万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1781)―高松市東山崎町 石清水八幡宮―万葉集巻十九 四一三九

●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。

高松市東山崎町 石清水八幡宮万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高松市東山崎町 石清水八幡宮にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

     (大伴家持 巻十九  四一三九)

     ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

四一三九、四一四〇歌の題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。                           

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その825)」で高岡万葉館の家持と大嬢のブロンズ像とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

石清水八幡宮のHPに「祭神:應神天皇仲哀天皇神功皇后 創建:天平11年(798年)8月15日 九州宇佐八幡宮より別御霊を御勧請申上げ時の変轉あるも、御神禮は当時のまま奉安申上げ現在に至る。」と書かれている。

石清水八幡宮の由緒

 歌碑は、同神社の境内分社「謡乃神社」の脇にある。「謡乃神社」の謂れなど調べようとするも「カラオケ神社」とも言われているやの文言が飛び込んでくる。

これには、家持もびっくりであろう。

謡乃神社と歌碑

 巻十九について、四一三九、四一四〇歌の題詞の脚注において、伊藤 博氏は、「巻十九は、この年(天平勝宝二年<750年>)三月から天平勝宝五年二月までの歌を収める。家持が自信を誇った歌巻で、末四巻は巻十九を核にしつつ成立したらしい。」と書かれ、さらに、四一三九歌の脚注で「二日の歌四一七四歌まで一まとまりで、巻十九の巻頭歌群。」と書かれている。

 天平勝宝元年(749年)六月から同二年二月中旬の間のある時期に家持の妻の坂上大嬢が越中に来たのではないかと言われている。

  翌年には都に帰れるという気持ちと妻が越中にやってきたことで心の充実感が相乗効果となって、「苦労や苦悩というものとは全く別の世界の美のピークを作り出した」(犬養孝 著「万葉の人びと(新潮文庫)」のである。

 越中生活も見方を変えれば、都での権力争いの苦悩から好むと好まらずとにかかわらず、離れていたことも大きな要因であったと考えられる。

 「巻十九の巻頭歌群」に加え三月三日の歌まで加えると、四一三九から四一五三歌、十五首も作っているのである。

 

 四一四〇から四一五三歌を改めてみてみよう。<ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」では、書き下しを紹介している。>

 

■四一四〇歌■

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母

       (大伴家持 巻十九  四一四〇)

 

≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(同上)

(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(学研)<はだれゆき【斑雪】名詞:はらはらとまばらに降る雪。また、薄くまだらに降り積もった雪。「はだれ」「はだらゆき」とも。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その497)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

■四一四一歌■

題詞は、「見飜翔鴫作歌一首」<飜(と)び翔(かけ)る鴫(しぎ)を見て作る歌一首>である。

 

◆春儲而 物悲尓 三更而 羽振鳴志藝 誰田尓加須牟

       (大伴家持 巻十九 四一四一)

 

≪書き下し≫春まけてもの悲(がな)しきにさ夜(よ)更(ふ)けて羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ)誰が田にか棲(す)む

 

(訳)春を待ちうけて物悲しい気分のする折も折、夜も更けてから、羽ばたきして鳴く鴨、あれは誰の田んぼに心を残してまだ棲みついているのか。(同上)

(注)春まけて:季節が春になって、という意味(weblio辞書 季語・季題辞典)

 

■四一四二歌■

 題詞は、「二日攀柳黛思京師歌一首」<二日に、柳黛(りうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首>である。

(注)りうたい【柳黛】〘名〙: (「黛」は眉墨) 柳の葉のように細く美しい眉。柳眉(りゅうび)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

◆春日尓 張流柳乎 取持而 見者京之 大路所念

      (大伴家持 巻十九 四一四二)

 

≪書き下し≫春の日に萌(は)れる柳を取り持ちて見れば都の大道(おほち)し思ほゆ

 

(訳)春の昼日中(ひるひなか)に、芽吹いている柳の枝を、手に取り持って、しげしげ見ると、奈良の都の大路がまざまざと思いだされる。(同上)

 

 

■四一四三歌■

題詞は、「攀折堅香子草花歌一首」<堅香子草(かたかご)の花を攀ぢ折る歌一首>である。

 

◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花

     (大伴家持 巻十九 四一四三)

     ※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

 

(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(同上)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(学研)

 

 

■四一四四歌■

四一四四、四一四五歌の 題詞は、「見歸鴈歌二首」<帰雁(きがん)を見る歌二首>である。

 

◆燕来 時尓成奴等 鴈之鳴者 本郷思都追 雲隠喧

       (大伴家持 巻十九 四一四四)

 

≪書き下し≫燕(つばめ)来(く)る時になりぬと雁(かり)がねは国偲ひつつ雲隠(くもがく)り鳴く

 

(訳)燕がやって来る時節になったと、雁は遠くの故郷を偲(しの)びながら、雲隠れに鳴き渡って行く。(同上)

(注)来燕と帰雁は漢詩に多い取り合わせ。次歌と共に、越中を去る雁への感慨。(伊藤脚注)

 

 

■四一四五歌■

◆春設而 如此歸等母 秋風尓 黄葉山乎 不超来有米也 <一云 春去者 歸此鴈>

       (大伴家持 巻十九 四一四五)

 

≪書き下し≫春まけてかく帰るとも秋風にもみたむ山を越え来(こ)ずあらめや<一には「春されば帰るこの雁」といふ>

 

(訳)春を待ちうけてこのように帰って行っても、やがて吹く秋風にもみじする山、その山を越えてまたここに来ないことがあろうか。<春になると帰って行く雁、この雁も>(同上)

(注)もみづ【紅葉づ・黄葉づ】自動詞:紅葉・黄葉する。もみじする。 ※上代は「もみつ」。(学研)

 

 

■四一四六歌■

四一四六,四一四七歌の題詞は、「夜裏聞千鳥喧歌二首」<夜裏に千鳥の喧(な)くを聞く歌二首>である。

 

◆夜具多知尓 寐覺而居者 河瀬尋 情毛之努尓 鳴知等理賀毛

       (大伴家持 巻十九 四一四六)

 

≪書き下し≫夜(よ)ぐたちに寝覚(ねざ)めて居(を)れば川瀬(かわせ)尋(と)め心もしのに鳴く千鳥かも

 

(訳)夜中過ぎに眠れずにいると、川の浅瀬伝いに、我が心もうちしおれるばかりに鳴く千鳥よ、ああ。(同上)

(注)よぐたち【夜降ち】:夜がふけること。また、その時刻。夜ふけ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

■四一四七歌■

◆夜降而 鳴河波知登里 宇倍之許曽 昔人母 之努比来尓家礼

       (大伴家持 巻十九 四一四七)

 

≪書き下し≫夜(よ)くたちて鳴く川千鳥(かはちどり)うべしこそ昔の人も思(しの)ひきにけれ

 

(訳)夜中過ぎになって鳴く川千鳥よ、なるほどもっともなことだ、昔の人もこの声のせつなさに心引かれてきたのは。(同上)

 

 

■四一四八歌■

題詞は、「聞暁鳴▼歌二首」<暁(あかとき)に鳴く雉(きざし)を聞く歌二首>である。

 ▼「矢」へん+「鳥」でキザシ

(注)きじ【雉・雉子】名詞:鳥の名。「きぎし」「きぎす」とも。(学研)

 

◆椙野尓 左乎騰流▼ 灼然 啼尓之毛将哭 己母利豆麻可母

       (大伴家持 巻十九 四一四八)

  ▼「矢」へん+「鳥」でキザシ

 

