万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1767~1770)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(41)~(44)―万葉集巻十九 四一六四、巻十九 四二〇〇、巻十九 四二〇四

―その1767―

●歌は、「ちちの実の父の命ははそ葉の母の命おほろかに・・・名を立つべしも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(41)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(41)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「慕振勇士之名歌一首 并短歌」<勇士の名を振(ふる)はむことを慕(ねが)ふ歌一首 幷(あは)せて短歌」である。

 

◆知智乃實乃 父能美許等 波播蘇葉乃 母能美己等 於保呂可尓 情盡而 念良牟 其子奈礼夜母 大夫夜 無奈之久可在 梓弓 須恵布理於許之 投矢毛知 千尋射和多之 劔刀 許思尓等理波伎 安之比奇能 八峯布美越 左之麻久流 情不障 後代乃 可多利都具倍久 名乎多都倍志母

       (大伴家持 巻十九 四一六四)

 

≪書き下し≫ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉(ば)の 母の命(みこと) おほろかに 心尽(つく)して 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空(むな)しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振り起し 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射(い)わたし 剣(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏(ふ)み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも

 

(訳)ちちの実の父の命も、ははそ葉の母の命も、通り一遍にお心を傾けて思って下さった、そんな子であるはずがあろうか。されば、われらますらおたる者、空しく世を過ごしてよいものか。梓弓の弓末を振り起こしもし、投げ矢を持って千尋の先を射わたしもし、剣太刀、その太刀を腰にしっかと帯びて、あしひきの峰から峰へと踏み越え、ご任命下さった大御心のままに働き、のちの世の語りぐさとなるよう、名を立てるべきである。(同上)

(注)ちちのみの【ちちの実の】分類枕詞:同音の繰り返しで「父(ちち)」にかかる。(学研weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ちちのみこと【父の命】:父を敬っていう語。父上。父君。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)ははそばの【柞葉の】分類枕詞:「ははそば」は「柞(ははそ)」の葉。語頭の「はは」から、同音の「母(はは)」にかかる。「ははそはの」とも。(学研)

(注の注)ははそ【柞】名詞:なら・くぬぎなど、ぶな科の樹木の総称。紅葉が美しい。[季語] 秋。(学研)

(注)ははのみこと【母の命】名詞:母君。母上。▽母の尊敬語。(学研)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。(学研)

(注)や 係助詞《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。 ※ここでは、文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。):①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研) ここでは、③の意

(注)空しくあるべき:無為に過ごしてよいものであろうか。ここまで前段、次句以下後段。(伊藤脚注)

(注)さしまくる心障(さや)らず:御任命下さった大御心に背くことなく。「さし」は指命する意か。「まくる」は「任く」の連体形。(伊藤脚注)

(注の注)まく【任く】他動詞:①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意

(注の注)さやる【障る】自動詞:①触れる。ひっかかる。②差し支える。妨げられる。(学研)

 

 この歌ならびに四一五九から四一六五歌の歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)」で紹介している。

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 「ちちの実の 父の命(みこと) 」「ははそ葉(ば)の 母の命(みこと)」の両句は、家持の四四〇八歌にみえる。

 四四〇八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1507)」で紹介している。

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 「ははそ」は、藤原宇合の一七三〇歌にみえる。

 一七三〇歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その553)」で紹介している。

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―その1768―

●歌は、「ちちの実の父の命ははそ葉の母の命おほろかに・・・名を立つべしも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(42)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(42)にある。

 

●歌は、前稿(その1767)と同じである。歌碑の写真の掲載にとどめる。

             

 

 

―その1769―

●歌は、「多祜の浦の底さえにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(43)万葉歌碑(忌寸縄麻呂)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(43)にある。

 

●歌をみていこう。

 

四一九九~四二〇二歌の題詞は、「十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花各述懐作歌四首」<十二日に、布勢水海(ふせのみづうみ)に遊覧するに、多祜(たこ)の湾(うら)に舟泊(ふなどま)りす。藤の花を望み見て、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌四首>である。

 

◆多祜乃浦能 底左倍尓保布 藤奈美乎 加射之氐将去 不見人之為

      (内蔵忌寸縄麻呂 巻十九 四二〇〇)

 

≪書き下し≫多祜の浦の底さえへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため

 

(訳)多祜の浦の水底さえ照り輝くばかりの藤の花房、この花房を髪に挿して行こう。まだ見たことのない人のために。(同上)

(注)富山県氷見市の南にあった布勢の湖(うみ)の湖岸。現在の上田子・下田子や十二町潟のあたり。藤の名所として知られた。[歌枕](コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)布勢の円山は、万葉集に詠まれた美しい布勢の水海の孤島であったとされており、布勢の水海跡にある小丘陵、布勢の円山の頂上に延喜式内社・布勢神社があります。その社殿裏の松林に建つのが、全国で最初に大伴家持を祭った御影社です。万葉関係の碑としては富山県内最古のものです。大伴家持を祀った全国に数少ない社であることから、昔から、アララギ派歌人土屋文明をはじめ、万葉に心よせる人々が各地から訪れています。ぜひ訪れてみてはいかがですか。(富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」)

 

 万葉集には、藤を詠んだ歌は二六首収録されている。そのうち「藤波」と詠まれている歌は十八首に上る。

 この歌ならびに「藤波」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1371)」で紹介している。

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 「布勢の水海」「布勢の円山」「御影社」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その814~816)」で紹介している。

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なお、当該歌の歌碑の作者名は大伴家持となっているが、内蔵忌寸縄麻呂である。

 

 

 

―その1770―

●歌は、「我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(44)万葉歌碑(僧恵行)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(44)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>である。

 

◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖

       (講師僧恵行 巻十九 四二〇四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)

 

(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(同上)

(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。

(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。

(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その965)」で紹介している。

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 万葉名「ほほがしは」、現代名「ほおのき」について、広島大学附属福山中・高等学校/編著「万葉植物物語」(中国新聞社)には、「山地に自生する大木です。花は五月、花弁九枚、直径十五㌢もある大きな花が咲きます。材は密で柔らかく、工作が容易です。ゲタの歯、まな板、版木、家具など用途が多い材です。葉は食べものを包んだり、みそ料理に使います。樹皮は乾燥して煎じて服用すれば、健胃、利尿、去痰に効果があるといわれています。万葉集には二首詠まれています。万葉名の『ほほがしわ』はホオノキの葉で食べ物を包んだり、蒸したりした名残だと思われます。」と書かれている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著 (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「富山県観光公式サイト とやま観光ナビ」

 

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1764~1766)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(38)~(40)―万葉集巻十八 四一〇九、巻十九 四一四〇、巻十九 四一五九

―その1764―

●歌は、「紅はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほしかめやも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(38)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(38)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

題詞は、「教喩史生尾張少咋歌一首并短歌」<史生(ししやう)尾張少咋(をはりのをくひ)を教へ喩(さと)す歌一首 并(あは)せて短歌>である。

 

◆久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母

      (大伴家持 巻十八 四一〇九)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも

 

