈紀女郎歌一首」<大伴家持、紀女郎(きのいらつめ)に贈る歌一首>である。

 

瞿麥者 咲而落去常 人者雖言 吾標之野乃 花尓有目八方

      (大伴家持 巻八 一五一〇)

 

≪書き下し≫なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標(し)めし野の花にあらめやも

 

(訳)なでしこの花は咲いてもう散ったと人は言いますが、よもや、私が標(しめ)を張っておいた野の花のことではありますまいね。(同上)

(注)上二句は、女が心変わりして他人のものになった意を寓する。(伊藤脚注)

(注)我が標(し)めし野の花:私の物として印をつけておいた野の花。意中の女の譬え。(伊藤脚注)

 

 歌碑の一九七二歌ならびに四〇八から一五一〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1808)」で紹介している。

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■一五三八歌■

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花

        (山上憶良 巻八 一五三八)

   ▼は「白」の下に「八」と書く。「朝+『白』の下に『八』」=「朝顔

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(同上)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2371)」で紹介している。

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■一五四九歌■

◆射目立而 跡見乃岳邊之 瞿麦花 總手折 吾者将去 寧樂人之為

      (紀鹿人 巻八 一五四九)

 

≪書き下し≫射目(いめ)立てて跡見(とみ)の岡辺(をかへ)のなでしこの花 ふさ手折(たを)り我れは持ちて行く奈良人(ならひと)のため

 

(訳)跡見の岡辺に咲いているなでしこの花。この花をどっさり手折って私は持ち帰ろうと思います。奈良で待つ人のために。(同上)

(注)いめたてて【射目立てて】分類枕詞:射目(いめ)に隠れて、動物の足跡を調べることから「跡見(とみ)」にかかる。(学研)

(注)とみ【跡見】:狩猟の時、鳥や獣の通った跡を見つけて、その行方を推しはかること。また、その役の人。(学研)

(注)ふさ手折る:ふさふさと折り取って。(伊藤脚注)

 

 

 

■一六一〇歌■

題詞は、「丹生女王贈大宰帥大伴卿歌一首」<丹生女王(にふのおほきみ)大宰帥(だざいのそち)大伴卿に贈る歌一首>である。

(注)大宰帥大伴卿:大伴旅人

◆高圓之 秋野上乃 瞿麦之花 丁壮香見 人之挿頭師 瞿麦之花

      (丹生女王  巻八  一六一〇)

 

≪書き下し≫高円(たかまと)の秋野(あきの)の上(うへ)のなでしこの花 うら若み人のかざししなでしこの花

 

(訳)高円の秋野のあちこちに咲くなでしこの花よ。その初々しさゆえに、あなたが、挿頭(かざし)に賞(め)でたこの花よ。(同上)

(注)うらわかし【うら若し】形容詞:①木の枝先が若くてみずみずしい。②若くて、ういういしい。 ⇒参考 「うら若み」は、形容詞の語幹に接尾語「み」が付いて、原因・理由を表す用法。(学研)

(注の注)うら- 接頭語:〔多く形容詞や形容詞の語幹に付けて〕心の中で。心から。何となく。「うら悲し」「うら寂し」「うら恋し」(学研)

 

 一六一〇ならびに一六一六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1314)」で紹介している。

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■一六一六歌■

題詞は、「笠女郎贈大伴宿祢家持歌一首」<笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌一首>である。

 

◆毎朝 吾見屋戸乃 瞿麦之 花尓毛君波 有許世奴香裳

       (笠女郎 巻八 一六一六)

 

≪書き下し≫朝ごとに我が見るやどのなでしこの花にも君はありこせぬかも

 

(訳)朝ごとに私が見る庭のなでしこの花、あの方は、この花ででもあって下さらないものなのかな。(同上)

(注)ありこす【有りこす】分類連語:(こちらに対して)あってくれる。 ⇒なりたち:ラ変動詞「あり」の連用形+上代の希望の助動詞「こす」(学研)

 

 家持は、なでしこをこよなく愛好していたのである。女郎は家持に逢いたいあまり、なでしこを切り札に使ったのだが、それでも効果がなかったと悔やんでいる。

 女郎のあの手この手の巧みな歌は、歌としての素晴らしさには、家持は惹かれていたのであろう。歌から垣間見える女郎の強すぎる思いゆえに家持は一歩引いていたのかもしれない。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1710)」で紹介している。

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■一九七〇歌■

◆見渡者 向野邊乃 石竹之 落巻惜毛 雨莫零行年

       (作者未詳 巻十 一九七〇)

 

≪書き下し≫見わたせば向(むか)ひの野辺(のへ)のなでしこの散らまく惜(を)しも雨な降りそね

 

(訳)ここから見わたすと、ま向かいの野辺に美しく咲いているなでしこ、その花が散ってしまうのが惜しまれる。雨よ、降らないでおくれ。(同上)

(注)雨な降りそね:雨よ降らないでおくれ。ナ…ソは禁止。ネは誂え望む助詞。(伊藤脚注)

 

 

 

■一九九二歌■

◆隠耳 戀者苦 瞿麦之 花尓開出与 朝旦将見

       (作者未詳 巻十 一九九二)

 

≪書き下し≫隠(こも)りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出(で)よ朝(あさ)な朝(さ)な見む

 

(訳)人目を忍んで心ひそかに恋焦がれてばかりいるのはつらいことです。どうか、なでしこの花になって我が家の庭先に咲き出てください。そしたら朝ごとにみることができように。(同上)

(注)隠(こも)りのみ:心の中でばかり。(伊藤脚注)

(注)なでしこの花に咲き出よ:なでしこの姿になって咲き出て欲しい。(伊藤脚注)

 

 

 

■四〇〇八歌■

◆安遠邇与之 奈良乎伎波奈礼 阿麻射可流 比奈尓波安礼登 和賀勢故乎 見都追志乎礼婆 於毛比夜流 許等母安利之乎 於保伎美乃 美許等可之古美 乎須久尓能 許等登理毛知弖 和可久佐能 安由比多豆久利 無良等理能 安佐太知伊奈婆 於久礼多流 阿礼也可奈之伎 多妣尓由久 伎美可母孤悲無 於毛布蘇良 夜須久安良祢婆 奈氣可久乎 等騰米毛可祢氐 見和多勢婆 宇能婆奈夜麻乃 保等登藝須 祢能未之奈可由 安佐疑理能 美太流々許己呂 許登尓伊泥弖 伊波婆由遊思美 刀奈美夜麻 多牟氣能可味尓 奴佐麻都里 安我許比能麻久 波之家夜之 吉美賀多太可乎 麻佐吉久毛 安里多母等保利 都奇多々婆 等伎毛可波佐受 奈泥之故我 波奈乃佐可里尓 阿比見之米等曽

      (大伴池主 巻十七 四〇〇八)

 

≪書き下し≫あをによし 奈良を来離(きはな)れ 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 我が背子(せこ)を 見つつし居(を)れば 思ひ遣(や)る こともありしを 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 食(を)す国の 事取り持ちて 若草の 足結(あゆ)ひ手作(たづく)り 群鳥(むらとり)の 朝立(あさだ)ち去(い)なば 後(おく)れたる 我(あ)れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留(とど)めもかねて 見わたせば 卯(う)の花山の 霍公鳥 音(ね)のみし泣かゆ 朝霧(あさぎり)の 乱るる心 言(こと)に出でて 言はばゆゆしみ 礪波山(となみやま) 手向(たむ)けの神に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 我(あ)が祈(こ)ひ禱(の)まく はしけやし 君が直香(ただか)を ま幸(さき)くも ありた廻(もとほ)り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見(あひみ)しめとぞ