≪書き下し≫杉(すぎ)の野にさ躍(おど)る雉(きざし)いちしろく音(ね)にしも泣かむ隠(こも)り妻(づま)かも

 

(訳)杉林の野で鳴き立てて騒いでいる雉(きざし)よ、お前は、はっきりと人に知られてしまうほど、たまりかねて声をあげて泣くような隠り妻だというのか。(同上)

(注)をどる【踊る・躍る】自動詞:飛び跳ねる。跳ね上がる。はやく動く。(学研)

(注)いちしろし【著し】形容詞:「いちしるし」に同じ。 ※上代語 

>いちしるし【著し】形容詞:明白だ。はっきりしている。 ※参考 古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は頭語。(学研)

(注)こもりづま【隠り妻】名詞:人の目をはばかって家にこもっている妻。人目につくと困る関係にある妻や恋人。(学研)

 

 

■四一四九歌■

◆足引之 八峯之▼ 鳴響 朝開之霞 見者可奈之母

     (大伴家持 巻十九 四一四九)

    ▼「矢」へん+「鳥」でキザシ

 

≪書き下し≫あしひきの八(や)つ峰(を)の雉(きざし)鳴き響(とよ)む朝明(あさけ)の霞(かすみ)見れば悲しも

 

(訳)あちこちの峰々の雉、その雉が鳴き立てる明け方の霞、この霞を見るとやたらと悲しい思いにかきたてられる。(同上)

(注)あしひきの【足引きの】分類枕詞:「山」「峰(を)」などにかかる。語義・かかる理由未詳。 ※中古以後は「あしびきの」とも。(学研)

 

四一四八、四一四九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その845)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

■四一五〇歌■

 題詞は、「遥聞泝江船人之唱歌一首」<遥(はる)かに、江(こう)を泝(さかのぼ)る舟人(ふなびと)の唱(うた)ふを聞く歌一首>である。

 

 

◆朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唱船人

       (大伴家持 巻十九 四一五〇)

 

<書き下し>朝床(あさとこ)に聞けば遥けし射水川(いみずかは)朝漕(こ)ぎしつつ唄(うた)ふ舟人

 

(訳)朝床の中で耳を澄ますと遠く遥かに聞こえて来る。射水川、この川を朝漕ぎして泝(さかのぼ)りながら唱(うた)う舟人の声が。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

■四一五一歌■

題詞は、「三日守大伴宿祢家持之舘宴歌三首」<三日に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

◆今日之為等 思標之 足引乃 峯上之櫻 如此開尓家里

      (大伴家持 巻十九 四一五一)

 

≪書き下し≫今日(けふ)のためと思ひて標(し)めしあしひきの峰(を)の上(うえ)の桜かく咲きにけり

 

(訳)今日の宴のためと思って私が特に押さえておいた山の峰の桜、その桜は、こんなに見事に咲きました。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しるす【標す】他動詞:目印とする。(学研)

 

 

■四一五二歌■

◆奥山之 八峯乃海石榴 都婆良可尓 今日者久良佐祢 大夫之徒

       (大伴家持 巻十九 四一五二)

 

≪書き下し≫奥山の八(や)つ峰(を)の椿(つばき)つばらかに今日は暮らさねますらをの伴(とも)

 

(訳)奥山のあちこちの峰に咲く椿、その名のようにつばらかに心ゆくまで、今日一日は過ごしてください。お集まりのますらおたちよ。(同上)

(注)上二句は序。「つばらかに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)やつを【八つ峰】名詞:多くの峰。重なりあった山々。(学研)

(注)つばらかなり 「か」は接尾語>つばらなり【委曲なり】形容動詞:詳しい。十分だ。存分だ。(学研)

 

 

■四一五三歌■

漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽和我勢故 花縵世奈

       (大伴家持 巻十九 四一五三)

 

≪書き下し≫漢人(からひと)も筏(いかだ)浮かべて遊ぶといふ今日ぞ我が背子(せこ)花(はな)かづらせな

 

(訳)唐の国の人も筏を浮かべて遊ぶという今日この日なのです。さあ皆さん、花縵(はなかずら)をかざして楽しく遊ぼうではありませんか。(同上)

 

 四一五一歌から四一五三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その827)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 家持の生涯の歌は四百八十五首あるが、越中で作られた歌は二百二十首と半数に近い。その中でもこの三日間で十五首も作られているのである。充実ぶりがうかがわれるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「weblio辞書 季語・季題辞典」

★「石清水八幡宮HP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1780)―高松市朝日町 NEXCO西日本四国支所玄関前植込み―万葉集巻二 二二〇

●歌は、「玉藻よし讃岐の国は国からか見れど飽かぬ神からかここだ貴き・・・」である。

高松市朝日町 NEXCO西日本四国支所玄関前植込み万葉歌碑(柿本人麻呂



●歌碑は、高松市朝日町 NEXCO西日本四国支所玄関前植込みにある。

 

●歌をみていこう。

 

 この歌は、題詞「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>の長歌(二二〇歌)である。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙弥島。今は陸続きになっている。

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。

 

◆玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱悒久 待加戀良武 愛伎妻等者

       (柿本人麻呂 巻二 二二〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来(きた)る 那珂(なか)の港ゆ 船浮(う)けて 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折(を)りて をちこちの 島は多(おほ)けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家(いへ)知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは

 

(訳)玉藻のうち靡(なび)く讃岐の国は、国柄が立派なせいかいくら見ても見飽きることがない。国つ神が畏(かしこ)いせいかまことに尊い。天地・日月とともに充ち足りてゆくであろうその神の御顔(みかお)であるとして、遠い時代から承(う)け継いで来たこの那珂(なか)の港から船を浮かべて我らが漕ぎ渡って来ると、突風が雲居はるかに吹きはじめたので、沖の方を見るとうねり波が立ち、岸の方を見ると白波がざわまいている。この海の恐ろしさに行く船の楫(かじ)が折れるなかりに漕いで、島はあちこちとたくさんあるけれども、中でもとくに名の霊妙な狭岑(さみね)の島に漕ぎつけて、その荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音のとどろく浜辺なのにそんなところを枕にして、人気のない岩床にただ一人臥(ふ)している人がいる。この人の家がわかれば行って報(しら)せもしよう。妻が知ったら来て言問(ことど)いもしように。しかし、ここに来る道もわからず心晴れやらぬままぼんやりと待ち焦がれていることだろう、いとしい妻は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもよし【玉藻よし】分類枕詞:美しい海藻の産地であることから地名「讚岐(さぬき)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)那珂(なか)の港:丸亀市金倉川の河口付近。(伊藤脚注)

(注の注)金倉川:中津万象園・丸亀美術館の東側を流れる川である。

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞(学研)

(注)とゐなみ【とゐ波】名詞:うねり立つ波。(学研)

(注)狭岑(さみね)の島:今の沙弥島(しゃみじま)(香川県HP)

(注)ころふす【自伏す】:ひとりで横たわる。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも。(学研)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)

 

 この歌ならびに反歌二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1711)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 駐車場に車を停め、受付にお邪魔をする。歌碑について尋ねてみた。雑草がはびこっているので見づらいですが、とことわりながら、出てこられ、わざわざ案内していただいたのである。じつに有り難いことである。

 NEXCO西日本四国支所に万葉歌碑が設置されていることに意外性を感じつつ、なぜか親しみを覚えたのであった。

 道を挟んで、巨大な船が2隻ドッグ入りしているのが印象的であった。

 

 

 