(訳)見た目鮮やかでも紅は色の褪(や)せやすいもの。地味な橡(つるばみ)色の着古した着物に、やっぱりかなうはずがあるものか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)紅:紅花染。ここでは、遊女「左夫流子」の譬え(伊藤脚注)

(注)橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ):橡染の着古した着物。妻の譬え(伊藤脚注)

(注)つるばみ【橡】名詞:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。 ※ 古くは「つるはみ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)なる【慣る・馴る】自動詞:①慣れる。②うちとける。なじむ。親しくなる。③よれよれになる。体によくなじむ。◇「萎る」とも書く。④古ぼける。◇「褻る」とも書く。(学研)ここでは④の意

(注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。 ⇒なりたち:動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 左注は、「右五月十五日守大伴宿祢家持作之」<右は、五月の十五日に、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

この歌を含む、四一〇六から四一〇九歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その123改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。容赦下さい。)

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 「橡(つるばみ)」は万葉集では六首が収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その587)」で紹介している。

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 「紅(=左夫流子)はうつろふもの」と「橡(=古女房)のなれにし衣」を対比し「しかめやも」と比較して結論付ける、論理明快、説得力ある言い回しである。

 

 

                         

―その1765―

●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(39)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(39)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

題詞は、「天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首」<天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る二首>である。四一三九、四一四〇歌の二首である。四一三九歌は「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。いずれも、家持が目の前の実景を踏まえて詠んだ歌と言うより「漢詩的風景」を頭の中に描き詠んだものと思われる。

 

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母

      (大伴家持 巻十九 四一四〇)

 

≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(同上)

(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その583)」で紹介している。

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 「すもも」について、広島大学附属福山中・高等学校/編著「万葉植物物語」(中国新聞社)には、「スモモは、万葉集でこの一首だけに詠まれています。形は桃に似ていて、食べると酸っぱいのでスモモという名前がつきました。「李下(りか)に冠を正さず」という諺(ことわざ)が中国から伝わっているように、中国では古くから栽培されていました。中国では五果の一つとして貴ばれ、多くの栽培品種があります。(後略)」と書かれている。

(注)五果:古代中国では、桃、李、杏、棗、栗のこと。

 

 

 

―その1766―

●歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(40)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(40)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

題詞は、「過澁谿埼見巌上樹歌一首  樹名都萬麻」<澁谿(しぶたに)の埼(さき)を過ぎて、巌(いはほ)の上(うへ)の樹(き)を見る歌一首   樹の名はつまま>である。

(注)つまま:たぶの木。クスノキ科の常緑高木。葉は樟に似て、老樹は根が盛り上がって荘厳。(伊藤脚注)

 

 

◆礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神佐備尓家里

       (大伴家持 巻十九 四一五九)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うへ)のつままを見れば根を延(は)へて年深くあらし神(かむ)さびにけり

 

(訳)海辺の岩の上に立つつままを見ると、根をがっちり張って、見るからに年を重ねている。何という神々しさであることか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)としふかし【年深し】( 形ク ):何年も経っている。年老いている。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ※なりたち ラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(学研)

(注)かみさぶ【神さぶ】自動詞:①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。②古めかしくなる。古びる。③年を取る。 ※「さぶ」は接尾語。古くは「かむさぶ」。(学研)ここでは①の意

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)」で紹介している。

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 四一五九歌に詠われている「神さび」は、荘厳な響きに聞こえる。「神さび」を詠った歌をみてみよう。

 

■巻一 三八歌■

◆安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而・・・

       (柿本人麻呂 巻一 三八)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 吉野川 たぎつ河内(かふち)に 高殿(たかとの)を 高知(たかし)りまして ・・・

 

(訳)安らかに天の下を支配されるわれらが大君、大君が神であるままに神らしくなさるとて、吉野川の激流渦巻く河内に、高殿を高々とお造りのなり、・・・(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)「神ながら 神さびせすと」:神のままに神らしくなさるとて。(伊藤脚注)

(注)せす【為す】分類連語:なさる。あそばす。 ※上代語。 ⇒なりたち サ変動詞「す」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1324)」で紹介している。

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■巻一 四五歌■

 柿本人麻呂の四五歌(題詞、軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)は、詠いだしがほぼ三八歌と同じなのでここではブログの紹介にとどめます。

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二五七から二五九歌の題詞は、「鴨君足人香具山歌一首 幷短歌」<鴨君足人(かものきみたりひと)が香具山(かぐやま)の歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

 

■巻三 二五九歌■

◆何時間毛 神左備祁留鹿 香山之 鉾椙之本尓 薜生左右二

       (鴨君足人 巻三 二五九)

 

≪書き下し≫いつの間(ま)も神(かむ)さびけるか香具山(かぐやま)の桙杉(ほこすぎ)の本(もと)に苔(こけ)生(む)すまでに

 

(訳)いつの間にこうも人気がなく神さびてしまったのか。香具山の尖(とが)った杉の大木の、その根元に苔が生すほどに。(同上)

(注)ほこすぎ【矛杉・桙杉】:矛のようにまっすぐ生い立った杉。(広辞苑無料検索)

(注)桙杉(ほこすぎ)の本(もと):矛先の様にとがった、杉の大木のその根元。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1466)」で紹介している。

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■巻三 三一七歌■

 三一七および三一八歌の題詞は、「山部宿祢赤人望不盡山歌一首并短歌」<山部宿禰赤人、富士(ふじ)の山を望(み)る歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

◆天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者

       (山部赤人 巻三 三一七)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(た

ふと)き 駿河(するが)なる 富士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原(はら) 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り告(つ)げ 言ひ継ぎ行かむ 富士(ふじ)の高嶺は

 

(訳)天と地の相分かれた神代の時から、神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を、大空はるかに振り仰いで見ると、空を渡る日も隠れ、照る月の光も見えず、白雲も行き滞り、時となくいつも雪は降り積もっている。ああ、まだ見たことのない人に語り聞かせ、のちのちまでも言い継いでゆこう。この神々しい富士の高嶺は。(同上)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。 ※参考上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その416)」で紹介している。

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■巻三 四二〇歌■

題詞は、「石田王卒之時丹生王作歌一首 幷短歌」<石田王(いはたのおほきみ)が卒(みまか)りし時に、丹生王(にふのおほきみ)が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隠久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曽言鶴・・・

       (丹生王 巻三 四二〇)

 

≪書き下し≫なゆ竹の とをよる御子(みこ) さ丹(に)つらふ 我(わ)が大君(おほきみ)は こもりくの 泊瀬(はつせ)の山に 神(かむ)さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓(たまづさ)の 人ぞ言ひつる・・・

 

≪書き下し≫なゆ竹の とをよる御子(みこ) さ丹(に)つらふ 我(わ)が大君(おほきみ)は こもりくの 泊瀬(はつせ)の山に 神(かむ)さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓(たまづさ)の 人ぞ言ひつる(同上)

