●歌をみていこう。
◆古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下
(柿本人麻呂歌集 巻九 一七九八)
≪書き下し≫いにしへに妹と我(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
(訳)過ぎしその日、いとしい人と私と二人で見た黒牛潟、この黒牛潟を、今たった一人で見ると、寂しくて仕方がない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)黒牛潟:海南市黒江海岸。(伊藤脚注)
題詞は、「紀伊國作歌四首」<紀伊の国(きのくに)にして作る歌四首>である。
この歌を含む「紀伊國作歌四首」ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その743)」で紹介している。
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■海南市築地 海南医療センター筋向い万葉歌碑(巻七 一三九二)■
●歌をみていこう。
◆紫之 名高浦之 愛子地 袖耳觸而 不寐香将成
(作者未詳 巻七 一三九二)
≪書き下し≫紫(むらさき)の名高(なたか)の浦(うら)の真砂地(まなごつち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ
(訳)名高の浦の細かい砂地には、袖が濡れただけで、寝ころぶこともなくなってしまうのであろうか。(同上)
(注)紫の(読み)ムラサキノ[枕]:① ムラサキの根で染めた色の美しいところから、「にほふ」にかかる。② 紫色が名高い色であったところから、地名「名高(なたか)」にかかる。③ 濃く染まる意から、「濃(こ)」と同音を含む地名「粉滷(こがた)」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
(注)まなご【真砂】名詞:「まさご」に同じ。 ※「まさご」の古い形。上代語。 ⇒まさご【真砂】名詞:細かい砂(すな)。▽砂の美称。 ※古くは「まなご」とも。「ま」は接頭語。(学研)
(注)真砂土は、愛する少女の譬え。(伊藤脚注)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その745)」で紹介している。
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■海南市黒江 名手酒造駐車場万葉歌碑(巻九 一六七二)■
●歌をみていこう。
◆黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉裾須蘇延 徃者誰妻
(作者未詳 巻九 一六七二)
≪書き下し≫黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれない)の玉裳(たまも)裾引(すそび)き行くは誰が妻
(訳)黒牛潟の潮の引いた浦辺、この浦辺を、紅染(べにぞ)めのあでやかな裳裾を引きながら行く人、あれはいったい誰の妻なのか。(同上)
(注)黒牛潟:海南市黒江海岸。(伊藤脚注)
(注)紅の玉裳裾引き行く:女官の姿。(伊藤脚注)
一六六七から一六七九歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。
(注)ここでは太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇をさす。
この歌をふくむ十三首ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。
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駐車場には、歌碑と、歌碑の歌のプレートならびに万葉集の歌碑プレートが8枚掲げられている。
●歌をみていこう。
◆藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣乎者 所沾香裳
(作者未詳 巻九 一六七五)
≪書き下し≫藤白(ふぢしろ)の御坂(みさか)を越ゆと白栲(しろたへ)の我(わ)が衣手(ころもで)は濡(ぬ)れにけるかも
(訳)藤白の神の御坂を越えるというので、私の着物の袖は、雫(しずく)にすっかり濡れてしまった。(同上)
(注)藤白の神の御坂:海南市藤白にある坂。有間皇子の悲話を背景に置く歌。(伊藤脚注)
藤白神社は、斉明天皇が牟婁の湯(白浜湯崎温泉)に行幸の際に、神祠を創建されたといわれている。境内社である有間皇子神社は、十九歳という若さで藤白坂において処刑された、万葉の悲劇の主人公有間皇子を祀っている。境内には有間皇子を偲ぶ万葉歌碑と歌曲碑が建てられている。
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その746)」で紹介している。