■■愛媛県万葉歌碑めぐり■■

9月20、21日に愛媛県万葉歌碑巡りの計画をたてたが、「過去に例がない危険」を伴う台風14号(2022)にやきもきさせられた。

進路予報などから最終的に1日ずらせて21、22日に変更した。

 

■自宅→西予市三滝公園万葉の道■

 朝3時出発である。三滝渓谷までは約420km、休憩をカウントして7時間30分、10時30分ごろ到着予定である。淡路島南PA到着が5時30分頃である。そして香川県府中湖PAが7時30分頃と順調に早朝ドライブである。

 ここまでは良かったが、「到着予定が10時26分」となり、もうすぐだと思った時、ナビの道と実際の道との感覚のズレからか、結果として道を間違え、到着予定時間が11時08分となる。少し走ればルート検索のあと最短に訂正してくれるはずである。しかし、山道で表示は出るが音声案内はでない。Uターンができそうなところもない。

 山の中をしかも台風一過であるから、落ちた枝や小枝、葉を踏み分けて進むのである。標識もない。土砂崩れに遭遇しかねない恐れもある。緊張感と不安感から、どっと疲れが吹き出す。

 結局三滝渓谷の城川自然ロッジ(今は営業していない)に到着したのは11時30分頃であった。1時間のロスタイムである。

三滝渓谷自然公園案内掲示

三滝渓谷入口万葉の道他案内掲示

 「万葉の道」は、ロッジ横から「屋根付き橋」までの約300mの小径であり、道の谷川側に歌碑が立てられている。

屋根付き橋

 小路には、枝や木の葉が散乱しているが、台風の後にしては、これぐらいで済んでよかったとの思いである。

小枝が散乱する万葉の道と歌碑

小枝や落ち葉が散乱



西予市三滝公園万葉の道→八幡浜市矢野町神山八幡神社

 八幡浜市市民文化センター東側に小高い山がある。この山に八幡神社がある。参道は結構な石段である。ようやく社殿にたどり着く。社殿右手に「万葉史蹟矢野神山」に碑がある。社殿の裏側に真新しい歌碑が立てられていた。先達のブログ写真と違っており、平成二年に立てなおしたらしい。

八幡浜神社参道

「萬葉史蹟 矢野神山」の碑



■ホテル→松山市梅田町郵便局■

 松山市内のラッシュを避けるべく、ホテルを6時に出発する。郵便局に万葉歌碑が建てられている。額賀王の熟田津の歌である。

松山梅田町郵便局と歌碑

 

松山市梅田町郵便局→松山市古三津久枝神社■

 住宅街の片隅にある古びた神社である。ここも額賀王の熟田津の歌碑である。

久枝神社境内

松山市古三津久枝神社→松山市姫原軽之神社・比翼塚■

 軽之神社は住宅街にあるが、ここだけはタイムスリップしたような趣がある。歩いて比翼塚に向かう。

軽之神社境内にある「軽之神社・軽太子の塚」の説明案内板には、「允恭天皇の皇太子木梨軽太子と軽大郎女の兄妹を祀る。『古事記』によると、軽太子は同母の妹軽大郎女と許されぬ恋におち、太子は伊予の湯に流された。姫は恋しくてたまらず追いかけてきたが、二人はついに『自ら共に死にたまひき』とある。『日本書紀』では、軽大郎女が先に流されたとある。村の人たちは二人の霊を哀れんで神社を建て毎年四月二八日に祭礼を行っている。軽太子と軽大郎女を祀った比翼塚がこの東の山裾にあり、その側に二人の詠んだ歌を刻んだ歌碑が建てられている」と書かれている。

軽之神社

比翼の塚

「軽之神社・軽太子の塚」説明案内板



松山市姫原軽之神社・比翼塚→松山市御幸町護国神社・愛媛万葉苑■

 「万葉苑」は、護国神社境内の「郷土植物園」が母体で、額田王の熟田津の歌碑が建立されたのを機に万葉植物が植えられ、昭和四十三年(1968年)に「愛媛万葉苑」として開苑した。

 万葉歌碑プレートが立てられ、近くに万葉植物が植えられており時の経つのも忘れてしまいそうであった。

愛媛万葉苑の碑

愛媛万葉苑説明案内板

 

松山市御幸町護国神社・愛媛万葉苑→愛媛県西条市下島山櫟津岡 飯積神社■

 飯積神社は「櫟津岡」にある。長忌寸意吉麻呂の歌に「・・・櫟津の檜橋より・・・」と読まれており「櫟津」に因んで歌碑が建てられたようである。

飯積神社名碑

飯積神社鳥居と参道




 歌碑の紹介は後日のブログで行う予定です。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「軽之神社・軽太子の塚の説明案内板」

万葉歌碑を訪ねて(その1779)―高松市香南町 冠纓神社―万葉集 巻十五 三六六八

●歌は、「大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも」である。

高松市香南町 冠纓神社万葉歌碑(阿倍継麻呂)

●歌碑は、高松市香南町 冠纓神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「到筑前國志麻郡之韓亭舶泊經三日於時夜月之光皎々流照奄對此華旅情悽噎各陳心緒聊以裁歌六首」<筑前(つくしのみちのくち)の国の志麻(しま)の郡(こおり)の韓亭(からとまり)に到り、舶泊(ふなどま)りして三日を経ぬ。時に夜月(やげつ)の光、皎々流照(けうけうりうせう)す。奄(ひさ)しくこの華(くわ)に対し、旅情悽噎(せいいつ)す。おのもおのも心緒(しんしよ)を陳(の)べ、いささかに裁(つく)る歌六首>である。

(注)【筑前国】ちくぜんのくに:旧国名。筑州。現在の福岡県北西部。古くは筑紫(つくし)国と呼ばれたものが,7世紀末の律令制成立とともに筑前筑後の2国に分割された。当初は筑紫前(つくしのみちのくち)国と呼ばれた。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)

(注)韓亭:福岡市西区宮浦付近。「亭」は船の停泊する所、またはそこの宿舎。(伊藤脚注)

(注)けうけう【皎皎】形動: 白々と光り輝くさま。光を反照させるさま。こうこう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)奄しくこの華に対し:「奄しく」は、静かにじっと、「華」は、月光。(伊藤脚注)

(注)悽噎:悲しみで一杯。(伊藤脚注)

 

◆於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼 氣奈我久之安礼婆 古非尓家流可母

        (阿倍継麻呂 巻十五 三六六八)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)と思へれど日(け)長くしあれば恋ひにけるかも

 

(訳)大君の遠の官人(つかさびと)であるがゆえに、遣新羅使(けんしらきし)としての本来のありようを保たなければと考える。だが、旅のある日があまりにも久しいので、その気持ちを貫くこともかなわずに、つい都が恋しくなってしまうのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首大使」<右の一首は大使>である。

 

 三六六八歌について、伊藤 博氏は、同歌の脚注で「公の立場をわきまえながらも家恋しさを抑えかねる一行の心情を代表する冒頭歌。」と書かれている。

 

 同じような思いで「ますらをと思える我」と私情に流される己の心情を詠った歌については。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1367)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

三六六九から三六七三歌をみてみよう。

 

◆多妣尓安礼杼 欲流波火等毛之 乎流和礼乎 也未尓也伊毛我 古非都追安流良牟

      (壬生宇太麻呂 巻十五 三六六九)

 

≪書き下し≫旅にあれど夜(よる)は火(ひ)燈(とも)し居(を)る我(わ)れを闇(やみ)にや妹が恋ひつつあるらむ

 

(訳)こんなに苦しい旅の身空ではあるけれども、夜には燈火のもとにいることのできる私なのに、暗闇の中で、あの人は、今頃じっとこの私に恋い焦がれていることであろうか。(同上)

