万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1745~1747)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(19)~(21)―万葉集巻七 一三五九、巻

―その1745―

●歌は、「向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(19)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(19)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆向岳之 若楓木 下枝取 花待伊間尓 嘆鶴鴨

      (作者未詳 巻七 一三五九)

 

≪書き下し≫向つ峰(むかつを)の若楓(わかかつら)の木下枝(しづえ)とり花待つい間(ま)に嘆きつるかも 

 

(訳)向かいの高みの若桂の木、その下枝を払って花の咲くのを待っている間にも、待ち遠しさに思わず溜息がでてしまう。((伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)むかつを【向かつ峰・向かつ丘】名詞:向かいの丘・山。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上二句(向岳之 若楓木)は、少女の譬え(伊藤脚注)

(注)下枝(しづえ)とり:下枝を払う。何かと世話をする意。(伊藤脚注)

(注の注)しづえ【下枝】名詞:下の方の枝。したえだ。[反対語] 上枝(ほつえ)・中つ枝。(学研)

(注)花待つい間:成長するのを待っている間(伊藤脚注)

 

 

「下枝」と書いて「しづえ」と読む。「したえだ」の響きより優雅さを感じさせる。詠み込まれた歌をいくつかみてみよう。

 

◆和我夜度能 烏梅能之豆延尓 阿蘇▼都々 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美  [薩摩目高氏海人]            

 ▼は「田+比」=び

      (高氏海人 巻八 八四二)

 

≪書き下し≫我がやどの梅の下枝(しづえ)に遊びつつうぐひす鳴くも散らまく惜しみ  [薩摩目]さつまのさくわん)高氏海人(かうじのあま)]

 

(訳)この我らが庭の梅の下枝を飛び交いながら、鴬が鳴き立てている。花の散るのをいとおしんで。(同上)

(注)高氏海人:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

 題詞は、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌」<春の三月に、諸卿大夫等(まへつきみたち)が難波(なには)に下(くだ)る時の歌二首幷せて短歌>である。

(注)春三月:この歌の作者と思われる高橋虫麻呂の庇護者、藤原宇合が知造難波宮事として功をなした天平四年(732年)三月頃が。(伊藤脚注)

 

 

 長歌(一七四七歌)と反歌(一七四八歌)の歌群と長歌(一七四九歌)と反歌(一七五〇歌)の二群となっている。

 長歌(一七四七歌)をみてみよう。

 

◆白雲之 龍田山之 瀧上之 小▼嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之  及還来

      ▼「木+安」=くら

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四七)

 

≪書き下し≫白雲の 竜田の山の 滝の上(うへ)の 小「木+安」(おぐら)の嶺(みね)に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨(はるさめ)の 継(つ)ぎてし降れば ほつ枝(え)は 散り過ぎにけり 下枝(しづえ)に 残れる花は しましくは 散りなまがひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで

 

(訳)白雲の立つという名の竜田の山を越える道沿いの、その滝の真上にある小▼(をぐら)の嶺、この嶺に、枝もたわわに咲く桜の花は、山が高くて吹き下ろす風がやまない上に、春雨がこやみなく降り続くので、梢の花はもう散り失(う)せてしまった。下枝に咲き残っている花よ、もうしばらくは散りみだれないでおくれ。難波においでの我が君がまたここに帰って来るまでは。(同上)

(注)しらくもの 【白雲の】枕詞:白雲が立ったり、山にかかったり、消えたりするようすから「立つ」「絶ゆ」「かかる」にかかる。また、「立つ」と同音を含む地名「竜田」にかかる。(学研)

(注)ほつえ 【上つ枝・秀つ枝】名詞:上の方の枝。 ※「ほ」は突き出る意、「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。[反対語] 中つ枝(え)・下枝(しづえ)。(学研)

 この歌には、「上つ枝(ほつえ)」と「下枝(しづえ)」が詠まれている。

 

 この歌については、反歌(一七四八歌)とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その188)」で紹介している。

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 一七四九・一七五〇歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1365)」で紹介している。

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◆咲出照 梅之下枝尓 置露之 可消於妹 戀頃者

       (作者未詳 巻十 二三三五)

 

≪書き下し≫咲き出(で)照る梅の下枝(しづえ)に置く露の消(け)ぬべく妹(いも)に恋ふるこのころ

 

(訳)咲き出して照り映えている梅の、その下枝に置く露のように、消え入るばかりにあの子に恋い焦がれている今日このごろだ。(同上)

(注)上三句は序。「消ぬ」を起こす。(伊藤脚注)

 

 

◆橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等

       (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四八九)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)の本(もと)に我(わ)を立て下枝(しづえ)取りならむや君と問ひし子らはも

 

(訳)橘の木の下に私を立たせ、下枝を取り持って、「この橘が実るように私たちの仲も実るでしょうか、あなた」と問いかけたあの子だったのに・・・。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ならむ 分類連語:…であるのだろう。…なのだろう。 ⇒なりたち:断定の助動詞「なり」の未然形+推量の助動詞「む」(学研)

(注)はも 分類連語:…よ、ああ。▽文末に用いて、強い詠嘆の意を表す。 ※上代語。

⇒なりたち:係助詞「は」+終助詞「も」(学研)

 

 

 

―その1746―

●歌は、「かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(20)万葉歌碑(厚見王

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(20)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆河津鳴 甘南備河尓 陰所見而 今香開良武 山振乃花

   (厚見王 巻八 一四三五)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花

 