有間皇子を偲ぶ歌碑の裏手から、阪和自動車道の高架下を約200メートルほどいったところの小さな佇まいの広場に、皇子の墓碑と歌碑が建てられている。
一六七五歌および有間皇子の歌ならびに歌碑およびお墓については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その746,747)」で紹介している。
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万葉の悲劇、有間皇子のお墓を訪ね、藤白坂を上って行くと気持ち的に相当の重々しさを感じざるをえない。しかし、そのお墓がきれいに清掃されお花も供えられており、いまだに地元の人に愛され続けているというのが伝わってくるとなぜかほっとするのである。
■海南市下津町 立神社・仁義児童館前万葉歌碑(巻六 一〇二二)
●歌をみていこう。
◆父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 参昇 八十氏人乃 手向為等 恐乃坂尓 幣奉 吾者叙追 遠杵土左道矣
(作者未詳 巻六 一〇二二)
≪書き下し≫父君(ちちぎみ)に 我(わ)れは愛子(まなご)ぞ 母(はは)刀自(とじ)に 我(わ)れは愛子ぞ 参(ま)ゐ上(のぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 畏(かしこ)の坂に 弊(ぬさ)奉(まつ)り 我(わ)れはぞ追へる 遠き土佐道(とさぢ)を
(訳)父君にとって私はかけがえのない子だ。母君にとってわたしはかけがえのない子だ。なのに、都に上るもろもろの官人たちが、手向(たむ)けをしては越えて行く恐ろしい国境(くにざかい)の坂に、幣(ねさ)を捧(ささ)げて無事を祈りながら、私は一路進まなければならぬのだ。遠い土佐への道を。(同上)
(注)ははとじ【母刀自】名詞:母君。母上。▽母の尊敬語。(学研)
(注)畏の坂:恐ろしい神のいる国境の坂(伊藤脚注)
(注)「追ふ」は土佐へと向かって逆に進む。(伊藤脚注)
一〇一九から一〇二三歌の歌群の題詞は、「石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首幷短歌」<石上乙麻呂卿(いそのかみのおとまろのまへつきみ)土佐の国(とさのくに)に配(なが)さゆる時の歌三首 幷せて短歌>である。
この歌群の歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その761)」で紹介している。
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■海南市下津町方 粟嶋神社万葉歌碑(巻七 一二一六)
●歌をみていこう。
◆塩満者 如何将為跡香 方便海之 神我手渡 海部未通女等
(作者未詳 巻七 一二一六)
≪書き下し≫潮満(み)たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人(あま)娘子(をとめ)ども
(訳)潮が満ちてきたら、いったいどうするつもりなのか。海神の支配する恐しい難所を渡っている海人の娘子(おとめ)らは。(同上)
(注)かみ【神】が 手(て):海神の手。また、海神の手中にあること。転じて、おそろしい荒海。⇒[補注] 万葉例「神我手」の「手」を、「戸」の誤写とし、「神が戸」(海神の支配する瀬戸の意)とする説もある。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1198)」で紹介している。
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海南市の万葉の故地は何といっても有間皇子が絞首された「藤白の御坂」(巻九 一六七五)であろう。
話は脱線するが、最近インスタで「岩内1号墳」に行かれた方の写真が投稿されていた。
御坊市HPには、「岩内(いわうち)古墳群は、日高川河口から約2キロさかのぼった左岸丘陵上に立地しています。・・・岩内1号墳は、横穴式石室を持ち、・・・7世紀中頃以降に造営された県内でも数少ない終末期古墳の一つです。・・・被葬者は、木棺に棺飾金具や全国的にも数少ない漆塗の装飾がされていること、副葬品(銀装大刀)・造営の技法(版築)などから大変身分の高い人物であったと考えられています。
その候補の一人として、658年蘇我赤兄の謀略あるいは中大兄皇子(のちの天智天皇)の陰謀によって、紀伊の牟婁温湯(今の白浜温泉)に滞在中の中大兄皇子のもとに謀反の罪で連行され、処刑された悲劇の皇子『有間皇子』(640~658年)があげられています。」と書かれている。
機会をみつけて是非行ってみたいところである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「御坊市HP」