(注)壬生宇太麻呂(みぶのうだまろ):?-? 奈良時代の官吏。天平(てんぴょう)8年(736)遣新羅(しらぎ)使の大判官として渡海。そのときの歌が「万葉集」巻15に5首みえる。翌年帰国し,のち右京亮,但馬守(たじまのかみ)をへて玄蕃頭,外従五位下。名は宇多(陁)麻呂と(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注の注)大判官:副使に次ぐ官。ここは従六位上壬生宇太麻呂。(伊藤脚注)

(注)火燈し居る我れを:燈火の中にいることのできる私なのに・

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1234)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆可良等麻里 能許乃宇良奈美 多々奴日者 安礼杼母伊敝尓 古非奴日者奈之

      (遣新羅使 巻十五 三六七〇)

 

≪書き下し≫韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波立たぬ日はあれども家(いへ)に恋ひぬ日はなし

 

(訳)韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦の波、この波が立たない日はあったとしても、私が家を恋しく思わない日はない。(同上)

(注)能許:博多湾内の能古島。(伊藤脚注)

 

 

◆奴婆多麻乃 欲和多流月尓 安良麻世婆 伊敝奈流伊毛尓 安比弖許麻之乎

      (遣新羅使 巻十五 三六七一)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)渡る月にあらませば家なる妹に逢(あ)ひて来(こ)ましを

 

(訳)私が夜空を渡る月ででもあったなら、家にいるあの人に逢いに行って、またここに帰ってくることができように。(同上)

 

 

◆比左可多能 月者弖利多里 伊刀麻奈久 安麻能伊射里波 等毛之安敝里見由

       (遣新羅使 巻十五 三六七二)

 

≪書き下し≫ひさかたの月は照りたり暇(いとま)なく海人(あま)の漁(いざ)りは燈(とも)し合へり見(み)ゆ

 

(訳)大空に月は皎々と照りわたっている。片や、絶え間もなく、海人たちの漁火

は海の上で点々と燈し合っている。(同上)

(注)「月」:前歌の「月」を承ける。前二首から転じて旅景への哀愁。(伊藤脚注)

 

 

◆可是布氣婆 於吉都思良奈美 可之故美等 能許能等麻里尓 安麻多欲曽奴流

       (遣新羅使 巻十五 三六七二)

 

≪書き下し≫風吹けば沖つ白波畏(かしこみ)みと能許(のこ)の亭(とまり)にあまた夜(よ)ぞ寝(ね)る

 

(訳)風が強く吹くので、沖の白波の恐ろしさに、能許の亭にこうして幾晩も幾晩も独り寝をしているのだ。(同上)

 

「公の立場をわきまえながらも家恋しさを抑えかねる一行の心情」を大使自ら詠い、そこに連帯感、使命感を逆に高めているとも考えられる。このような歌を記録することも万葉集万葉集たる所以であろう。

 

 

 結構広い境内を抱える立派な神社である。歌碑を探すも見つからず。殺虫剤を噴霧している方がいらっしゃったので聞いてみた。社殿の脇から奥に進めば池があるのでその付近では、と教えていただく。

池の近くの分社参道脇の歌碑

 祝詞が流れてくる厳かな雰囲気のなか、池の方へ。分社の社の手前左手に歌碑が建てられていた。サヌカイトの歌碑である。

 

 車に戻ろうと歩いていると、先ほどの方を見承けたので、お礼を申し上げた。神社をあちこち巡っておられるのですか、との質問があったので、万葉歌碑を巡っている旨お話をした。

 すると、ご親切に、よかったら、神社のパンフレットがありますからもらって下さい、とのこと。社務所に戻られ、中からわざわざ持ってきていただいたのである。(殺虫剤を噴霧されていたので、業者の方と思っていたが、神社の関係者であったのだ。失礼しました!)

 このパンフレットを帰ってから見て、同神社に巻十五の歌碑が建てられているいわれが分かった。

 同神社には、平安時代後期の万葉集の古写本(天治本萬葉集)を所蔵しているのである。パンフレットには「万葉集全二十巻のうち、『天治本』以前の古写本にはない歌など巻十五の五十八首が、流麗な筆致で書かれており、万葉仮名をまだ完全に読解できなかった当時の苦心の模様も伝え、万葉集研究の貴重な資料ともなるものである。(中略)三六八八番から三七二五番までの遣新羅使節の歌と、中臣宅守の贈答歌などを載せている。(後略)」と書かれている。

 歌碑の側面下部に「昭和五十六年十一月二十日天治本萬葉集巻子発見」と刻されている。知っていれば当然写真に写すのであるが・・・。

 

 歌碑の正面左下部には、「冠纓神社天治本萬葉集巻頭ノ一首 遣新羅大使阿倍朝臣継麻呂瀬戸内ヲ舟航筑前国韓亭ニ到りて詠ズ 伊藤 博」と刻されている。

 

 境内の狛犬に沢山の紐がかけられている。

かんえい【冠纓】を検索すると、「冠(かんむり)のひも。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)」とある。この紐の正体は冠の紐である。

神社名碑と楼門

社殿


 

 

歌碑に関する予習をもっともっとすべきと反省した次第である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「冠纓(かんえい)神社香川県香南町」(同神社パンフレット)」

万葉歌碑を訪ねて(その1777、1778)―坂出市高屋町 塩釜神社、同町 白峰展望台―万葉集巻一 五、六

―その1777―

●歌は、「霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば・・・」である。

坂出市高屋町 塩釜神社万葉歌碑(軍王)

●歌碑は、坂出市高屋町 塩釜神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌」<讃岐(さぬき)の国の安益(あや)の郡(こほり)に幸(いでます)時に、軍王(こにきしのおほきみ)が山を見て作る歌>である。

(注)軍王 いくさのおおきみ:飛鳥(あすか)時代の歌人。舒明(じょめい)天皇にしたがい、讃岐(さぬき)でよんだ歌を「万葉集」にのこす。斉明天皇七年(661年)百済(くだら)(朝鮮)に帰国した百済の王子余豊璋(よ-ほうしょう)とする説、文武天皇のころの人物とする説などがある。「こにきしのおおきみ」ともよむ。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)安益(あや)の郡:香川県綾歌群東部。(伊藤脚注)

(注)山を見て作る歌:山を見て望郷の念を述べる歌。(伊藤脚注)

 

 

◆霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨座 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情

     (軍王 巻一 五)

 

≪書き下し≫霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥(どり) うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠(とほ)つ神(かみ) 我(わ)が大君の 行幸(いでまし)の 山越(やまこ)す風の ひとり居(を)る 我(わ)が衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば ますらをと 思へる我(わ)れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼(や)く塩の 思ひぞ焼くる 我(あ)が下心(したごころ)

 

(訳)霞(かすみ)立ちこめる、長い春の日がいつ暮れたのかわけもわからぬほど、この胸のうちが痛むので、ぬえこ鳥のように忍び泣きをしていると、玉襷(たまたすき)を懸(か)けるというではないが、心に懸けて想うのに具合よろしく、遠い昔の天つ神そのままにわれらが大君のお出(で)ましの地の山向こうの故郷の方から神の運んでくる風が、家を離れてたったひとりでいる私の衣の袖(そで)に、朝な夕な、帰れ帰れと吹き返るものだから、立派な男子だと思っている私としてからが、草を枕の遠い旅空にあることとて、思いを晴らすすべも知らず、網(あみ)の浦(うら)の海人娘子(あまおとめ)たちが焼く塩のように、故郷への思いにただ焼(や)け焦(こ)がれている。ああ、切ないこの我が胸のうちよ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かすみたつ【霞立つ】分類枕詞:「かす」という同音の繰り返しから、地名の「春日(かすが)」にかかる。「かすみたつ春日の里」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)わづき:区別。孤語で、他に例がない。(伊藤脚注)