(注)なゆたけ【萎竹】名詞:「なよたけ」に同じ。

(注)なよたけの【弱竹の】分類枕詞:①細いしなやかな若竹がたわみやすいところから、「とをよる(=しんなりとたわみ寄る)」にかかる。②しなやかな竹の節(よ)(=ふし)の意で、「よ」と同音の「夜」「世」などにかかる。 ※「なよだけの」「なゆたけの」とも。(学研)

(注)とをよる【撓寄る】自動詞:しなやかにたわむ。(学研)

(注)さにつらふ【さ丹頰ふ】分類連語:(赤みを帯びて)美しく映えている。ほの赤い。 ⇒参考 赤い頰(ほお)をしているの意。「色」「君」「妹(いも)」「紐(ひも)」「もみぢ」などを形容する言葉として用いられており、枕詞(まくらことば)とする説もある。 ⇒なりたち 接頭語「さ」+名詞「に(丹)」+名詞「つら(頰)」+動詞をつくる接尾語「ふ」(学研)

(注)かむさび【神さび】名詞:神らしい振る舞い。神々(こうごう)しく振る舞うこと。(学研)

(注)たまづさ【玉梓・玉章】名詞:①使者。使い。②便り。手紙。消息。 ⇒参考 「たま(玉)あづさ(梓)」の変化した語。便りを運ぶ使者は、そのしるしに梓の杖を持ったという。(学研)ここでは①の意

 

 

■巻四 五二二歌■

五二二から五二四歌までの三首の題詞は、「京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首 卿諱日麻呂也」<京職(きやうしき)藤原大夫が大伴郎女(おほとものいらつめ)に贈る歌三首 卿、諱を麻呂といふ>である。

(注)藤原大夫:藤原不比等の第四子

(注)諱【いみな】:① 生前の実名。生前には口にすることをはばかった。② 人の死後にその人を尊んで贈る称号。諡(おくりな)。③ 《①の意を誤って》実名の敬称。貴人の名から1字もらうときなどにいう

 

◆「▼」嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者

      (藤原大夫 巻四 五二二)

    「▼」は、女偏に「感」と書く。「▼嬬」で「をとめ」と読む。

 

≪書き下し≫娘子(をとめ)らが玉櫛笥(たまくしげ)なる玉櫛の神(かむ)さびけむも妹(いも)に逢はずあれば

 

(訳)をとめの玉櫛笥(たまくしげ)に納めてある玉櫛の神さびているように、私の方はずいぶん古ぼけたじいさんになったことだろうね。あなたに長いこと逢わずにいるから。(同上)

(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】名詞:櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱。※「たま」は接頭語。歌語。

たまくしげ 玉櫛笥・玉匣】分類枕詞:くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その345)」で紹介している。

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■巻六 九九〇歌■

題詞は、「紀朝臣鹿人跡見茂岡之松樹歌一首」<紀朝臣鹿人(きのあそみかひと)が跡見(とみ)の茂岡(しげをか)の松の樹(き)の歌一首>である。

 

◆茂岡尓 神佐備立而 榮有 千代松樹乃 歳之不知久

       (紀鹿人 巻六 九九〇)

 

≪書き下し≫茂岡に神(かむ)さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく

 

(訳)茂岡(しげおか)に神々しく立って茂り栄えている、千代ののちを待つというの木、この木の齢の見当もつかない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)千代松の木:千代の後を待つという松の木。(伊藤脚注)

 

 

■巻七 一三七七歌■

◆木綿懸而 祭三諸乃 神佐備而 齋尓波不在 人目多見許曽

       (作者未詳 巻七 一三七七)

 

≪書き下し≫木綿(ゆふ)懸(か)けて祭るみもろの神(かむ)さびて斎(い)むにはあらず人目(ひとめ)多(おほ)みこそ

 

(訳)木綿(ゆう)を懸けて祭るみもろの神、その神さまらしく構えて穢(けが)れを避けているわけではありません。人目が多いからです。(同上)

(注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(学研)

(注)神さびて:ここは、神様ぶっての意。(伊藤脚注)

(注)斎(い)むにはあらず:男を避けることの譬え。(伊藤脚注)

 

 

■巻十一 二四一七歌■

◆石上 振神杉 神成 戀我 更為鴨 

      (作者未詳 巻十一 二四一七)

 

(書き下し)石上 布留の神杉(かむすぎ) 神さびて 恋をも我(あ)れは さらにするかも

 

(訳)石上の布留の年古りた神杉、その神杉のように古めかしいこの年になって、私はあらためて苦しい恋に陥っている。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「神さびて」を起こす。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その54改)で紹介している。

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■巻十五 三六二一歌■

◆和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流

       (遣新羅使 巻十五 三六二一)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)を長門(ながと)の島の小松原(こまつばら)幾代(いくよ)を経(へ)てか神(かむ)さびわたる

 

(訳)我が命よ、長かれと願う、長門の島の小松原よ、いったいどれだけの年月を過ごして、このように神々(こうごう)しい姿をし続けているのか。(同上)

(注)わがいのちを【我が命を】[枕]:わが命長かれの意から、「長し」と同音を含む地名「長門(ながと)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)かみさぶ【神さぶ】自動詞:①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。②古めかしくなる。古びる。③年を取る。 ※「さぶ」は接尾語。古くは「かむさぶ」。(学研)ここでは①の意

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1618)」で紹介している。

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 「神々しい」といった言い回しは、何となく表面的な表現に思えるが、「神さび」というと、内部のエネルギーをも包含した重々しさをかんじさせる。時代を経て、神とか仏とかに関わる機会も薄れ、信仰そのものもある意味形骸化していることは否めないので言葉の使われ方も変化してくるのは当然といえよう。

 万葉集はそういった意味で、言葉の歴史的メモの役割も果たしている。かかる言葉にも折に触れ注目していきたいものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著 (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1760~1763)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(34)~(37)―万葉集巻十六 三八三二、巻十六 三八七二、巻十六 三八八六

 

―その1760―

●歌は、「からたちの茨刈り除け倉建てむ尿遠くまれ櫛造る刀自」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(34)万葉歌碑(忌部黒麻呂

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(34)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「忌部首詠數種物歌一首 名忘失也」<忌部首(いむべのおびと)、数種の物を詠む歌一首 名は、忘失(まうしつ)せり>である。

 

◆枳 棘原苅除曽氣 倉将立 尿遠麻礼 櫛造刀自

       (忌部黒麻呂 巻十六 三八三二)

 

≪書き下し≫からたちの茨(うばら)刈り除(そ)け倉(くら)建てむ屎遠くまれ櫛(くし)造る刀自(とじ)

 

(訳)枳(からたち)の痛い茨(いばら)、そいつをきれいに刈り取って米倉を建てようと思う。屎は遠くでやってくれよ。櫛作りのおばさんよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)まる【放る】他動詞:(大小便を)する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌ならびに万葉時代のトイレについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1227)」で紹介している。