 

(訳)あをによし奈良の都をあとにして来て、遠く遥かなる鄙(ひな)の地にある身であるけれど、あなたの顔さえ見ていると、故郷恋しさの晴れることもあったのに。なのに、大君の仰せを謹んでお受けし、御国(みくに)の仕事を負い持って、足ごしらえをし手甲(てつこう)をつけて旅装(たびよそお)いに身を固め、群鳥(むらとり)の飛びたつようにあなたが朝早く出かけてしまったならば、あとに残された私はどんなにか悲しいことでしょう。旅路を行くあなたもどんなにか私を恋しがって下さることでしょう。思うだけでも不安でたまらいので、溜息(ためいき)が洩(も)れるのも抑えきれず、あたりを見わたすと、彼方卯の花におう山の方で鳴く時鳥、その時鳥のように声張りあげて泣けてくるばかりです。たゆとう朝霧のようにかき乱される心、この心を口に出して言うのは縁起がよくないので、国境の礪波(となみ)の山の峠の神に弊帛(ぬさ)を捧(ささ)げて、私はこうお祈りします。「いとしいあなたの紛れもないお姿、そのお姿に、何事もなく時がめぐりめぐって、月が変わったなら時も移さず、なでしこの花の盛りには逢わせて下さい。」と。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)おもひやる【思ひ遣る】他動詞:①気を晴らす。心を慰める。②はるかに思う。③想像する。推察する。④気にかける。気を配る。(学研)ここでは①の意

(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(学研)

(注の注)「若草の」は「足結ひ」の枕詞。懸り方未詳。(伊藤脚注)

(注)あゆひ【足結ひ】名詞:古代の男子の服飾の一つ。活動しやすいように、袴(はかま)をひざの下で結んだ紐(ひも)。鈴・玉などを付けて飾りとすることがある。「あよひ」とも。(学研)

(注)てづくり【手作り】名詞:①手製。自分の手で作ること。また、その物。②手織りの布。(学研)

(注の注)足結ひ手作り:足首を紐で結び、手の甲を覆って。旅装束をするさま。(伊藤脚注)

(注)嘆かくを:嘆く心を。「嘆かく」は「嘆く」のク語法。(伊藤脚注)

(注)「見わたせば 卯(う)の花山の 霍公鳥」は季節の景物を用いた序。「音のみ泣く」を起こす。(伊藤脚注)

(注)ね【音】のみ泣(な)く:(「ねを泣く」「ねに泣く」を強めた語) ひたすら泣く。泣きに泣く。また、(鳥などが)声をたてて鳴く。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)あさぎりの【朝霧の】分類枕詞:朝霧が深くたちこめることから「思ひまどふ」「乱る」「おほ(=おぼろなようす)」などにかかる。(学研)

(注)礪波山:富山・石川県の境の山。倶利伽羅峠のある地。この地まで家持を見送るつもりでの表現。(伊藤脚注)

(注)「君が直香(ただか)を ま幸(さき)くも ありた廻(もとほ)り 月たてば」:あなたの紛れもないお姿に、何の不幸もなく時がずっとめぐって、の意か。(伊藤脚注)

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2387)」で紹介している。

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■四〇一〇歌■

◆宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈尓毛我母奈 安佐奈ゝゝ見牟

      (大伴池主 巻十七 四〇一〇)

 

≪書き下し≫うら恋(ごひ)し我が背(せ)の君はなでしこが花にもがもな朝(あさ)な朝(さ)な見む

 

(訳)ああお慕わしい、そのあなたはいっそなでしこででもあればよいのに。そしたら毎朝毎朝見られるだろうに。(同上)

(注)うらこひし【うら恋し】形容詞:何となく恋しい。心ひかれる。慕わしい。「うらごひし」とも。 ※「うら」は心の意。(学研)

(注)あさなあさな【朝な朝な】副詞:朝ごとに。毎朝毎朝。「あさなさな」とも。[反対語] 夜(よ)な夜な。(学研)

 

左注は、「右大伴宿祢池主報贈和歌 五月二日」<右は大伴宿禰池主が報(こた)へて贈りて和(こた)ふる歌 五月の二日>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1353)」で紹介している。

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■四〇七〇歌■

題詞は、「詠庭中牛麦花歌一首」<庭中の牛麦(なでしこ)が花を詠(よ)む歌一首>である。

 

◆比登母等能 奈泥之故宇恵之 曽能許己呂 多礼尓見世牟等 於母比曽米家牟

      (大伴家持 巻十八 四〇七〇)

 

≪書き下し≫一本(ひともと)のなでしこ植ゑしその心誰(た)れに見せむと思ひ始めけむ

 

(訳)一株(ひとかぶ)のなでしこを庭に植えたその私の心、この心は、いったい誰に見せようと思いついてのことであったのだろか・・・。(同上)

 

左注は、「右先國師従僧清見可入京師 因設飲饌饗宴 于時主人大伴宿祢家持作此歌詞送酒清見也」<右は、先(さき)の国師(こくし)の従僧(じゆうそう)清見(せいけん)、京師(みやこ)に入らむとす。よりて、飲饌(いんせん)を設(ま)けて饗宴(きやうえん)す。時に、主人(あろじ)大伴宿禰家持、この歌詞(かし)を作り、酒を清見に送る>である。

(注)この歌は、花に先立って上京してしまう相手を惜しむ送別歌。(伊藤脚注)

(注)こくし【国師】:奈良時代の僧の職名。大宝令により、諸国に置かれ、僧尼の監督、経典の講義、国家の祈祷(きとう)などに当たった。のちに講師(こうじ)と改称。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)じゅうそう【従僧】〘名〙 高僧や住職などに付き従う僧侶。従者である僧。ずそう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(訳)一株(ひとかぶ)のなでしこを庭に植えたその私の心、この心は、いったい誰に見せようと思いついてのことであったのだろうか・・・。(伊藤「四」)

 

 

 

 

■四一一三歌■

題詞は、「庭中花作歌一首并短歌」<庭中の花を見て作る歌一首并せて短歌>である。長歌(四一一三)と反歌二首(四一一四、四一一五歌)からなっている。

 

◆於保支見能 等保能美可等ゝ 末支太末不 官乃末尓末 美由支布流 古之尓久多利来安良多末能 等之能五年 之吉多倍乃 手枕末可受 比毛等可須 末呂宿乎須礼波 移夫勢美等 情奈具左尓 奈泥之故乎 屋戸尓末枳於保之 夏能ゝ 佐由利比伎宇恵天 開花乎 移弖見流其等尓 那泥之古我 曽乃波奈豆末尓 左由理花 由利母安波無等 奈具佐無流 許己呂之奈久波 安末射可流 比奈尓一日毛 安流へ久母安礼也

       (大伴家持 巻十八 四一一三)

 