(注)むらきもの【群肝の】分類枕詞:「心」にかかる。心は内臓に宿るとされたことからか。「むらぎもの」とも。(学研)

(注)ぬえこどり【鵼小鳥】分類枕詞:悲しげな鳴き声から「うらなく(=忍び泣く)」にかかる。(学研)

(注の注)ぬえ【鵼・鵺】名詞:鳥の名。とらつぐみ。夜、ヒョーヒョーと鳴く。鳴き声は、哀調があるとも、気味が悪いともされる。「ぬえことり」「ぬえどり」とも。(学研)

(注)たまだすき【玉襷】名詞:たすきの美称。たすきは、神事にも用いた。 ※「たま」は接頭語。(学研)

(注の注)たまだすき【玉襷】分類枕詞:たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)

(注)かけ【掛け・懸け】名詞:心や口の端にかけること。口に出して言うこと。(学研)

(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考 古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)ここでは①の意

 

 

 次に反歌をみてみよう。

 

◆山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹櫃

(巻一 六 軍王)

 

≪書き下し≫山越(やまこ)しの風を時じみ寝(ぬ)る夜(よ)おちず家なる妹(いも)を懸(か)けて偲ひつ

 

(訳)山越しの風が絶えず袖をひるがえすので、寝る夜は一夜(ひとよ)もおかず、家に待つ妻、あのいとしい妻を、私は吹きかえる風に事寄せては偲んでいる。(同上)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。(学研) ⇒参考:上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。

(注)おちず【落ちず】分類連語:欠かさず。残らず。(学研) ⇒なりたち:動詞「おつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連用形(学研)

 

 左注は、「右檢日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊与温湯宮 云々 一書 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌 云々 若疑従此便幸之歟」<右は、檢日本書紀に検(ただ)すに、讃岐の国に幸(いでま)すことなし。 また、軍王(こにきしのおほきみ)もいまだ詳(つばひ)らかにあらず。ただし、山上憶良大夫(やまのうへのおくらのまへつきみ)が類聚歌林(るいじうかりん)に曰(い)はく、「紀には『天皇の十一年己亥(つちのとゐ)の冬の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、伊与(いよ)の温湯(ゆ)の宮(みや)に幸(いでま)す云々(しかしか)』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹(き)に斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)との二つの鳥いたく集(すだ)く。時に勅(みことのり)して多(さは)に稲穂(いなほ)を掛けてこれを養(か)はしめたまふ。すなはち作る歌云々』といふ」と。けだし、ここよりすなはち幸(いでま)すか>である。

(注)この左注は、天平十七年(745年)段階で大伴家持たちが付したものらしい。(伊藤脚注)

(注)壬午(みづのえうま):干支で日を数えたもの。十四日。(伊藤脚注)

(注)いかるが【斑鳩】名詞:鳥の名。もずに似た渡り鳥。まめまわし。「いかる」とも(学研)

(注の注)斑鳩:「比米」と共にスズメ科の小鳥。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1712)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 香川県さぬき市HPに塩釜神社について、「塩田の安全繁栄を祈願するための神社で、祭神は大綿津見神である。香川県内には塩釜神社が十数社あるといわれる。

 その起源は、江戸時代に遡り、文政4年高松藩主となった松平頼恕が、坂出に塩田115町歩を埋め立て造成した折に、家老の久米通賢に命じて、沖湛甫に奏斎したのが始まりといわれる。その後、各地で塩田が開発されるたびに勧請された。

 長浜地区の塩釜神社も、そのようにして建てられた塩釜神社の一つであると考えられる。」と書かれている。

 坂出市高屋町の塩釜神社もその一つであろう。坂出市HPの「町名・地名由来(現在)」の「高屋町」について、「保元の昔、讃岐に流された崇徳上皇が上陸された松山ノ津(松ヶ浦海岸)を管理していた,高床館が設けられていたのが由来。白峰山登山口にある高家神社は、讃岐路で亡くなられた上皇の遺体を白峰山に葬る際、奉葬の一行が休憩所にあてたことで有名。景色に恵まれており、坂出市との合併までは、旧松山村の中心地だった。」と書かれている。

 

 塩釜神社の歌碑はサヌカイトであり、鏡面反射し歌碑を写すのは一苦労である

(注)サヌカイトの名前の由来:讃岐の名石として知られるサヌカイトは黒色緻密で堅く、たたくとカンカンと金属音を出すので、属に「カンカン石」と呼ばれる。割ると鋭利な角崚や貝殻状の割れ口を呈することから、縄文~弥生時代の生活用具として、矢じりや石刀など人類発展に大きな役割を果たした。(中略)1891年にドイツの岩石学者ワイシェンク(Weinschenk)が来日して研究し、世界で珍しい感関として、産地の旧国名讃岐にちなみ、サヌキット(Sanukit)と命名して報告した。これが英語読みのサヌカイト(Sanukite)となり、世界的にも有名になり、日本でも『讃岐岩』として知られるようになった。(後略)(香川大学博物館HP)

 

■ホテル⇒坂出市高屋町 塩釜神社

 2日目の最初の歌碑は、塩釜神社にある。

楼門と境内と社殿

社殿

県道16号線沿い、五色台の麓にある小さな楼門と社殿が残っているだけの小ぢんまりとした神社である。楼門の右側境内の隅っこに歌碑は建てられている。

 この歌碑は、坂出市万葉を歩く会が建立したもので、冒頭に巻一 五歌「霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥(どり) うら泣け居(を)れば・・・」と刻されており、「ぬえこ鳥(トラツグミ)」は、ものの哀れを想起させる鳥である旨が書かれていた。

 

 

 

―その1778-

●歌は、「霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば・・・(巻一 五歌)」

「山越の風を時じみ寝る夜おちず家にある妹を懸けて偲ひつ(巻一 六歌)である。

 

●歌碑は、坂出市高屋町 白峰展望台にある。

白峰展望台万葉歌碑(軍王)

●歌は、前稿(その1777)と同じである。             

 

白峰展望台案内碑と歌碑

坂出市高屋町 塩釜神社⇒同 白峰展望台

 神社をあとにし、四国八十八カ所第八十一番白峰寺に通じる山道を上って行く。白峰展望台に歌碑は建てられている。

 塩竈神社の歌碑もそうであるがここも磨き上げた黒色の鏡面のサヌカイトに刻されているので、映り込みがきつく写真としては苦手な歌碑である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「香川県さぬき市HP」

★「坂出市HP」

★「香川大学博物館HP」

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1776)―坂出市沙弥島オソゴエ浜「柿本人麿碑」―

柿本人麻呂の二二〇から二二二歌関連の碑である。

坂出市沙弥島オソゴエ浜「柿本人麿碑」



●「柿本人麿碑」は、坂出市沙弥島オソゴエ浜にある。 

 

●関連の歌をみていこう。

 

 この歌は、題詞、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>の長歌(二二〇歌)と反歌二首(二二一、二二二歌)の歌群である。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙美弥島。今は陸続きになっている。

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。

 

◆玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱悒久 待加戀良武 愛伎妻等者

       (柿本人麻呂 巻二 二二〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来(きた)る 那珂(なか)の港ゆ 船浮(う)けて 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折(を)りて をちこちの 島は多(おほ)けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家(いへ)知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは