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 前々から気になっていたのは、子供用簡易トイレを「おまる」というのかということである。「言語由来事典HP」によると、「おまるの『お』は接頭語の『御』、『まる』は大小便をする意味の動詞『まる(放る)』である。古くは、単に『まる』と呼んでいた。漢字に『御虎子』が当てられるのは、その形状が虎の子のようであることからと思われる。おまるが『まる』と呼ばれた時代から、『虎子』の漢字は用いられている。

稀に『御丸』と表記されることもあるが、『御丸』は女房詞で『腰』や『団子』など丸い形状のものを指す言葉なので、便器のおまるに当てる漢字としてはふさわしくない。」と書かれている。

 

 なんかすっきりした感じである。

 

 

―その1761―

●歌は、「我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(35)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(35)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 ゝゝ者雖来 君曽不来座

       (作者未詳 巻十六 三八七二)

 

≪書き下し≫我(わ)が門(かど)の榎(え)の実(み)もり食(は)む百千鳥(ももちとり)千鳥(ちとり)は来(く)れど君ぞ来(き)まさぬ

 

(訳)我が家の門口の榎(えのき)の実を、もぐように食べつくす群鳥(むらどり)、群鳥はいっぱいやって来るけれど、肝心な君はいっこうにおいでにならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)もり食む:もいでついばむ意か。(伊藤脚注)

(注)ももちどり 【百千鳥】名詞①数多くの鳥。いろいろな鳥。②ちどりの別名。▽①を「たくさんの(=百)千鳥(ちどり)」と解していう。③「稲負鳥(いなおほせどり)」「呼子鳥(よぶこどり)」とともに「古今伝授」の「三鳥」の一つ。うぐいすのことという。(学研)

 

 この歌は、一夜だけ床を共にした行きずりの男(一夜夫)を待つ歌であるが、その男を送り出す歌が三八七三歌である。この両歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1045)」で紹介している。

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(注)ひとよづま【一夜妻/一夜夫】:①(一夜妻)㋐一晩だけ関係を結んだ相手の女性。また転じて、遊女・娼婦。いちやづま。㋑織女星。 ②(一夜夫)一晩だけ関係を結んだ相手の男性。(goo辞書)

 

  國學院大學万葉神事語事典によると、「一夜妻」について、「一夜のみの結婚。折口信夫によれば、常世から『まれびと』が来訪し、その村に祝福を与えて帰るとされ、その折に、神の妻となるのが、この『一夜妻』であったという(「古代生活に見えた恋愛」『全集1』)。東歌に見える『にほどりの葛飾早稲をにへすともそのかなしきを外に立てめやも』(14-3386)は、まれびとが訪れ、家の主婦がそれを迎える歌としてとらえるならば、万葉びとの世界に、ひろく『一夜妻』の観念が存在したといえる。その観念は恋歌のなかでの男女の出会いへと展開したことが知られる。」と書かれている。

(注)まれびと:来客あるいは客神をあらわす語として古くからあるが(〈まろうと〉とも)、折口信夫が古代の来訪神の存在を説明するためにこれを用いたことから、〈貴種流離譚(きしゆりゆうりたん)〉などとともに、日本文化・文学の基層を解明するうえでの重要な術語として定着した。〈まれびと〉とは簡単にいえば神であって、海のかなたの〈常世(とこよ)〉から時を定めて訪れて来る霊的存在である、というのが折口の考えたその原像である。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

 万葉集では、「夫」も「妻」も「つま」と読むが、改めて「つま」を調べてみた。

つま 【夫・妻】名詞:①夫。▽妻から夫を呼ぶときに用いる語。第三者が用いることもある。②妻。▽夫から妻を呼ぶときに用いる語。第三者が用いることもある。③動物のつがいの一方をいう語。 ⇒参考:「つま(端)」から出た語。妻問い婚の時代、女の家の端(つま)に妻屋(つまや)を建てて、夫がそこに通ったことから、「端の人」の意でいったとされる。ふつう、夫婦の間で互いに呼び合う語。中古以降は、②の用法で固定した。(学研)

 

 

 

―その1762―

●歌は、「おしてるや難波の小江に・・・もむ楡を五百枝剥き垂れ天照るや・・・」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(36)万葉歌碑(乞食者の歌)



●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(37)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 三八八五、三八八六歌の題詞は、「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首>である。

(注)ほかひびと【乞児・乞食者】名詞:物もらい。こじき。家の戸口で、祝いの言葉などを唱えて物ごいをする人。「ほかひひと」とも。(学研)

 

◆忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米夜 明久 若知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日ゝゝ跡 飛鳥尓到 雖置 ゝ勿尓到 雖不策 都久怒尓到   東 中門由 参納来弖 命受例婆 馬尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 手碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作▼乎 今日徃 明日取持来 吾目良尓 塩柒給 腊賞毛 腊賞毛

     ▼は、「瓦+缶」で「かめ)である。

       (乞食者の詠 巻十六 三八八六)

 

≪書き下し≫おしてるや 難波(なにわ)の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 我(わ)を召すらめや 明(あきら)けく 我が知ることを 歌人(うたひと)と 我(わ)を召すらめや 笛吹(ふえふ)きと 我を召すらめや 琴弾(ことひき)きと 我を召すらめや かもかくも 命(みこと)受(う)けむと 今日今日と 飛鳥(あすか)に至り 立つれども 置勿(おくな)に至り つかねども 都久野(つくの)に至り 東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ 参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば 馬にこそ ふもだし懸(か)くもの 牛にこそ 鼻(はな)縄(づな)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)き垂(た)れ 天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 韓臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おしてるや 難波の小江(をえ)の 初垂(はつたり)を からく垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日(けふ)行きて 明日(あす)取り持ち来(き) 我が目らに 塩(しほ)塗(ぬ)りたまひ 腊(きた)ひはやすも 腊ひはやすも

 

(訳)おしてるや難波(なにわ)入江(いりえ)の葦原に、廬(いおり)を作って潜んでいる、この葦蟹めをば大君がお召しとのこと、どうして私なんかをお召しになるのか、そんなはずはないと私にははっきりわかっていることなんだけど・・・、ひょっとして、歌人(うたひと)にとお召しになるものか、笛吹きにとお召しになるものか、琴弾きにお召しになるものか、そのどれでもなかろうが、でもまあ、お召しは受けようと、今日か明日かの飛鳥に着き、立てても横には置くなの置勿(おくな)に辿(たど)り着き、杖(つえ)をつかねど辿りつくの津久野(つくの)にやって来、さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、何と、馬になら絆(ほだし)を懸けて当たり前、牛なら鼻綱(はなづな)つけて当たり前、なのに蟹の私を紐で縛りつけたからに、傍(そば)の端山(はやま)の楡(にれ)の皮を五百枚も剥いで吊(つる)し、日増しにこってりお天道(てんと)様で干し上げ、韓渡りの臼で荒搗(づ)きし、庭の手臼(てうす)で粉々の搗き、片や、事もあろうに、我が故郷(ふるさと)難波入江の塩の初垂(はつた)り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶部(すえべ)の人が焼いた瓶を、今日一走(ひとつばし)りして明日には早くも持ち帰り、そいつに入れた辛塩を私の目にまで塗りこんで下さって、乾物に仕上げて舌鼓なさるよ、舌鼓なさるよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おしてるや【押し照るや】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(学研)