≪書き下し≫大王(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と 任(ま)きたまふ 官(つかさ)のまにま み雪降る 越(こし)に下(くだ)り来(き) あらたまの 年の五年(いつとせ) 敷栲の 手枕(たまくら)まかず 紐(ひも)解(と)かず 丸寝(まろね)をすれば いぶせみと 心なぐさに なでしこを やどに蒔(ま)き生(お)ほし 夏の野の さ百合(ゆり)引き植(う)ゑて 咲く花を 出で見るごとに なでしこが その花妻(はなづま)に さ百合花(ゆりばな) ゆりも逢(あ)はむと 慰むる 心しなくは 天離(あまざか)る 鄙(ひな)に一日(ひとひ)も あるべくもあれや

 

(訳)我が大君の治めたまう遠く遥かなるお役所だからと、私に任命された役目のままに、雪の深々と降る越の国まで下って来て、五年もの長い年月、敷栲の手枕もまかず、着物の紐も解かずにごろ寝をしていると、気が滅入(めい)ってならないので気晴らしにもと、なでしこを庭先に蒔(ま)き育て、夏の野の百合を移し植えて、咲いた花々を庭に出て見るたびに、なでしこのその花妻に、百合の花のゆり―のちにでもきっと逢おうと思うのだが、そのように思って心の安まることでもなければ、都離れたこんな鄙の国で、一日たりとも暮らしていられようか。とても暮らしていられるものではない。(同上)

(注)手枕:妻の手枕

(注)まろね【丸寝】名詞:衣服を着たまま寝ること。独り寝や旅寝の場合にいうこともある。「丸臥(まろぶ)し」「まるね」とも。(学研)

(注)いぶせむ( 動マ四 )〔形容詞「いぶせし」の動詞化〕心がはればれとせず、気がふさぐ。ゆううつになる。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 

 

■四一一四歌■

◆奈泥之故我 花見流其等尓 乎登女良我 恵末比能尓保比 於母保由流可母

      (大伴家持 巻十八 四一一四)

 

≪書き下し≫なでしこが花見るごとに娘子(をとめ)らが笑(ゑ)まひのにほい思ほゆるかも

 

(訳)なでしこの花を見るたびに、いとしい娘子の笑顔のあでやかさ、そのあでやかさが思われてならない。(同上)

(注)ゑまひ【笑まひ】名詞:①ほほえみ。微笑。②花のつぼみがほころぶこと。

 

 四〇七〇、四一一三、四一一四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1808)」で紹介している。

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■四二三一歌■

題詞は、「于時積雪彫成重巌之起奇巧綵發草樹之花 属此掾久米朝臣廣縄作歌一首」<時に、雪を積みて重巌(ちょうがん)の起(た)てるを彫(ゑ)り成し、奇巧(たく)みに草樹の花を綵(いろど)り発(いだ)す。これに属(つ)きて掾久米朝臣廣縄が作る歌一首>である。

(注)ちようがん【重巌】:層巌。>重なる巖 (コトバンク 平凡社「普及版 字通」)

(注)花:歌によれば、造花のなでしこ。主人縄麻呂はこれが守家持の好きな花であることを知っていて、用意したものであろう。(伊藤脚注)

(注)これに属きて:これを題材にして。(伊藤脚注)

 

奈泥之故波 秋咲物乎 君宅之 雪巌尓 左家理家流可母

       (久米広縄 巻十九 四二三一)

 

≪書き下し≫なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌(いはほ)に咲けりけるかも

 

(訳)なでしこは秋咲くものなのに、まあ、あなたの家の雪の岩にはずっと咲いていたのですね。(同上)

(注)咲けりけるかも:咲いていたのですね。瑞祥を賀しながらの、主人の趣向への驚嘆。(伊藤脚注)

(注の注)ずいしやう【瑞祥/瑞象】:めでたいことが起こるという前兆。吉兆。祥瑞。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

 

■四二三二歌■

題詞は、「遊行女婦蒲生娘子歌一首」<遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)が歌一首>

 

◆雪嶋 巌尓殖有 奈泥之故波 千世尓開奴可 君之挿頭尓

       (蒲生娘子 巻十九 四二三二)

 

≪書き下し≫雪の山斎(しま)巌(いはほ)に植ゑたるなでしこは千代(ちよ)に咲かぬか君がかざしに

 

(訳)雪の積もった美しい園、その園の岩に植えてあるなでしこは、千代常(ちよとことわ)に咲いてくれないものか。あなた様の挿頭(かざし)にするために。(同上)

(注)雪の山斎:雪景色の庭園。以下、前歌の語を多く承けつつ、主人への賀を強調した歌。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で、万葉集に数多く収録されている「遊行女婦」あるいはそれと思われる娘子の歌とともに紹介している。

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■四四四二歌■

題詞は、「五月九日兵部少輔大伴宿祢家持之宅集宴歌四首」<五月の九日に、兵部少輔大伴宿禰家持が宅(いへ)にして集宴(うたげ)する歌四首>である。

 

◆和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖 安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受

       (大原真人今城 巻二十 四四四二)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどのなでしこ日並(ひなら)べて雨は降れども色も変らず

 

(訳)あなたのお庭のなでしこ、この花は、毎日毎日雨に降られていますが、色一つ変わりませんね。(同上)

(注)色も変らず:なでしこに言寄せての主人家持への讃美(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首大原真人今城」<右の一首は大原真人今城>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2521)」で、大原真人今城の歌とともに紹介している。

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■四四四三歌■

◆比佐可多能 安米波布里之久 奈弖之故我 伊夜波都波奈尓 故非之伎和我勢

       (大伴家持 巻二十 四四四三)

 

≪書き下し≫ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花(はつはな)に恋(こひ)しき我が背(せ)

 

(訳)ひさかたの雨はしとしとと降り続いております。しかし、なでしこは今咲いた花のように初々しく、その花さながらに心引かれるあなたです。(同上)

 

 これは、今城が上総帰任を送る集まりの歌で、四首とも女の歌を装うことで悲別の情を深めている。(伊藤脚注)

 

 

 

■四四四六歌■

 四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅三首」<同じ月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家

      (丹比國人真人 巻二十 四四四六)

 

≪書き下し≫我がやどに咲けるなでしこ賄(まひ)はせむゆめ花散ちるないやをちに咲け

 

(訳)我が家の庭に咲いているなでしこよ、贈り物は何でもしよう。けっしてちるなよ。いよいよ若返り続けて咲くのだぞ。(同上)

(注)なでしこ:左大臣橘諸兄に言寄せている

(注)まひ【幣】名詞:依頼や謝礼のしるしとして神にささげたり、人に贈ったりする物。「まひなひ」とも。(学研)

(注)いやをちに【弥復ちに】副詞:何度も繰り返して。ますます若返って。(学研)

 

左注は、「右一首丹比國人真人壽左大臣歌」<右の一首は、丹比国人真人、左大臣を寿(ほ)ぐ歌>である。

 

 

 

■四四四七歌■

◆麻比之都ゝ 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓

        (橘諸兄 巻二十 四四四七)

 

≪書き下し>賄(まひ)しつつ君が生(お)ほせるなでしこが花のみ問(と)はむ君ならなくに 

 

(訳)贈り物をしてはあなたがたいせつに育てているなでしこ、あなたは、そのなでしこの花だけに問いかけるようなお方ではないはずです。(同上)

 

左注は、「右一首左大臣和歌」<右の一首は、左大臣が和(こた)ふる歌>である。

 