 

(訳)玉藻のうち靡(なび)く讃岐の国は、国柄が立派なせいかいくら見ても見飽きることがない。国つ神が畏(かしこ)いせいかまことに尊い。天地・日月とともに充ち足りてゆくであろうその神の御顔(みかお)であるとして、遠い時代から承(う)け継いで来たこの那珂(なか)の港から船を浮かべて我らが漕ぎ渡って来ると、突風が雲居はるかに吹きはじめたので、沖の方を見るとうねり波が立ち、岸の方を見ると白波がざわまいている。この海の恐ろしさに行く船の楫(かじ)が折れるなかりに漕いで、島はあちこちとたくさんあるけれども、中でもとくに名の霊妙な狭岑(さみね)の島に漕ぎつけて、その荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音のとどろく浜辺なのにそんなところを枕にして、人気のない岩床にただ一人臥(ふ)している人がいる。この人の家がわかれば行って報(しら)せもしよう。妻が知ったら来て言問(ことど)いもしように。しかし、ここに来る道もわからず心晴れやらぬままぼんやりと待ち焦がれていることだろう、いとしい妻は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもよし【玉藻よし】分類枕詞:美しい海藻の産地であることから地名「讚岐(さぬき)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)那珂(なか)の港:丸亀市金倉川の河口付近。(伊藤脚注)

(注の注)金倉川:中津万象園・丸亀美術館の東側を流れる川である。

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞(学研)

(注)とゐなみ【とゐ波】名詞:うねり立つ波。(学研)

(注)なぐはし【名細し・名美し】形容詞:名が美しい。よい名である。名高い。「なくはし」とも。 ※「くはし」は、繊細で美しい、すぐれているの意。上代語。(学研)

(注)狭岑(さみね)の島:今の沙弥島(しゃみじま)(香川県HP)

(注)ころふす【自伏す】:ひとりで横たわる。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも。(学研)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)

 

 

◆妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也

        (柿本人麻呂 巻二 二二一)

 

≪書き下し≫妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野(の)の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや

 

(訳)せめて妻でもここにいたら、一緒に摘んで食べることもできたろうに、狭岑のやまの野辺一帯の嫁菜(よめな)はもう盛りが過ぎてしまっているではないか。(同上)

 

「うはぎ」は、古名はオハギ(『出雲風土記(いずもふどき)』)あるいはウハギで、『万葉集』にはウハギの名で二首が収録されている。春の摘み草の対象とされ、「春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(おとめ)らし春野のうはぎ摘(つ)みて煮らしも」(巻十 一八七九)と詠まれているように、よく食べられていたとみられる。(コトバンク 日本大百科全書<文化史>)

 

 

◆奥波 来依荒磯乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞

       (柿本人麻呂 巻二 二二二)

 

≪書き下し≫沖つ波来(き)寄(よ)る荒磯(ありそ)を敷栲(しきたへ)の枕とまきて寝る(な)せる君かも

 

(訳)沖つ波のしきりに寄せ来る荒磯なのに、そんな磯を枕にしてただ一人で寝ておられるこの夫(せ)の君はまあ。」(同上)

(注)なす【寝す】動詞:おやすみになる。▽「寝(ぬ)」の尊敬語。※動詞「寝(ぬ)」に尊敬の助動詞「す」が付いたものの変化した語。上代語。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1711)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「柿本人麿碑」については、香川県HP「東山魁夷せとうち美術館 周辺案内」に、「昭和11年坂出市出身の作家 中河与一氏が、沙弥島を訪れる人に、人麻呂を通じて万葉の心を喚起してもらうことを願うために建立されました。当初、石碑はナカンダ浜の東岸に瀬戸内海に向かって建てられていましたが、昭和59年の遊歩道整備とともに、人麻呂が歌を詠んだ人麻呂岩の近くのオソゴエの浜に移設しました。歌碑は歌人川田順氏の書によります。」と書かれている。

 

中河與一氏の碑建立への思い

 碑には、中河與一氏の碑建立の思いが次の様に記されている。

 「文武天皇の大御世 柿本人麿中之水門よりこの島に航海し来り長歌一首短歌二首を作る 中之水門は今の仲多度郡中津附近なるべし 途上海路の風色を讃美し この島に渡りて石中の死人を視 作歌す 惻隠の心懐哀烈の神韻共に古今に絶す 地を卜して今その記念碑を建つ 人来りて懐古し わが民族の血統を思うべし

 昭和十一年十月  中河與一 記」

(注)ぼくする【卜する】[動]⓵うらなう。うらなって、よしあしを判断する。②うらなって定める。また、判断し定める。

柿本人麿碑

瀬戸大橋記念公園駐車場からの人麿碑遠望




 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク 日本大百科全書<文化史>」

★「香川県HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1773~1775)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(47)~(49)―万葉集巻二十 四三五二、巻二十 四四一八、巻二十 四四四八

―その1773―

●歌は、「道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(47)万葉集(丈部鳥)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(47)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟

       (丈部鳥 巻二十 四三五二)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)の茨(うまら)のうれに延(は)ほ豆(まめ)のからまる君をはかれか行かむ

 

(訳)道端の茨(いばら)の枝先まで延(は)う豆蔓(まめつる)のように、からまりつく君、そんな君を残して別れて行かねばならないのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)うまら【茨・荊】名詞:「いばら」に同じ。※上代の東国方言。「うばら」の変化した語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うれ【末】名詞:草木の枝や葉の先端。「うら」とも。

(注)「延(は)ほ」:「延(は)ふ」の東国系

 

左注は、「右一首天羽郡上丁丈部鳥」<右の一首は天羽(あまは)の郡(こほり)上丁(じやうちゃう)丈部鳥(はせつかべのとり)

(注)天羽郡:千葉県富津市南部一帯

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1098)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1774―

●歌は、「我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな地に落ちるかも」である。

 

坂出市沙弥島 万葉樹木園(48)万葉歌碑(物部廣足)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(48)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈ゝ 都知尓於知母加毛

       (物部廣足 巻二十 四四一八)

 

≪書き下し≫吾が門の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(な)れ我が手触(ふ)れなな地(つち)に落ちもかも

 

(訳)おれの家の門口に近くの片山椿よ、本当にお前、お前さんにはおれは手を触れないでいたい。しかしこのままにしておいたのでは、地に落ちてしまうかな。(同上)

(注)吾が門の片山椿(かたやまつばき):近所に住む「女」の喩え。

(注)かたやま【片山】:一方が崖(がけ)になっている山。一説に、孤立した山。 (weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)なな 分類連語:…ないで。…(せ)ずに。 ※ 活用語の未然形に接続する。上代の東国方言。

 

左注は、「右一首荏原郡上丁物部廣足」<右の一首は荏原郡(えばらのこほり)の上丁(じゃうちゃう)物部広足(もののべのひろたり)>である。

                           

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(365)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 その一七七三、一七七五歌は、「防人歌」である。

 「防人歌」というと、お国のためといった「公的な臭いがプンプンする歌」が多いように思うが、万葉集に収録されている「防人歌」は、巻二十(九十三首)を中心に約百首であるが、その内、公的な臭いというか建前的な歌は十首位である。

 残りの九十首ほどは「私的な人間性溢れる」歌である。

 四三五二、四四一八歌も「防人歌」に収録されていなければ、別れに際しての残るものへの思いを謳い上げた「私的な」歌である。「防人歌」の範疇に在るので、残された者への思いは、より深く、より強く読む人の心を打つのである。

 