(注)かもかくも 副詞:ああもこうも。どのようにも。とにもかくにも。(学研)

(注)ふもだし【絆】名詞:馬をつないでおくための綱。ほだし。(学研)

(注)さいずるや〔さひづる‐〕【囀るや】[枕]:外国の言葉は聞き取りにくく、鳥がさえずるように聞こえるところから、外国の意味の「唐(から)」、または、それと同音の「から」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はつたり【初垂り】:製塩のとき最初に垂れた塩の汁。一説に、塩を焼く直前の濃い塩水。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)すえひと〔すゑ‐〕【陶人】:陶工。すえつくり。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 堺市南部にいた須恵器の工人。

(注)腊(読み方 キタイ):まるごと干した肉。(weblio辞書 歴史民俗用語辞典)

 

左注は、「右歌一首為蟹述痛作之也」<右の歌一首は、蟹(かに)のために痛みを述べて作る>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1087)」で紹介している。

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―その1763―

●歌は、「おしてるや難波の小江に・・・もむ楡を五百枝剥き垂れ天照るや・・・」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(36)万葉歌碑(乞食者の歌)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(38)にある。

 

●歌は、前稿(その1762)と同じである。歌碑の写真の掲載にとどめる。

 

 詠いだしの枕詞「おしてるや」について前述のように「『難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(学研)』とあるが、朴炳植氏の考え方を、著「万葉集の発見」(学研)に求めてみよう。次の様に書かれている。

 「まずこの歌語の分析をすると、『オシ』『テル』の二つに分けることが出来る。『テル=照る』の語源は何だろうか。それは『(日がサス)の変形で「サ行→タ行変化」をしたもので、韓国語の『(ビ)チャリ』(註:現代語では、これは未来形<日さすだろう>と解されている)の『チャ』なのである。『ビ』は勿論『ヒ(日)』の濁音化したもの。すると、『サス=チャリ=テル』は異形同意の言葉であることが明らかになる。さて、次は『オシ』だが、これは『大いに』という意味で『オオイニ=オオヒニ』だから、『オヒ→オシ(ハ行→サ行変化)』と変わったことを知りうる。つまり『オシテル』は『大いに日の照る』ということなのである。これが『難波』にかかるのは、『宮・都』に『尊い日のさす』・『輝かしい日の照りさす』がかかるのと同じ理由、つまり、難波が都だから『大いに日の照りそそぐ』というふうになるのである。』

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集の発見」 朴炳植 著 (学習研究社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 歴史民俗用語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「goo辞書」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアムHP)

★「言語由来事典HP」

 

                           

万葉歌碑を訪ねて(その1757~1759)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(31)~(33)―万葉集巻十一 二四八〇、巻十一 二五〇三、巻十五 三六〇〇

―その1757―

●歌は、「道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(31)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(31)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀孋  或本日 灼然 人知尓家里 継而之念者

       (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四八〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我(あ)が恋妻(こひづま)は   或る本の歌には「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」といふ

 

(訳)道端のいちしの花ではないが、いちじるしく・・・はっきりと、世間の人がみんな知ってしまった。私の恋妻のことは。<いちじるしく世間の人が知ってしまったよ。絶えずあの子のことを思っているので>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)いちし:古くからダイオウ、ギンギシ、クサイチゴ、エゴノキ、イタドリ、ヒガンバナの諸説が入り乱れ、万葉植物群の中で最も難解な植物とされていた。牧野富太郎氏によってヒガンバナ説が出され、山口県では「イチシバナ」、福岡県では、「イチジバナ」という方言があることが確認され、ヒガンバナ説が定着した。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)いちしろし【著し】形容詞:「いちしるし」に同じ。※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)いちしるし【著し】形容詞:明白だ。はっきりしている。 ⇒参考:古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は接頭語。(同上)

 

 「ヒガンバナ」が福岡県の方言で「イチジバナ」と言われることに因んで太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパークの歌碑を紹介したブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その904)」を取り上げました。

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 「ヒガンバナ」については、広島大学附属福山中・高等学校/編著「万葉植物物語」(中国新聞社)に、「ヒガンバナは、秋の彼岸に合わせたように開花します。葉が全く出ないときに長い花茎を伸ばして、鮮やかな赤い花を咲かせます。有毒植物ですが、鱗茎(りんけい)にはでんぷんを含んでおり、水洗いして有毒成分を除去した後、食用にしました。救荒(きゅうこう)植物として保護した歴史があります。鱗茎を擦りつぶして、膝関節のはれ、炎症の湿布薬に使っていたようです。また、ヒガンバナのでんぷんで作ったのりは虫がつきにくく、ふすまやびょうぶの下張りに使われていました。」と書かれている。

(注)きゅうこうしょくぶつ【救荒植物】:山野に自生する植物で、飢饉ききんの際に食糧になるもの。ノビル・ナズナ・オオバコなど。備荒植物。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

 

 

―その1758―

●歌は、「夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(32)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(32)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆夕去 床重不去 黄楊枕 何然汝 主待固

      (作者未詳 巻十一 二五〇三)

 

≪書き下し≫夕去れば床(とこ)の辺(へ)去らぬ黄楊枕(つげまくら)何しか汝(な)れが主(ぬし)待ちかたき

 

(訳)夕方になるとかならず床の辺にいついて離れない黄楊の枕よ、お前は、どうしてお前の主人(あるじ)を待ち迎えることができないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なにしか【何しか】分類連語:どうして…か。▽原因・理由についての疑問に用いる。⇒なりたち:副詞「なに」+副助詞「し」+係助詞「か」(学研)

(注)主:女の待ち焦がれる男(伊藤脚注)

 

 

 この歌ならびに「黄楊」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1054)」で紹介している。

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 黄楊の櫛でも当時は、相当高価であった。黄楊の枕は、この女が待ち焦がれる主が、マイ枕として女の家に持ち込んでいたものであろうか。

 

 

 

―その1759―

●歌は、「離れ磯に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(33)万葉歌碑(遣新羅使人等)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(33)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母

      (遣新羅使人等 巻十五 三六〇〇)

 

≪書き下し≫離(はな)れ礒(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも

 

(訳)離れ島の磯に立っているむろの木、あの木はきっと、途方もなく長い年月を、あの姿のままで過ごしてきたものなのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)むろの木:鞆の浦広島県福山市鞆町) ※大宰帥大伴旅人が大納言となって帰京する時(この時は妻を亡くした後である)に「鞆の浦を過ぐる日に作る歌三首」(四四六から四四八歌の「鞆の浦のむろの木」)を踏まえている。

(注)うたがたも 副詞:①きっと。必ず。真実に。②〔下に打消や反語表現を伴って〕決して。少しも。よもや。(学研) ここでは①

 