 四四四六、四四四七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その467)」で紹介している。

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■四四四九歌■

題詞は、「十八日左大臣宴於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首」<十八日に、左大臣兵部卿(ひやうぶのきやう)橘奈良麻呂朝臣が宅(いへ)にして宴する歌三首>である。

 

◆奈弖之故我 波奈等里母知弖 宇都良ゝゝゝ 美麻久能富之伎 吉美尓母安流加母

       (船王 巻二十 四四四九)

 

≪書き下し≫なでしこが花取(と)り持(も)ちてうつらうつら見まくの欲(ほ)しき君にもあるかも

 

(訳)なでしこの花を手に取り持ってまざまざと見るように、いつもお側近く目(ま)のあたりにお見かけしていたいあなたでございます。(同上)

(注)上二句は、今手に取り持って花に寄せる序。「うつらうつら見る」を起す。(伊藤脚注)

(注)うつらうつら(と) 副詞:まのあたりにはっきりと。 ※「うつ」は現実の意。「ら」は接尾語。(学研)

 

左注は、「右一首治部卿船王」<右の一首は治部卿船王(ぢぶのきやうふねのおほきみ)>である。

 

 

 

 

 

■四四五〇歌■

題詞は、「十八日左大臣宴於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首」<十八日に、左大臣兵部卿橘奈良麻呂朝臣(ひやうぶきやうたちばなのならまろのあそみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母 伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母

      (大伴家持 巻二十 四四五〇)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどのなでしこ散らめやもいや初花(はつはな)に咲きは増(ま)すとも

 

(訳)あなたのお庭のなでしこ、このなでしこはよもや散ったりなどしましょうか。今咲き出した花のように初々しく咲き増さることはあっても。(同上)

 

 

 

■四四五一歌■

◆宇流波之美 安我毛布伎美波 奈弖之故我 波奈尓奈蘇倍弖 美礼杼安可奴香母

      (大伴家持 巻二十 四四五一)

 

≪書き下し≫うるはしみ我(あ)が思(も)ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)すばらしいお方だと私が思うあなた様は、咲きほこるこのなでしこの花と見紛うばかりで、見ても見ても見飽きることがありません。(同上)

(注)なそふ【準ふ・擬ふ】他動詞:なぞらえる。他の物に見立てる。 ※後には「なぞふ」とも。(学研)

 

 四四四三、四四五〇、四四五一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1808)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 平凡社 普及版 字通」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2524)―

●歌は、「水沫なす微き命も拷縛の千尋にもがと願ひ暮しつ」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(山上憶良) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

 ◆水沫奈須 微命母 栲縄能 千尋尓母何等 慕久良志都

       (山上憶良 巻五 九〇二)

 

≪書き下し≫水沫(みなわ)なす微(もろ)き命も栲縄(たくなは)の千尋ちひろ)にもがと願ひ暮らしつ

 

(訳)水の泡にも似たもろくはかない命ではあるものの、楮(こうぞ)の綱のように千尋ちひろ)の長さほどもあってほしいと願いながら、今日もまた一日を送り過ごしてしまった。(伊藤博著「万葉集 一」(角川ソフィア文庫)より)

(注)みなわ【水泡/水沫】:《「みなあわ」の音変化。「な」は「の」の意の格助詞》水のあわ。はかないことのたとえにもいう。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)微き命:漢語「微命」の翻読語。(伊藤脚注)

(注)たくなは【栲縄】名詞:こうぞの皮をより合わせて作った白い縄。漁業に用いる。※後世「たぐなは」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注) たくなはの【栲縄の】枕 :栲縄が長いところから、「長し」「千尋(ちひろ)」にかかる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)ちひろ千尋】名詞:千尋(せんひろ)。また、長さ・遠さ・深さが甚だしいことにいう。「ちいろ」とも。 ※「ひろ」は長さや深さの単位。(学研)

 

 八九七から九〇三歌までの歌群の題詞は、「老身重病經年辛苦及思兒等歌七首  長一首短六首」<老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首 長一首短六首>である。

 

 この歌については、歌群とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その44改)」で紹介している。

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 「たくなはの【栲縄の】」と詠っている歌をみてみよう。

■二一七歌■

題詞は、「吉備津采女死時、柿本朝臣人麿作歌一首 幷短歌」<吉備津采女(きびつのうねめ)が死にし時に、柿本朝臣人麿が作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。

(注)吉備津采女:吉備の国(岡山県)の津の郡出身の采女。(伊藤脚注)

 

◆秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曽婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曽婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母 髪髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 釼刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也

      (柿本人麻呂 巻二 二一七)

 

≪書き下し≫秋山の したへる妹(いも) なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居(を)れか 栲縄(たくなは)の 長き命(いのち)を 露こそは 朝(あした)に置きて 夕(ゆうへ)は 消(き)ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失(う)すといへ 梓弓(あづさゆみ) 音(おと)聞く我(わ)れも おほに見し こと悔(くや)しきを 敷栲(しきたへ)の 手枕(たまくら)まきて 剣太刀(つるぎたち) 身に添(そ)へ寝(ね)けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ 悔(くや)しみか 思ひ恋ふらむ 時にあらず 過ぎにし子らが 朝露(あさつゆ)のごと 夕霧(ゆふぎり)のごと

 

(訳)秋山のように美しく照り映えるおとめ、なよ竹のようにたよやかなあの子は、どのように思ってか、栲縄(たくなわ)のように長かるべき命であるのに、露なら朝(あさ)置いて夕(ゆうべ)には消えるというが、霧なら夕に立って朝にはなくなるというが、そんな露や霧でもないのにはかなく世を去ったという、その噂を聞く私でさえも、おとめを生前ぼんやりと見過ごしていたことが残念でたまらないのに・・・。まして、敷栲(しきたへ)の手枕を交わし身に添えて寝たであろうその夫だった人は、どんなに寂しく思って一人寝をかこっていることであろうか。どんなに心残りに思って恋い焦がれていることであろうか。思いもかけない時に逝(い)ってしまったおとめの、何とまあ、朝霧のようにも夕霧のようにもあることか。(同上)

(注)あきやまの【秋山の】分類枕詞:秋の山が美しく紅葉することから「したふ(=赤く色づく)」「色なつかし」にかかる。(学研)

(注)したふ 自動詞:木の葉が赤く色づく。紅葉する。(学研)

(注)なよたけの【弱竹の】分類枕詞:①細いしなやかな若竹がたわみやすいところから、「とをよる(=しんなりとたわみ寄る)」にかかる。②しなやかな竹の節(よ)(=ふし)の意で、「よ」と同音の「夜」「世」などにかかる。 ※「なよだけの」「なゆたけの」とも。(学研)ここでは①の意

(注)とをよる【撓寄る】自動詞:しなやかにたわむ。(学研)

(注)たくなはの【栲縄の】分類枕詞:「栲縄(たくなは)」は長いところから、「長し」「千尋ちひろ)」にかかる。(学研)

(注の注)たくなは【栲縄】名詞:こうぞの皮をより合わせて作った白い縄。漁業に用いる。※後世「たぐなは」とも。(学研)

(注)あづさゆみ【梓弓】分類枕詞:①弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる。②射ると音が出るところから「音」にかかる。③弓の部分の名から「すゑ」「つる」にかかる。(学研)ここでは②の意