 人は、公私、建前と本音の使い分け、というかバランス感覚で乗り切っている。「防人歌」に収録されている大舎人部千文の歌をみてみよう。

 

◆都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之礽

       (大舎人部千文 巻二十 四三六九)

 

≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ

 

(訳)筑波の峰に咲き匂うさゆりの花というではないが、その夜(よる)の床でもかわいくてならぬ子は、昼間でもかわいくってたまらぬ。(同上)

(注)上二句は序。「夜床」を起こす。

(注)さ百合の花:妻を匂わす

 「百合(ゆる)」から「夜床(ゆとこ)」を起こす、東国訛り同音でもってくるのが、微笑ましい。おのろけの様が目に浮かぶのである。

 

◆阿良例布理 可志麻能可美乎 伊能利都ゝ 須米良美久佐尓 和例波伎尓之乎

      (大舎人部千文 巻二十 四三七〇)

 

≪書き下し≫霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを

 

(訳)霰が降ってかしましいというではないが、鹿島の神、その猛々(たけだけ)しい神に祈りながら、天皇(すめらき)の兵士として、おれはやって来たつもりなのに・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)霰降り:「鹿島」の枕詞。

(注)鹿島の神:鹿島神宮の祭神、武甕槌神。(伊藤脚注)

(注)結句「我れは来にしを」の下に、四三六九歌のような妻への愛着に暮れるとは、の嘆きがこもる。(伊藤脚注)

(注)を 接続助詞《接続》活用語の連体形に付く。まれに体言に付く。:①〔逆接の確定条件〕…のに。…けれども。②〔順接の確定条件〕…ので。…から。③〔単純接続〕…と。…ところ。…が。(学研)ここでは①の意

 

 大舎人部千文は、四三七〇歌で「皇御軍に我れは来にし」と宣言しつつも、「やって来たつもりなのに・・・」と「皇御軍」になりきれていない自分を攻めている。逆にこのことが、より大舎人部千文の人間らしさを浮き彫りにし、また四三六九歌も生き生きとしてくるのである。

 

 これに似たようなニュアンスで、 「ますらをと思へる」とは、「ますらをたるものが・・・」という、すなわち「立派なお役人ともあろうお方が・・・」と期待されるイメージとのギャップを言外に漂わせている歌が数多く収録されている。

 これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 万葉集には、大伴旅人人間性をうかがわせる歌も収録されている。

これをみてみよう。

 

◆八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念

        (大伴旅人    巻六 九五六)

 

≪書き下し≫やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和(やまと)もここも同(おな)じとぞ思ふ

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる国、その国は、大和もここ筑紫(つくし)も変わりはないと思っています。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。

(注)をす【食す】他動詞:①お召しになる。召し上がる。▽「飲む」「食ふ」「着る」「(身に)着く」の尊敬語。②統治なさる。お治めになる。▽「統(す)ぶ」「治む」の尊敬語。 ※上代語。(学研)

 

 これは、旅人が、大宰少貮石川朝臣足人の次の歌に対して和した歌である。

 

◆刺竹之 大宮人乃 家跡住 佐保能山乎者 思哉毛君

        (石川足人 巻六 九五五)

 

≪書き下し≫さす竹の大宮人(おほみやひと)の住む佐保(さほ)の山をば思(おも)ふやも君

 

(訳)奈良の都の大宮人たちが、自分の家として住んでいる佐保の山、その山のあたりを懐かしんでおられますか、あなたは。(同上)

 

 

これに対して、気の許す仲間達との宴席で、同じような問いかけが、大伴四綱から投げかけられた時には、旅人は、本音で答えている。

 

◆藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君

         (大伴四綱 巻三 三三〇)

 

≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君

 

(訳)ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「思ほすや君」:大伴旅人への問いかけ

 

 これに対して、旅人は、題詞「帥大伴卿歌五首」<帥大伴卿(そちのおほとものまへつきみ)が歌五首>で答えているのである。書き下しを並べてみます。

 

◆我(わ)が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(三三一歌)

◆我(わ)が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため(三三二歌)

◆浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも(三三三歌)

◆忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため(三三四歌)

◆我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵しありこそ(三三五歌)

 

 本音どころか、弱弱しい面までさらけだしており、九五六歌のように、「八隅知之 吾大王乃 御食國者」と、マクロ的にみて、大和も大宰府も同じと言い切る、旅人の姿は、ここにはない。

 

 これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1775―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(48)万葉歌碑(橘諸兄

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(49)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

       (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

 

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

 

  題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」<同じき月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(たく)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」他で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 橘諸兄の四四四八歌は、どこの万葉植物園でも歌碑が設置されているといっても過言ではない。歌碑のみみてみよう。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1771~1772)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(45)、(46)―万葉集巻十九 四二二四、巻二十 四三〇一

―その1771―

●歌は、「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得牟可も我がやどの萩」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(45)万葉歌碑(光明皇后

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(45)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆朝霧之 多奈引田為尓 鳴鴈乎 留得哉 吾屋戸能波義

        (光明皇后 巻十九 四二二四)

 

≪書き下し≫朝霧(あさぎり)のたなびく田居(たゐ)に鳴く雁(かり)を留(とど)め得むかも我が宿の萩(はぎ)

 

(訳)朝霧のたなびく田んぼに来て鳴く雁、その雁を引き留めておくことができるだろうか、我が家の庭の萩は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は。「右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳 十月五日河邊朝臣東人傳誦云尓」<右の一首の歌は、吉野の宮に幸(いで)ます時に、藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)作らす。 ただし、年月いまだ審詳(つばひ)らかにあらず。 十月の五日に、河邊朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)、伝誦(でんしょう)してしか云ふ>である。

(注)藤原皇后:光明皇后藤原不比等の娘。孝謙天皇の生母。

(注)伝誦(でんしょう)( 名 ):語り伝えること。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版) 

 

 藤原皇后の歌は万葉集に三首が収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その645)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「藤原皇后」については、万葉集では「皇后」、「太后」、「皇太后」、「藤原后」、「藤原太后」という呼び方で万葉集には出ている。

 それぞれをみてみよう。

 

■皇后:巻六 一〇〇九歌左注■

 左注は、「右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇ゝ后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇ゝ后御歌各有一首者其歌遺落未得探求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢」<右は、冬の十一月の九日に、従三位葛城王従四位上佐為王等(さゐのおほきみたち)、皇族の高き名を辞(いな)び、外家(ぐわいか)の橘の姓を賜はること已訖(をは)りぬ。その時に、太上天皇(おほきすめらのみこと)・皇后(おほきさき)、ともに皇后の宮に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)をなし、すなはち橘を賀(ほ)く歌を御製(つく)らし、并(あは)せて御酒(みき)を宿禰等(すくねたち)に賜ふ。或(ある)いは「この歌一首は太上天皇の御歌。ただし、天皇皇后の御歌おのもおのも一首あり」といふ。その歌遺(う)せ落(お)ちて、いまだ探(たづ)ね求むること得ず。今案内(あんない)に検(ただ)すに、「八年の十一月の九日に、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日をもちて、表の乞(ねがひ)によりて橘宿禰を賜ふ」。と>

 

 一〇〇九歌ならびに左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その480)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

皇后 巻八 一五九四歌左注■

題詞は、「佛前唱歌一首」<仏前(ぶつぜん)の唱歌(しやうが)一首>である。

(注)しゃうが【唱歌】名詞:①笛・琴・琵琶(びわ)などの旋律を、譜によって口で歌うこと。②楽に合わせて歌を歌うこと。 ※「さうが」とも。(学研)

 

◆思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落巻惜毛

       (作者未詳 巻八 一五九四)