 三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上にして作る歌」である。

 この歌群の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その623)」で紹介している。

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 旅人の四四六から四四八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

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 万葉集巻十五は、遣新羅使人に関する歌群(三五七八~三七二二歌)と、中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋の歌群(三七二三~三七八五歌)の実録風の二歌群の構成から成り立っている特異な巻である。

三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上にして作る歌」であり、想像を絶する苦難に遭遇するとは思ってもみない往路の初めの方の歌群である。

広島県呉市倉橋町の桂浜神社の前の松原に「萬葉集史蹟長門之島碑」が建てられておりそこに三六一七から三六二四歌が刻されている。これは、天平八年(736年)遣新羅使が安芸の国長門島に停泊し船出する時の八首である。

 

こちらの歌碑ならびに歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1618)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著 (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

万葉歌碑を訪ねて(その1754~1756)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(28)~(30)―万葉集巻十 一八九五、巻十 二一二七、巻十 二三一五

―その1754―

●歌は、「春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(28)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(28)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹

      (柿本人麻呂歌集 巻十  一八九五)

 

≪書き下し≫春さればまづさきくさの幸(さき)くあらば後(のち)にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)

 

(訳)春になると、まっさきに咲くさいぐさの名のように、命さえさいわいであるならば、せめてのちにでも逢うことができよう。そんなに恋い焦がれないでおくれ、お前さん。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「春去 先三枝」は、「春去 先」が「三枝」を起こし、「春去 先三枝」が、「幸(さきく)」を起こす二重構造になっている。

(注)そ 終助詞:《接続》動詞および助動詞「る」「らる」「す」「さす」「しむ」の連用形に付く。ただし、カ変・サ変動詞には未然形に付く。:①〔穏やかな禁止〕(どうか)…してくれるな。しないでくれ。▽副詞「な」と呼応した「な…そ」の形で。②〔禁止〕…しないでくれ。▽中古末ごろから副詞「な」を伴わず、「…そ」の形で。 ⇒参考:(1)禁止の終助詞「な」を用いた禁止表現よりも、禁止の副詞「な」と呼応した「な…そ」の方がやわらかく穏やかなニュアンスがある。(2)上代では「な…そね」という形も併存したが、中古では「な…そ」が多用される。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 一八九五歌の上二句「春去 先三枝」は、「春去 先」が「三枝」を起こし、「春去 先三枝」が、「幸(さきく)」を起こす二重構造、「二重の序」になっている。

 

 この歌ならびに「二重の序」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1053)」で紹介している。

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 万葉集は、柿本人麻呂歌集を編纂資料の中核として作られたことは明らかである。例えば、この歌が収録されている「巻十」をみてみると、

 「春雑歌」(一八一二から一八八九歌)では、部立ての最初の歌群一八一二から一八一八歌が「右柿本朝臣人麻呂歌集出」と左注がある。同様に「春相聞」(一八九〇から一九三六歌)の一八九〇から一八九六歌の歌群についても左注が書かれている。

 また「秋雑歌」にあっては、「主題的課題(七夕、詠花、詠黄葉)」の最初に収録されている。「秋相聞」、「冬雑歌」、「冬相聞」の各部立も同様、先頭歌群として収録されている。

 巻七、巻九、巻十、巻十一、巻十二についてもほぼ同様である。

 

 こう見てくると、柿本人麻呂個人はいうに及ばず歌集としても万葉集に与えた影響力の強さは計り知れないものがある。

 

 巻十部立「春相聞」の先頭歌群をみてみよう。

 

◆春山 友鸎 鳴別 眷益間 思御吾

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八九〇)

 

≪書き下し≫春山の友うぐひすの泣き別れ帰ります間(ま)も思ほせ我(わ)れを

 

(訳)春山の仲間同士の鶯が泣き交わして別れるように、泣く泣く別れを惜しむ私と別れてお帰りになるその道の間でも、思って下さい、この私のことを。(同上)

(注)上二句は序。「泣き別れ」を起こす。(伊藤脚注)

 

 

◆冬隠 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八九一)

 

≪書き下し≫冬こもり春咲く花を手折(たを)り持ち千(ち)たびの限り恋ひわたるかも

 

(訳)冬が去って春に咲いた花を手折り持っては、際限もなくあなたに恋い焦がれております。(同上)

(注)ちたび【千度】名詞:千回。また、度数の多いこと。(学研)

(注)こひわたる【恋ひ渡る】自動詞:(ずっと長い間にわたって)恋い慕い続ける。(学研)

 

 

◆春山 霧惑在 鸎 我益 物念哉

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八九二)

 

≪書き下し≫春山の霧に惑(まと)へるうぐひすも我(わ)れにまさりて物思(ものも)はめやも

 

(訳)春山の霧の中に迷い込んだ鶯でさえ、この私にもまさって物思いに沈むことはおそらくありますまい。(同上)

(注)上三句は、一八九〇歌の上二句を承ける。(伊藤脚注)

 

◆出見 向岡 本繁 開在花 不成不止

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八九三)

 

≪書き下し≫出でて見る向ひの岡に本茂(もとしげ)く咲きたる花のならずはやまじ

 

(訳)家から出てすぐそこに見える向かいの岡に、根元までびっしり咲いている花、その花が実を結ぶように、この恋を実らでないではおかないつもりです。(同上)

(注)上四句は序。「なる」(恋を実らせる)を起こす。(伊藤脚注)

 

 

◆霞發 春永日 戀暮 夜深去 妹相鴨

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八九四)

 

≪書き下し≫霞立つ春の長日(ながひ)を恋ひ暮らし夜(よ)も更(ふ)けゆくに妹(いも)も逢はぬかも

 

(訳)霞の立ちこめる春の長い一日、この一日を恋い焦がれて過ごし、夜もだんだん更けてきたのに、あの子がひょこっと現われて逢ってくれないものかなあ。(同上)

(注)妹も逢はぬかも:妹に逢いたい意を、「妹」を主語にした形でいう。(伊藤脚注)

 

 

◆春去 為垂柳 十緒 妹心 乗在鴨

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八九六)

 

≪書き下し≫春さればしだり柳のとををにも妹(いも)は心に乗りにけるかも

 

(訳)春になると、しだれ柳がしなってくるように、心もしなうほどどっかと、あの子は私の心に乗りかかってしまった。(同上)

(注)上二句は序。「とををに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

 

左注は、「右柿本朝臣人麻呂歌集出」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>である。

 

 略体書記になっている。前四首は女の、後ろ三首は男の歌である。

 

 

―その1755―

●歌は、「秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも」である。

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(29)にある。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(29)万葉歌碑(作者未詳)

●歌をみていこう。

 

◆秋去者 妹令視跡 殖之芽子 露霜負而 散来毳

       (作者未詳 巻十 二一二七)

 

≪書き下し≫秋さらば妹(いも)に見せむと植ゑし萩露霜(つゆしも)負(お)ひて散りにけるかも

 