(注)音聞く我れも:はかなくも世を去ったという、その噂を聞く私でさえも。(伊藤脚注)

(注)おほなり【凡なり】形容動詞:①いい加減だ。おろそかだ。②ひととおりだ。平凡だ。 ※「おぼなり」とも。上代語。(学研)

(注)夫(つま)の子:主人公の夫。采女は臣下との結婚を禁じられていた。(伊藤脚注)

(注)時にあらず過ぎにし子:その時でもないのに思いがけなく逝ってしまった子。自殺したことが暗示されている。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1556)」で紹介している。

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■七〇四歌■

七〇三、七〇四歌の題詞は、「巫部麻蘇娘子歌二首」<巫部麻蘇娘子(かわなぎべのまそをとめ)が歌二首>である。

(注)巫部麻蘇娘子:伝未詳。

 

栲縄之 永命乎 欲苦波 不絶而人乎 欲見社

      (巫部麻蘇娘子 巻四 七〇四)

 

≪書き下し≫栲縄(たくなは)の長き命を欲(ほ)りしくは絶えずて人を見まく欲(ほ)りこそ

 

(訳)栲縄(たくなは)のような長い命、その命を望んできたのは、いつもいつも絶え間なくあの方のお顔を見たい一心からなのです。(同上)

(注)みまく【見まく】分類連語:見るだろうこと。見ること。 ※上代語。 ⇒なりたち:動詞「みる」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

(注)ほる【欲る】他動詞:願い望む。欲する。ほしいと思う。 ⇒語法:ほとんど連用形の形で用いられる。(学研)

 

 

 

 その44改で、憶良が「奈良の都に召喚されたのは天平4年で、73歳の時であった。生活は大変だったようである。と書いている。

 しかし、今から思えば、憶良の年齢と子供を考えると疑問に思える。

 犬養 孝氏は「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかで。「・・・憶良という人の文芸は、現実的なものが多いようだけれども。決して現実だけのリアルさだけを詠んだのとは違う。この人にも豊かな創作意識、他の人にも優るとも劣らない創作意識があったといえる・・・山上憶良さ人の気持になり代わって作る歌が、ずいぶんある・・・」と書いておられる。

 辰巳正明氏は「山上憶良」(笠間書院)のなかで、九〇一歌(荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ術をなみ)について、楮や藤などの蔓の皮から取った繊維の服は下層階級の人たちの着る服であったが「憶良は、それすらも愛する子どもに着せられないのだ、と嘆くのである。しかし、憶良は従五位下ではあるといっても、当時の貴族階級の一員であり、国守までもつとめている。それが下層階級の者の着る服すらも着せられずに、このようにして嘆くのだというのは、いかにも不自然であろう。そのことから考えると、この歌は憶良の体験をうたっているものではないという結論になる。それでは、この歌は何を目的とした歌であるのだろうか。・・・この世に生きる者にとっての、辛苦のきわまりという問題提起にある。・・・貧しく尊厳もなく生きることの意味とは何かを、この作品を通して問いかけているのだといえる。これは憶良を離れて、生の苦はつねに因果として、人の身に現れるのであり、それに対しては、ただ声を上げて泣くしかないのだというのが答えである。」と書いておられる。

 九〇二歌ならびに九〇三歌(しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも)は、一転、現実の己の「老身に病を重ね」つつも生への熱い思いがたぎっている苦悩を詠っているのであろう。

 生への熱い思いをたぎらせる現実の己を冷静に客観的にみつめる憶良がそこにいるのである。

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「山上憶良」 辰巳正明 著 (笠間書院

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2523)―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(有間皇子) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

         (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 


 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1193)」他で紹介している。

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一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

柿本人麻呂の二二三歌の題詞は、「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首>である。

自傷」について、梅原 猛氏は、「水底の歌 柿本人麿論」(新潮文庫)に中で有間皇子の一四一歌の「自傷」に触れ、「・・・非業の死をと同じ表現である点に、その死が尋常な死でないことを感じさせる。『自傷』とは、どういうことか。自らの死を傷むとは、どういう場合にありうることか。死とは予期しがたく、実際にその死がきたときには、人間は意識を失っているはずである。それゆえ、自らの死が確実であるという意識が必要であろう。」と書かれている。

ほぼ「自らの死が確実であるという意識」の下で、「また帰り見む」と詠っているのである。「またここに立ち帰って(この松を)見ることがあろう。」

淡々とした詠いぶりであるがゆえに、「また帰り見む」のフレーズが、まさに嵐の前の静けさの如く静かに奥深く突き刺さって来るのである。

 

「また帰り見む」のフレーズを詠っている歌をみてみよう。

 

■三七歌■

◆雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟

      (柿本人麻呂 巻一 三七)

 

≪書き下し≫見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

 

(訳)見ても見ても見飽きることのない吉野の川、その川の常滑のように、絶えることなくまたやって来てこの滝の都を見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)とこなめ【常滑】名詞:苔(こけ)がついて滑らかな、川底の石。一説に、その石についている苔(こけ)とも。(学研)

(注)上三句は序。「絶ゆることなく」を起す。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。

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■九一一歌■

三芳野之 秋津乃川之 万世尓 断事無 又還将見

       (笠金村 巻六 九一一)

 

≪書き下し≫み吉野の秋津(あきづ)の川の万代(よろずよ)に絶ゆることなくまたかへり見む

 

(訳)み吉野の秋津(あきづ)の川の流れが万代に絶えることがないように、絶えることなくまたやって来てこの滝の河内を見たいものだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

九〇七から九一二の歌群の題詞は、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首 幷短歌」<養老(やうらう)七年癸亥(みづのとゐ)の夏の五月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

九〇七(長歌)、九〇八・九〇九は、「反歌二首」である。九一〇から九一二は「或本の反歌に日(い)はく」とあり、九〇八・九〇九歌の初案らしい。(伊藤脚注)

 

 

 

■一一〇〇歌■

◆巻向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反将見

      (柿本人麻呂 巻七 一一〇〇)

 

≪書き下し≫巻向の穴師の川ゆ行く水の絶えることなくまたかへり見む

 

(訳)巻向の穴師の川を、こんこんと流れ行く水が絶えることのないように、繰り返し繰り返し、また何度もここにやって来て見よう。(同上)

(注)上三句は序。第四句を起す。(伊藤脚注)

(注)またかへり見む:「見る」の対象は穴師の川。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その72改)」で紹介している。

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■一一一四歌■

◆吾紐乎 妹手以而 結八川 又還見 万代左右荷

       (作者未詳 巻七 一一一四)

 

≪書き下し≫我が紐を妹が手もちて結八川またかへり見む万代までに

 

(訳)私の下紐をあの子の手で結(ゆ)い固める。その結うという名の結八(ゆうや)川、この川をまたここへやって来て見よう。いついつまでも。(同上)

(注)上二句は序。「結八川」を起す。(伊藤脚注)

(注)結八川:未詳。

 

 

 

■一一八三歌■

◆好去而 亦還見六 大夫乃 手二巻持在 鞆之浦廻乎

       (作者未詳 巻七 一一八三)

 

≪書き下し≫ま幸(さき)くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆(とも)の浦みを

 