 

≪書き下し≫しぐれの雨間(ま)なくな降りそ紅(くれなゐ)ににほへる山の散らまく惜しも

 

(訳)しぐれの雨よ、そんなに絶え間なく降らないでおくれ。紅色に美しく照り映える山のもみじが散ってゆくのは、何とも残念でたまらない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右冬十月皇后宮之維摩講 終日供養大唐高麗等種々音樂 尓乃唱此歌詞 弾琴者市原王 忍坂王≪後賜姓大原真人赤麻呂也」 歌子者田口朝臣家守 河邊朝臣東人 置始連長谷等十數人也」<右は、冬の十月に、皇后宮(きさきのみや)の維摩講(ゆいまかう)に、 終日(ひねもす)に大唐(からくに)・高麗(こま)等の種々(くさぐさ)の音楽を供養(くやう)し、すなはちこの歌詞を唱(うた)ふ。 弾琴(ことひき)は市原王(いちはらのおほきみ)・忍坂王(おさかのおほきみ)≪後に姓大原真人、赤麻呂を賜はる≫ 歌子(うたひと)は田口朝臣家守(たのくちのあそみやかもり)・河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)・置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)等(たち)十數人なり>である。

(注)皇后:聖武天皇皇后。光明子。(伊藤脚注)

(注)維摩講:維摩経を講ずる法会。祖父鎌足の七十周忌の供養のため、皇后宮で営まれたもの。(伊藤脚注)

 

藤原后 一六五八歌題詞■

 題詞は、「藤皇后奉天皇御歌一首」<藤皇后(とうくわうごう)天皇に奉(たてまつ)る御歌一首>である。

 

 一六五八歌ならびに題詞についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その42改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

藤原皇后 巻十九 四二二四歌左注■

 上述の通り。

 

藤原太后 巻十九 四二四〇題詞■

題詞は、「春日祭神之日藤原太后御作歌一首 即賜入唐大使藤原朝臣清河≪参議従四位下遣唐使≫」<春日(かすが)にして神を祭る日に、藤原太后(ふづはらのおほきさき)の作らす歌一首 すなはち、入唐大使(にふたうたいし)藤原朝臣清河(ふぢはらのあそみきよかは)に賜ふ≪参議従四位下遣唐使」≫>である。

 

 四二四〇歌ならびに題詞については上述の四二二四歌と同じくブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その645)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

太后 巻十九 四二六八題詞■

題詞は、「天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株抜取令持内侍佐ゝ貴山君遣賜大納言藤原卿幷陪従大夫等御歌一首   命婦誦日」<天皇(すめらみこと)、太后(おほきさき)、共に大納言藤原家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭一株(さはあららぎひともと)を抜き取りて、内侍(ないし)佐々貴山君(ささきのやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原卿(ふぢはらのまえつきみ)と陪従(べいじゅ)の大夫(だいぶ)等(ら)とに遣(つかは)し賜ふ御歌一首   命婦(みやうぶ)誦(よ)みて日(い)はく>である。

(注)天皇孝謙天皇

(注)太后天皇の母、光明皇后

(注)大納言:藤原仲麻呂

(注)内侍:内侍の司(つかさ)の女官。天皇の身辺に仕え、祭祀を司る。

(注)陪従大夫:供奉する廷臣たち

(注)命婦:宮中や後宮の女官の一つ

 

 四二六八歌ならびに題詞についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1129)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

太后 巻二十 四四五七題詞■ 

 題詞は、「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戌申 太上天皇大后幸行於河内離宮      経信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)八歳丙申(ひのえさる)二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)の二十四日戌申(つちのえさる)に、太上天皇大后、於河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信以壬子(ふたよあまりみづのえね)をもちて難波(なには)の宮に伝幸(いでま)す。三月の七日に、於河内の国伎人(くれ)の郷(さと)の馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

 四四五七~四三五九歌をみてみよう。

 

◆須美乃江能 波麻末都我根乃 之多婆倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢

       (大伴家持 巻二十 四四五七)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野(をの)の草な刈(か)りそね

 

(訳)住吉の浜松の根がずっと延びているように、心の底深く思いを寄せて私が見る小野、この小野の草は刈らずにそのままにしておいておくれ。(同上)

(注)上二句は序。「下延へて」を起こす。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首兵部少輔大伴宿祢家持」<右の一首は兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1374)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

◆尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 <古新未詳>

 

≪書き下し≫にほ鳥(どり)の息長川(おきながかわ)は絶えぬとも君に語らむ言尽(ことつ)きめやも <古新未詳>

 

(訳)にお鳥の息長(いきなが)、息長(おきなが)の川の流れ絶えてしまおうとも、私があなたに語りかけたいと思う、その言葉の尽きることなどあるものですか。(同上)

(注)にほどりの【鳰鳥の】分類枕詞:かいつぶりが、よく水にもぐることから「潜(かづ)く」および同音を含む地名「葛飾(かづしか)」に、長くもぐることから「息長(おきなが)」に、水に浮いていることから「なづさふ(=水に浮かび漂う)」に、また、繁殖期に雄雌が並んでいることから「二人並び居(ゐ)」にかかる。「にほどりの葛飾(⇒にへす)」(学研)

(注)息長川:伊吹山に発する天野川。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首主人散位寮散位馬史國人」<右の一首は主人(あろじ)散位寮(さんゐれう)の散位馬史国人(うまのふひとくにひと)>である。

(注)さんい 散位:令制で,位階をもちながら官職についていない者の称呼。「さんに」とも読み,散官ともいう。もと散位寮,のち式部省の所管で,臨時の諸使,諸役のために出勤した。また,三位以上で摂関,大臣,大・中納言,参議のいずれにも就任していない者をいうこともある。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

 

◆蘆苅尓 保里江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓

       (大伴池主 巻二十 四四五九)

 

≪書き下し≫葦刈(あしか)りに堀江(ほりえ)漕(こ)ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人(おほみやひと)の皆(みな)聞くまでに

 

(訳)葦を刈り取るために堀江を漕ぐ櫂(かい)の音、その音は、この大宮の内にいる誰もが聴き耳を立てるほど間近に聞こえてくる。(同上)

 

左注は、「右一首式部少丞大伴宿祢池主讀之 即兵部大丞大原真人今城 先日他所讀歌者也」<右の一首は、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主読む。すなはち云はく、「兵部大丞(ひやうぶのせうじよう)大原真人今城 、先(さき)つ日(ひ)に他(あた)し所にして読む歌ぞ」といふ>である。

(注)三月一日に太上天皇の堀江行幸があった。その折の読誦歌か。(伊藤脚注)

 

 

 

太后(おほきさき) 巻二十 四三〇一題詞■

題詞は、「七日天皇太上天皇太后在於東常宮南大殿肆宴歌一首」<七日に、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、太后(おほきさき)、東(ひむがし)の常宮(つねのみや)の南の大殿に在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふ歌一首>である。

(注)天皇孝謙天皇太上天皇聖武天皇、皇太后:光明皇大后

 

 四三〇一歌ならびに題詞についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1120)」で紹介している。また、次稿(その1772)も同歌である。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1772―

歌は、「印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(46)万葉歌碑(安宿王

歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(46)にある。

 

歌をみていこう。

 

◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之

       (安宿王 巻二十 四三〇一)

 

≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし

 

(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(同上)

(注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(学研)

(注)あからがしは【赤ら柏】: 葉が赤みを帯びた柏。供物を盛る具。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)

 

 前稿(その1771)でもふれているので歌のみの紹介にとどめます。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」