(訳)秋になったらあの子に見せようと植えた萩、そのせっかくの萩が、冷たい露をあびて跡形もなく散ってしまった。(同上)

 

 

―その1756

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(30)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(30)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その871)」で紹介している。

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 前述の(その1754)でもふれたが、巻十部立「冬雑歌」の最初に収録されている歌群(二三一二から二三一五歌)の一首である。

 この四首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その70改)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その1751~1753)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(25)~(27)―万葉集巻九 一七七七、巻十 一八四八、巻十 一八七二

―その1751―

●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小枝も取らむとも思はず」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(25)万葉歌碑(播磨娘子)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(25)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念

       (播磨娘子 巻九 一七七七)

 

≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず

 

(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その691)」で紹介している。

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 また遊行女婦と思われる歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。

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 「君なくはなぞ身装はむ」、なんという切ない思いがあふれ出る表現であろうか。娘子にとって、「黄楊の小櫛」に代表される、これまでの夢のような石川大夫との時間、満たされた思い、しかし別れて後は、ある意味「無」の世界。石川大夫の方は、都に戻ることなり、表面上はともかく、播磨娘子の思いが足かせにならぬように一刻も早く都へ、の気持ちであろう。娘子はその気持ちも分かりつつ「君なくはなぞ身装はむ」と冷静に状況を分析しつつ、心の内のたぎる思いを込めている。

 思いの楔は、時間と共に石川大夫の心の中でどのように作用していったのであろうか。

 

 

 

―その1752―

●歌は、「山の際に雪は降りつつしかずがにこの川楊は萌えにけるかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(26)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(26)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆山際尓 雪者零管 然為我二 此河楊波 毛延尓家留可聞

        (作者未詳 巻十 一八四八)

 

≪書き下し≫山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも

 

(訳)山あいに雪は降り続いている。それなのに、この川の楊(やなぎ)は、もう青々と芽を吹き出した。(同上)   

(注)しかすがに 【然すがに】副詞:そうはいうものの。そうではあるが、しかしながら。

(注)かはやなぎ【川柳・川楊】〘名〙: 川のほとりにあるやなぎ。ふつう、ネコヤナギをさし、その別名ともする。かわやぎ。かわばたやなぎ。《季・春》(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その203改)」で紹介している。

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「言語由来辞典HP」に「漢字の『柳』の右側は『卯』ではなく、『留』の原字である。

『楊』は、『易』に『上がる』『伸びる』という意味があり、長く上に伸びる木を表す。

日本ではシダレヤナギに『柳』を使い、ネコヤナギのように上に向かって立っているヤナギには『楊』を用いて区別することもある。」と書かれている。

 

 

 

―その1753―

●歌は、「見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(27)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(27)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆見渡者 春日之野邊尓 霞立 開艶者 櫻花鴨

      (作者未詳 巻十 一八七二)

 

≪書き下し≫見わたせば春日(かすが)の野辺(のへ)に霞(かすみ)たち咲きにほえるは桜花かも

 

(訳)遠く見わたすと、春日の野辺の一帯には霞が立ちこめ、花が美しく咲きほこっている、あれは桜花であろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)にほふ【匂ふ】自動詞:①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。(学研)ここでは①の意

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1029)」で紹介している。

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 「春日の野辺」の「春日」を「かすが」と読むことについて、「森岡浩の人名・地名おもしろ雑学」(日本実業出版社HP)に、「・・・春日神社はなぜ『かすが』と読むのかというと、これは枕詞がルーツである。枕詞とは、和歌を詠むときに特定の言葉につける修辞法(かざり言葉)で、このあたりの地名の「かすが」を詠む際には、『春日(はるひ)のかすが』といった。そのため、『春日』という漢字そのものを、『かすが』と読むようになったものだ。『飛鳥』とかいて『あすか』と読むのも、『あすか』の地の枕詞が『飛ぶ鳥の」だったことに由来している。

 さらに、「かすが」という地名そのものもルーツはなにか、というと、諸説あるようだが、「神(か)」の「住(す)」む「処(が)」という説が有力。ようするに、神の住んでいる場所で、神社のあるべき場所なのだろう。・・・」と書かれている。

 「春日(はるひ)のかすが」の歌をみてみよう。

 

 題詞は、「山部宿祢赤人登春日野作歌一首 幷短歌」<山部宿禰赤人、登春日野(かすがの)に登りて作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)春日野:春日大社を中心とする一帯。(伊藤脚注)

 

春日乎 春日山 高座之 御笠乃山尓 朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無數鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

       (山部赤人 巻三 三七二)

 

≪書き下し≫春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠(みかさ)の山に 朝さらず 雲居(くもゐ)たなびき 貌鳥(かほどり)の 間(ま)なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋(かたこひ)のみに 昼(ひる)はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 立ちて居(ゐ)て 思ひぞ我(あ)がする 逢はぬ子故(ゆゑ)に

 

(訳)春日の山の御笠の山に朝ごとに雲がたなびき、貌鳥(かおどり)が絶え間なく鳴きしきっている。そのたなびく雲のように私の心はとどこって晴れやらず、その鳴きしきる鳥のように片思いばかりしながら、昼は昼で一日中、夜は夜で一晩中、そわそわと立ったり座ったりして、深い思いに私は沈んでいる。逢おうともしないあの子ゆえに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)はるひを【春日を】分類枕詞:春の日がかすむ意から、同音の地名「春日(かすが)」にかかる。「はるひを春日の山」⇒はるひ(学研)

(注)たかくらの【高座の】[枕]:高座の上に御蓋(みかさ)がつるされるところから、「みかさ」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)あささらず【朝去らず】[連語]:朝ごとに。毎朝。⇔夕去らず。(goo辞書)

(注)かほとり【貌鳥・容鳥】:鳥の名。 未詳。 顔の美しい鳥とも、「かっこう」とも諸説ある。 「かほどり」とも。(学研)

(注)いさよふ【猶予ふ】自動詞:ためらう。たゆたう。 ※鎌倉時代ごろから「いざよふ」。(学研)

(注)ことごと【事事】名詞:一つ一つのこと。諸事。(学研)

 

 反歌(三七三歌)もみてみよう。

 

◆高按之 三笠乃山尓 鳴鳥之 止者継流 戀哭為鴨

       (山部赤人 巻三 三七三)

 

≪書き下し≫高座(たかくら)の御笠の山に鳴く鳥の止(や)めば継(つ)がるる恋もするかも

 

(訳)高座の御笠の山に鳴く鳥が鳴きやんだかと思うとすぐまた鳴き出すように、抑えたかと思ってもすぐまた燃え上がるせつない恋を私はしている。(同上)

(注)上三句は序。「止めば継がるる」を起こす。(伊藤脚注)

奈良市登大路町「県庁東交差点」北東角にある一八七二歌の歌碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「goo辞書」

★「森岡浩の人名・地名おもしろ雑学」 (日本実業出版社HP)

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1748~1750)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(22)~(24)―万葉集巻八 一四九一、巻八 一六二三、巻九 一七四五