(訳)無事でいてまた戻って来て見よう。ますらおが手に巻き持つ鞆と同じ名の、この鞆の浦のあたりを。(同上)

(注)「大夫の手に巻き持てる」は序。「鞆」を起こす。(伊藤脚注)

(注)とも【鞆】名詞:武具の一種。弓を射るとき、左手の手首に結び付ける、中に藁(わら)や獣毛を詰めた丸い革製の用具。弓弦(ゆづる)が手を打つのを防ぐためとも、手首の「釧(くしろ)」に弓弦が当たって切れるのを防ぐためともいう。(学研)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1631)」で紹介している。

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■一六六八歌■

◆白埼者 幸在待 大船尓 真梶繁貫 又将顧

      (作者未詳 巻九 一六六八)

 

≪書き下し≫白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかじ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む

 

(訳)白崎よ、お前は、どうか今の姿のままで待ち続けていておくれ。この大船の舷(ふなばた)に櫂(かい)をいっぱい貫(ぬ)き並べて、また立ち帰って来てお前を見よう(同上)

(注)白崎:和歌山県日高郡由良町。(伊藤脚注)

(注)また帰り見む:一四一の結句を意識している。(伊藤脚注)

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

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■三〇五六歌■

◆妹門 去過不得而 草結 風吹解勿 又将顧  <一云 直相麻弖尓>

       (作者未詳 巻十二 三〇五六)

 

≪書き下し≫妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む <一には「直に逢ふまでに」といふ

 

(訳)いとしい子の門(かど)を素通りするにしかねて、せめてものことに私は草を結んで行く。風よ、吹いて解かないでくれ。またやって来て見ようから。<じかに逢うまでは>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)草結ぶ:事の成就を祈る呪的行為。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2457)」で紹介している。

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■三二四〇歌■

◆王 命恐 雖見不飽 楢山越而 真木積 泉河乃 速瀬 竿刺渡 千速振 氏渡乃 多企都瀬乎 見乍渡而 近江道乃 相坂山丹 手向為 吾越徃者 樂浪乃 志我能韓埼 幸有者 又反見 道前 八十阿毎 嗟乍 吾過徃者 弥遠丹 里離来奴 弥高二 山文越来奴 劔刀 鞘従拔出而 伊香胡山 如何吾将為 徃邊不知而

       (作者未詳 巻十三 三二四〇)

 

≪書き下し≫大君の 命(みこと)畏(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉(いずみ)の川の 早き瀬を 棹(さを)さし渡り ちはやぶる 宇治(うぢ)の渡りの たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江道(あふみぢ)の 逢坂山(あふさかやま)に 手向(たむ)けして 我(わ)が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあらば またかへり見む 道の隈(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 我(わ)が過ぎ行けば いや遠(とほ)に 里離(さか)り来ぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 剣太刀(つるぎたち) 鞘(さや)ゆ抜き出(い)でて 伊香胡山(いかごやま) いかにか我(あ)がせむ ゆくへ知らずて

 

(訳)大君の仰せを恐れ謹んで、いくら見ても見飽きない奈良山を越えて、真木を積んで運ぶ泉の川の早瀬を、棹をさして渡り、ちはやぶる宇治の渡り所の逆巻く瀬を見守りながら渡って、近江道の逢坂山の神に手向けを供え私が越えて行くと、やがて楽浪の志賀の唐崎に着いたが、この唐崎の名のように事もなく幸くさえあれば立ち帰ってまたここを見ることができよう。こうして、数多い道の曲がり角ごとに、嘆きを重ねて私が通り過ぎて行くと、いよいよ遠く里は離れてしまった。いよいよ高く山も越えて来た。剣太刀を鞘から抜き出していかがせんという伊香胡山ではないが、私はいかがしたらよいのか、行く先いかになるともわからないで。(同上)

(注)まき【真木・槙】名詞:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう。 ※「ま」は接頭語。(学研)

(注)泉の川:木津川。木津付近は材木の集積地。(伊藤脚注)

(注)ちはやぶる【千早振る】分類枕詞:①荒々しい「氏(うぢ)」ということから、地名「宇治(うぢ)」にかかる。「ちはやぶる宇治の」。②荒々しい神ということから、「神」および「神」を含む語、「神」の名、「神社」の名などにかかる。(学研)

(注)ささなみの【細波の・楽浪の】分類枕詞:①琵琶(びわ)湖南西沿岸一帯を楽浪(ささなみ)といったことから、地名「大津」「志賀(しが)」「長等(ながら)」「比良(ひら)」などにかかる。「ささなみの長等」。②波は寄るところから「寄る」や同音の「夜」にかかる。「ささなみの寄り来る」 ⇒参考:『万葉集』には、①と同様の「ささなみの大津」「ささなみの志賀」「ささなみの比良」などの形が見えるが、これらは地名の限定に用いたものであって、枕詞(まくらことば)にはまだ固定していなかったともいわれる。「さざなみの」とも。(学研)

(注)剣大刀鞘ゆ抜き出でて:「伊香胡山」の序。男を刀身に、女を鞘に譬えた遊仙窟の「君今シ抜キ出デム後ハ、空シキ鞘をイカニカセム」に拠る。また「伊香胡山」までの三句も序を兼ね、「いかに」を起す。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1393)」で紹介している。

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一六六七から一六七九歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

 

 このうちの一六六八歌の「またかへり見む」は、伊藤氏の脚注にあったように、一四一歌の結句(またかへり見む)を意識しているのである。

 

 他の「またかへり見む」は、今日の日常的な「また来ようね」とか「また見に来たいね」といったニュアンスに近いのである。

「自らの死が確実であるという意識」の下で、「また帰り見む」・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2522)―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(橘諸兄) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

        (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように。あじさいは色の変わるごとに新しい花が咲くような印象を与える。(伊藤脚注)

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。上の「八重」を承けて「八つ代」といったもの。(伊藤脚注)

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)       

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で東山植物園の歌碑とともに紹介している。

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 また、橘諸兄歌六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2505)」で紹介している。

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 奈良時代橘諸兄が別邸を構えたのが京都府綴喜郡井手町である。

 井手町については、同町HPに、「京都と奈良、二つの古都のなかほどに位置する井手町は、南北約4.5キロ、東西約7キロ、面積18.04キロ平方メートルの小さなまち。京都まで30分、奈良まで15分、大阪中心部まで1時間足らずという都市近郊にありながら、市街地には清流「玉川」が流れ、その堤には桜や山吹をはじめ四季折々に咲き乱れる草花が彩りを添え、里山の風景や野鳥のさえずりとともにこの地を訪れる人々をなごませます。井手町は、そんな都市と自然の魅力が共存した、のどかで美しいまちです。

井手町は、万葉の昔から歌枕の里として知られ、いにしえの和歌や物語に描かれたゆかりの場所や史跡など、歴史の面影です。

奈良時代聖武天皇に仕えた左大臣橘諸兄公が別荘を構えたほか、平安の女流歌人小野小町も晩年をこの地で過ごしたと伝えられています。」と書かれている。


 

 

橘諸兄井手町の関わりを追ってみよう。

■六角井戸■

聖武天皇の玉井頓宮にあったものと言い伝えられ『公(橘諸兄)の井戸』として語りつがれてきた六角井戸は、石垣地区に現存しています。 この井戸は、据え付けられた石版が6枚組み合わせたもので、六角の形となっていることから『六角井戸』と呼ばれています。」(井手町HP)