―その1748―

●歌は、「卯の花の過ぎば惜しみかほととぎす雨間も置かずこゆ鳴き渡る」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(22)万葉歌碑(大伴家持



●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(22)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大伴家持雨日聞霍公鳥喧歌一首」<大伴家持、雨日(あめふるひ)に霍公鳥の喧(な)くを聞く歌一首>である。

 

◆宇乃花能 過者惜香 霍公鳥 雨間毛不置 従此間喧渡

       (大伴家持 巻八 一四九一)

 

≪書き下し≫卯(う)の花の過ぎば惜しみかほととぎす雨間(あまま)も置かずこゆ鳴き渡る

 

(訳)卯の花が散ってしまうと惜しいからか、時鳥が雨の降る間(ま)も休まず、ここを鳴きながら飛んで行く。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あまま【雨間】名詞:雨と雨との合間。雨の晴れ間。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) 

(注の注)雨間も置かず:雨の降る間もいとわずに。(伊藤脚注)

(注)こ【此】代名詞:これ。ここ。▽近称の指示代名詞。話し手に近い事物・場所をさす。⇒注意:現代語では「この」の形で一語の連体詞とするが、古文では「こ」一字で代名詞。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1073)」で紹介している。

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 「こゆ鳴き渡る」という言い方は静と動のバランスがとれた心地良い響きである。この「こゆ鳴き渡る」を使った歌をみてみよう。

 

◆聞津八跡 君之問世流 霍公鳥 小竹野尓所沾而 従此鳴綿類

       (作者未詳 巻十 一九七七)

 

≪書き下し≫聞きつやと君が問はせるほととぎすしののに濡れてこゆ鳴き渡る

 

 

(訳)その声を聞いたかとあなたがお尋ねの時鳥は、しっとりと濡れながら、ここを鳴いて渡っています。(同上)

(注)しののに:雨にびっしょり濡れて

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その300)」で紹介している。

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◆雨𣋠之 雲尓副而 霍公鳥 指春日而 従此鳴度

       (作者未詳 巻十 一九五九)

 

≪書き下し≫雨晴(あまば)れの雲にたぐひてほととぎす春日(かすが)をさしてこゆ鳴き渡る

 

(訳)雨の晴れ間を流れてゆく雲に連れそいながら、時鳥が、春日の方に向かって、ここ我が家の庭先を鳴き渡って行く。(同上)

(注)たぐふ【類ふ・比ふ】自動詞:①一緒になる。寄り添う。連れ添う。②似合う。釣り合う。(学研)ここでは①の意

 

 

 

―その1749―

●歌は、「我がやどにもみつかへるて見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(23)万葉歌碑(大伴田村大嬢)



●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(23)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌二首」<大伴田村大嬢 妹(いもひと)坂上大嬢に与ふる歌二首>である。

(注)いもうと【妹】名詞:①姉。妹。▽年齢の上下に関係なく、男性からその姉妹を呼ぶ語。[反対語] 兄人(せうと)。②兄妹になぞらえて、男性から親しい女性をさして呼ぶ語。③年下の女のきょうだい。妹。[反対語] 姉。 ※「いもひと」の変化した語。「いもと」とも。(学研)

 

◆吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無

       (大伴田村大嬢 巻八 一六二三)

 

≪書き下し≫我がやどにもみつかへるて見るごとに妹を懸(か)けつつ恋ひぬ日はなし

 

(訳)私の家の庭で色づいているかえでを見るたびに、あなたを心にかけて、恋しく思わない日はありません。(同上)

(注)もみつ【紅葉つ・黄葉つ】自動詞:「もみづ」に同じ。※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かへで【楓】名詞:①木の名。紅葉が美しく、一般に、「もみぢ」といえばかえでのそれをさす。②葉がかえるの手に似ることから、小児や女子などの小さくかわいい手のたとえ。 ※「かへるで」の変化した語。

(注)大伴田村大嬢 (おほとものたむらのおほいらつめ):大伴宿奈麻呂(すくなまろ)の娘。大伴坂上大嬢(さかのうえのおほいらつめ)は異母妹

 

 この歌ならびにこの題詞とよく似た題詞の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1013)」で紹介している。

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―その1750―

●歌は、「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(24)万葉歌碑(高橋虫麻呂



●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(24)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「那賀郡曝井歌一首」<那賀(なか)の郡(こほり)の曝井(さらしゐ)の歌一首>である。

(注)那賀郡:茨城県水戸市の北方

 

◆三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四五)

 

≪書き下し≫三栗(みつぐり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の絶えず通(かよ)はむそこに妻もが

 

(訳)那賀の村のすぐ向かいにある曝井の水、その水が絶え間なく湧くように、ひっきりなしに通いたい。そこに妻がいてくれたらよいのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みつぐりの【三栗の】分類枕詞:栗のいがの中の三つの実のまん中の意から「中(なか)」や、地名「那賀(なか)」にかかる。(学研)

(注)上三句は序。「絶えず」を起こす。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1172)」で紹介している。

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 「三栗」を詠んだもう一首をみてみよう。

 

◆松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子

       (柿本人麻呂歌集 巻九 一七八三)

 

≪書き下し≫松反(まつがへ)りしひてあれやは三栗(みつぐり)の中上(なかのぼ)り来(こ)ぬ麻呂(まろ)といふ奴(やっこ)

 

(訳)鷹の松返りというではないが、ぼけてしまったのかしら、機嫌伺に中上りもして来ない。麻呂という奴は。(同上) 

(注)松反り(読み)まつがへり:[枕]「しひ」にかかる。かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉) 鷹が手許に戻らず松の木に帰る意か。(伊藤脚注)

(注)しふ【癈ふ】自動詞:目や耳などの感覚がまひする。身体の器官がだめになる。老いぼれる。(学研)

(注)中上り:地方官が任期中に報告に上京すること。(伊藤脚注)

 

 

 「栗」については、廣野 卓氏は、その著「食の万葉集 古代の食生活を科学する」(中公新書)のなかで、「クリは堅果類のなかでは最も風味がよく、三内丸山(さんないまるやま)遺跡から出土したクリのDNAバンド(配列)の分析により、すでに縄文時代には、優良種を選択的に栽培した可能性もあると推測されている。『書記』神功皇后(じんぐうこうごう)紀、履中(りちゅう)紀、舒明紀に栗園の記述があるので、古墳時代には栽培されていたことは確実である。日本古来のクリはシバグリである。現在のクリは品種改良の手が加えられているとはいえ、古代びとが食料とした堅果類のなかで、現在も引きつづき一般的に多食されているのはクリだけである。・・・関西では丹波栗が品質のよさで有名だが、すでに奈良時代から丹波国はクリの産地であったから、その伝統をつたえるものだろう。」と書かれている。

 

 このような栗ではあるが、栗の歌は、上記の「三栗」二首と山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ・・・(巻五 八〇二歌)」の三首しか収録されていないことが不思議に思われてならない。

 八〇二歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1508)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「食の万葉集 古代の食生活を科学する」 廣野 卓 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