橘諸兄の歌碑(巻十九 四二七〇歌)が六角井戸の傍らに立てられている。

 

 六角井戸の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その190改)」で紹介している。

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■井提寺跡■

橘諸兄が建立したと伝えられる、井手寺は、東西南北とも約240メートルの規模を誇り、塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。

井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した『垂木先瓦』や『軒丸瓦』『軒平瓦』、建物の礎石をおいた跡などが発見されました。」(井手町HP)

 


 橘諸兄の歌碑(巻二十 四四四七)が立てられている。


井提寺跡の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その191改)」で紹介している。

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橘諸兄公旧趾■

橘諸兄は、井堤寺を建立するなど井手を拠点として活躍した奈良時代政治の要人です。

684年に生まれ、740年に45代聖武天皇を井手の玉井頓官にまねき、749年には正一位左大臣になったと伝えられています。 また、『万葉集』の撰者としても知られた文人で、父美努王とともに井手の地を愛し、玉川岸にヤマブキを植えたといわれています。」(井手町HP)

 

「井手山地裾には、後期古墳が確認されているだけでも10ケ所ある。その中の北大塚古墳が橘諸兄のものといわれ、記念碑がたてられている。」(じゃらんネットHP)



 

■井手の玉川■

【井手の玉川】(ゐでのたまがは)

京都府綴喜つづき郡の井手町を流れる川。六玉川(むたまがわ)の一。[歌枕](コトバンク デジタル大辞泉

 

 玉川沿いに、橘諸兄の歌碑(巻十七 三九二二)が立てられている。


 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2110)」で紹介している。

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 「橘諸兄の別邸」については、一五七四から一五八〇歌の題詞「右大臣橘家宴歌七首」<右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌七首>の一五七四歌の脚注に「宴は、奈良京から離れた井手(京都府綴喜郡)の別邸で行われた。」と書かれている。

(注)右大臣橘家:右大臣橘諸兄の家。(伊藤脚注)

 

 歌をみてみよう。

 

◆雲上尓 鳴奈流鴈之 雖遠 君将相跡 手廻来津

        (高橋安麻呂 巻八 一五七四)

 

≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ

 

(訳)雲の上で鳴いている雁のように、遠い所ではありますが、あなた様にお目にかかろうと、めぐりめぐりしてやって参りました。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「遠けども」を起す。(伊藤脚注)

(注)た廻(もとほ)り来(き)つ:遠路はるばるやって来た。宴は、奈良京から離れた井出(京都府綴喜郡)の別邸で行われた。(伊藤脚注)

(注の注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)

 

 この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2360)」で紹介している。

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以上が井手町橘諸兄関連である。

 

 

 

 橘諸兄臣籍降下以前の葛城王の時の薩妙観命婦の歌に出て来る「可爾波」についてもみてみよう。

■可爾波:京都府木津川市山城町綺田(かばた)の地■

 綺田(カバタ(kabata)):所在 京都府相楽郡山城町weblio辞書 地名辞典)

 

四四五五、四四五六歌の題詞は、「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>である。

四四五六歌は、葛城王橘諸兄)の四四五五歌に薩妙観命婦が和(こた)えた歌である。「ますらをと思へるものを大刀(たち)佩(は)きて可爾波(かには)の田居(たゐ)に芹ぞ摘みける」

(注)可爾波(かには):京都府木津川市山城町綺田の地。「可爾」に「蟹」を懸け、這いつくばっての意を込めるか。(伊藤脚注)

 

 蟹満寺は、京都府木津川市山城町綺田(かばた)の地にあるので、「可爾」に「蟹」でゆかりとした。



 四四五五、四四五六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 地名辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「じゃらんネットHP」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2521)―

●歌は、「奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ」である。

茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(大原真人今城) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

四四七五、四四七六歌の題詞は、「廿三日集於式部少丞大伴宿祢池主之宅飲宴歌二首」<二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌二首>である。

 

◆於久夜麻能 之伎美我波奈能 奈能其等也 之久之久伎美尓 故非和多利奈無

        (大原真人今城 巻二十 四四七六)

 

≪書き下し≫奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ 

 

(訳)奥山に咲くしきみの花のその名のように、次から次へとしきりに我が君のお顔が見たいと思いつづけることでしょう、私は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきみ【樒】名詞:木の名。全体に香気があり、葉のついた枝を仏前に供える。また、葉や樹皮から抹香(まつこう)を作る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)

 

題詞にあるように「大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌」であるが、この集いに誰が参加したのかは不明である。家持が「族(やから)を喩す歌」(四四六五歌)を詠んだのが同年六月一七日であるから、藤原氏一族との対峙の緊張感はピークに達している頃である。

この時期、宴にあって反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。ただ大原真人今城の歌二首のみである。

 そして家持の幼馴染で、歌のやり取りも頻繁に行い万葉集にも数多く収録されている大伴池主の名前はこれ以降万葉集から消える。さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。

 家持と大原真人今城は、奈良麻呂の変の圏外に身を置いているのである。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1847)」で紹介している。

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 大原真人今城(以下今城と称す)について、その歌を通して、家持との関係とを見てみよう。

 

今城の名が最初に万葉集に現れるのは、題詞「大伴女郎(おほとものいらつめ)が歌一首」の脚注である。

今城王が母なり。今城王は後に大原真人の氏を賜はる」とある。 

(注)大伴郎女:後に旅人の妻となり、筑紫で他界した女性か。(伊藤脚注)

(注)今城王:父は未詳。家持と親交があった。(伊藤脚注)

 

 今城と家持は、いってみれば異父母兄弟ということになるのでは。

 

 この大伴女郎の歌(五一九歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1078)」で紹介している。

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 次に、五三七から五四一歌の題詞に「高田女王(たかたのおほきみ)、今城王に贈る歌六首」である。

 

 この六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その90改)」で紹介している。

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■一六〇四歌■

題詞は、「大原真人今城傷惜寧樂故郷歌一首」<大原真人今城(おほはらのまひといまき)、寧楽(なら)の故郷を傷惜(いた)む歌一首>である。

(注)大原真人今城:もと今城王。家持の歌友。(伊藤脚注)

(注)寧楽の故郷:天平十二年(740年)、久邇京に遷都。奈良は古京となる。(伊藤脚注)

 

◆秋去者 春日山之 黄葉見流 寧樂乃京師乃 荒良久惜毛

       (大原真人今城 巻八 一六〇四)

 

≪書き下し≫秋されば春日(かすが)の山の黄葉(もみち)見る奈良の都の荒るらく惜しも

 

(訳)秋ともなると春日の山のもみじが見られる奈良の都、その奈良の都が荒れてゆくのは何ともせつなくてしかたがない。

(注)黄葉(もみち)見る:黄葉を見ては遊んだ。(伊藤脚注)

 

 

 次いで、題詞「上総國朝集使大掾大原真人今城向京之時郡司妻女等餞之歌二首」<上総(かみつふさ)の国(くに)の朝集使(てうしふし)大掾大原真人今城、京に向ふ時に、郡司が妻女等(つまたち)の餞(せん)する歌二首>である。

(注)歌二首:四四四〇・四四四一

 

 次に名が出て来るのは、四四三六から四四三九歌の歌群の左注である。「右の件(くだり)の四首は、上総(かみつふさ)の国の大掾(だいじよう)正六位上大原真人今城伝誦してしか云ふ。 年月未詳」である。

 

 天平勝宝7年(755年)三月三日の宴で今城が披露した歌である。この宴では家持は二首(四四三四・四四三五歌)を詠っていいる。

 

 

 

■四四四二歌■

題詞は、「五月九日兵部少輔大伴宿祢家持之宅集宴歌四首」<五月の九日に、兵部少輔大伴宿禰家持が宅(いへ)にして集宴(うたげ)する歌四首>である。

 

◆和我勢故我 夜度乃奈弖之故 比奈良倍弖 安米波布礼杼母 伊呂毛可波良受

       (大原真人今城 巻二十 四四四二)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどのなでしこ日並(ひなら)べて雨は降れども色も変らず

 

(訳)あなたのお庭のなでしこ、この花は、毎日毎日雨に降られていますが、色一つ変わりませんね。(同上)

(注)色も変らず:なでしこに言寄せての主人家持への讃美(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首大原真人今城」<右の一首は大原真人今城>である。

 

 

 

■四四四四歌■

◆和我世故我 夜度奈流波疑乃 波奈佐可牟 安伎能由布敝波 和礼乎之努波世

       (大原真人今城 巻二十 四四四四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどなる萩(はぎ)の花咲かむ秋の夕(ゆふへ)は我れを偲はせ

 

(訳)あなたのこのお庭の萩が美しい花をつける秋の夕(ゆうべ)、その秋の夕には、私のことを思い出してください。(同上)

 

左注は、「右一首大原真人今城」<右の一首は大原真人今城>である。

 

今城の名がみえるのは次の歌群の左注である。

 

 四四五七から四四五九歌の題詞は、「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戌申 太上天皇大后幸行於河内離宮 経信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)八歳丙申(ひのえさる)二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)の二十四日戌申(つちのえさる)に、太上天皇、大后、於河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信以壬子(ふたよあまりみづのえね)をもちて難波(なには)の宮に伝幸(いでま)す。三月の七日に、於河内の国伎人(くれ)の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

四四五九歌の左注は、「右一首式部少丞大伴宿祢池主讀之 即兵部大丞大原真人今城 先日他所讀歌者也」<右の一首は、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主読む。すなはち云はく、「兵部大丞(ひやうぶのせうじよう)大原真人今城 、先(さき)つ日(ひ)に他(あた)し所にして読む歌ぞ」といふ>である。

 

 この宴では、家持は歌(四四五七歌)を詠んでいる。池主は宴に参加しており、今城が別の宴で読んだ(紹介)した四四五九歌を場で読んで(紹介)いる。今城はこの宴には参加していなかったと思われる。

 

 

 そして、今城の歌二首(四四七五歌と歌碑の四四七六歌)が収録されている。

 四四七五・四四七六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1847)」で紹介している。

 上にも書いたが、「大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)する歌」であるが、この十一月二十三日の集いに誰が参加したのかは不明である。家持が「族(やから)を喩す歌」(四四六五歌)を詠んだのが同年六月一七日であるから、藤原氏一族との対峙の緊張感はピークに達している頃である。

この時期、宴にあって反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、ここには家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。ただ今城の歌二首のみである。

 池主の名前はこれ以降万葉集から消え、さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。

 

 四四七七から四四八〇歌の歌群の左注に「右件四首傳讀兵部大丞大原今城」<右の件くだり)の四首、伝え読むは兵部大丞大原今城>である。

 この歌群について、伊藤 博氏は脚注で、四四七七から四四八〇までの四首、右二十三日の宴席で大原今城が披露した歌」と書かれ、さらにこの四首について「以上、悲しい歌ばかり。慌ただしい時勢を悼むこととかかわりがあるか。」とも書かれている。

 

 そして、天平勝宝九年(757年)の「三月四日於兵部大丞大原真人今城之宅宴歌一首」<三月の四日に、兵部大丞大原真人今城が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌一首>である。

 この宴では家持の歌(四四八一歌)が収録されている。

 

 四四八二歌の左注に「右一首播磨介藤原朝臣執弓赴任悲別也 主人大原今城傳讀云尓」<右の一首は、播磨介藤原朝臣執弓(はりまのすけふぢはらのあそみとりゆみ)、任(にん)に赴(おもぶ)きて別れを悲しぶ。 主人(あろじ)大原今城伝え読みてしか云ふ。>である。

 

 四四八一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1995)」で紹介している。

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 天平勝宝九年(757年)七月四日橘奈良麻呂の変である。

 

 天平宝字元年(757年)十一月十八日の内裏(うち)にして肆宴(とよのあかり)した時の藤原仲麻呂の天下を牛耳ったかのような歌(四四八七歌)が収録されている。

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2302)」で紹介してる。

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 そして天平宝字元年(757年)十二月二十三日の宴となる。

題詞は、「廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首」<二十三日に、治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人が宅(いへ)にして宴する歌一首>である。

 

 この宴では家持の歌(四四九二歌)が収録されている。

 四四九二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で、家持の宴の歌を中心に万葉集の終焉に向かって一気に下って行く展開を紹介している。

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次に今城と家持の歌が収録されているのは、題詞「二月於式部大輔中臣清麻呂朝臣之宅宴歌十首」<二月に式部大輔(しきふのだいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろのあそみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌十首>である。

 ここで今城は四四九六と四五〇五歌を詠っている。

 

■四四九六歌■

◆宇良賣之久 伎美波母安流加 夜度乃烏梅能 知利須具流麻埿 美之米受安利家流

      (大原真人今城 巻二十 四四九六)

 

≪書き下し≫恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける

 

 

(訳)何とまあ、あなた様は恨めしいお方であることか。お庭の梅が散りすぎるまで、見せて下さらなかったとは。(同上)

(注)散り過ぐるまで見しめずありける:梅は過ぎても親しい者同士が集いえた喜びを逆説的に述べた。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首治部少輔大原今城真人」<右の一首は治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人>である。

 

 

■四五〇五歌■

◆伊蘇能宇良尓 都祢欲比伎須牟 乎之杼里能 乎之伎安我未波 伎美我末仁麻尓

      (大原真人今城 巻二十 四五〇五)

 

≪書き下し≫礒の裏(うら)に常(つね)呼び来棲(す)むをし鳥(どり)の惜(を)しき我(あ)が身は君がまにまに

 

(訳)お庭の入り込んだ磯蔭にいつも呼び交わしながら来て棲むおしどりのように惜しいこの身ですが、この命は、すべて我が君のお心次第です。(同上)

 

左注は、「右一首治部少輔大原今城真人」<右の一首は治部少輔(ぢぶのせうふ)大原今城真人>である。

 

 

 そして万葉集最後の歌(四五一六歌)の一つ前に至るのである。

 

題詞は、「七月五日於治部少輔大原今城真人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首」<七月の五日に、治部少輔大原今城真人が宅にして、「因幡守(いなはのかみ)大伴宿禰家持を餞する宴の歌一首>である。

 

 

 こうして、大原真人今城を追って行くと、家持とほぼ同じような歩みが見られる。池主と袂を別った時は二人とも同じような考えで、悩み、嘆き、悲しんだことであろう。

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」