(訳)河鹿の鳴く神なび川に、影を映して、今頃咲いていることであろうか。岸辺のあの山吹の花は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)神なび川:神なびの地を流れる川。飛鳥川とも竜田川ともいう。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに厚見王の他の二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1015)で紹介している。

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 山吹の歌十七首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1317)」で紹介している。

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―その1747―

●歌は、「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(21)万葉歌碑(紀女郎)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(21)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代

        (紀女郎 巻八 一四六一)

 

≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ

 

(訳)昼間は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれてねむるという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)きみ【君・公】名詞:①天皇。帝(みかど)。②主君。主人。③お方。▽貴人を敬っていう語。④君。▽人名・官名などの下に付いて、「…の君」の形で、その人に敬意を表す。(学研) ここでは、②の意

(注)わけ【戯奴】代名詞:①私め。▽自称の人称代名詞。卑下の意を表す。②おまえ。▽対称の人称代名詞。目下の者にいう。(学研)

 

 一四六〇、一四六一歌の題詞は、「紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首」<紀女郎(きのいらつめ)大伴宿禰家持に贈る歌二首>である。続く一四六二、一四六三歌の題詞は、「大伴家持贈和歌二首」<大伴家持、贈り和(こた)ふる歌二首>である。

(注)きのいらつめ【紀女郎】:奈良中期の万葉歌人。名は小鹿(おしか)。安貴王(あきのおおきみ)の妻。大伴家持(おおとものやかもち)との贈答歌で知られる。生没年未詳。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 紀女郎の歌は万葉集では十二首収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で紹介している。

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 安貴王と紀女郎が別れたと思われるスキャンダラスな歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1362)」で紹介している。

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 一四六〇から一四六三歌は何度読んも、その巧妙な言い回しと駆け引き的な要素がにじみ出て来る、思わず「うまい!!」と言ってしまいそうになる。

 書き下しだけならべてみよう。

 

 

◆戯奴(わけ)がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥(こ)えませ(紀女郎 巻八 一四六〇)

 

◆昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ(紀女郎 巻八 一四六一)

 

 

◆我(あ)が君に戯奴(わけ)は恋ふらし賜(たば)りたる茅花(つばな)を食(は)めどいや痩せに痩す(大伴家持 巻八 一四六二)

 

◆吾妹子(わぎもこ)が形見の合歓木(ねぶ)は花のみに咲きてけだしく実(み)にならじかも(大伴家持 巻八 一四六三)

 

 この四首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その487)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

万葉歌碑を訪ねて(その1742~1744)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(16)~(18)―万葉集巻六 一〇四六、巻七 一一一九、巻七 一三五七

―その1742―

●歌は、「岩つなのまたをちかえりあをによし奈良の都をまたも見むかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(16)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(16)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「傷惜寧樂京荒墟作歌三首  作者不審」<寧楽(なら)の京の荒墟(くわうきよ)を傷惜(いた)みて作る歌三首 作者審らかにあらず>である。

(注)寧楽の京の荒墟:天平十二年(740年)から同十七年奈良遷都まで古京と化したのである。

 

◆石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨

      (作者未詳 巻六 一〇四六)

 

≪書き下し≫岩つなのまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも

 

(訳)這(は)い廻(めぐ)る岩つながもとへ戻るようにまた若返って、栄えに栄えた都、あの奈良の都を、再びこの目で見ることができるであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)岩綱【イワツナ】:定家葛の古名、岩に這う蔦や葛の総称(weblio辞書 植物名辞典)

(注の注)「石綱(イワツナ)」は「石葛(イワツタ)」と同根の語で岩に這うツタのことだが、延びてもまた元に這い戻ることから「かへり」にかかる枕詞となる、(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)をちかへる【復ち返る】自動詞:①若返る。②元に戻る。繰り返す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 奈良の都が突然廃都となり、伊勢行幸の後に恭仁京遷都となるが、作者未詳とはいえ、この三首に見られる、無常観、虚無感ははかりしえない。

 

 一〇四四~一〇四六歌ならびに田辺福麻呂の「寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首幷せて短歌」の一〇四八歌については、聖武天皇の「彷徨の五年」とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1097)で紹介している。

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―その1743―

●歌は、「行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(17)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(17)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之桧原者

      (柿本人麻呂歌集 巻七 一一一九)

 

≪書き下し≫行く川の過ぎにし人の手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪(みわ)の桧原(ひはら)は

 

(訳)行く川の流れのように、現(うつ)し世を消え去って行った人びとが手折って挿頭(かざし)にしないので、しょんぼりと立っている。三輪の檜原は。(同上)

(注)うらぶる 自動詞:わびしく思う。悲しみに沈む。しょんぼりする。 ※「うら」は心の意。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ひばら【檜原】名詞:檜(ひのき)の生い茂っている原。奈良時代では初瀬(はつせ)・巻向(まきむく)・三輪(みわ)のあたりの檜原が有名だった。「ひはら」とも。(学研)

                           

万葉集には、「檜原」が詠まれたのは六首、「檜乃嬬手」「檜山」「檜橋」の形で三首が収録されている。これらについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1124)」で紹介している。

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―その1744―

●歌は、「たらちねの母がその業る桑すらに願へば衣に着るといふものを」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(18)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(18)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足乳根乃 母之其業 桑尚 願者衣尓 著常云物乎

        (作者未詳 巻七 一三五七)

 

≪書き下し≫たらちねの母がその業(な)る桑(くは)すらに願(ねが)へば衣(きぬ)に着るといふものを。

(訳)母が生業(なりわい)として育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。(同上)

(注)なる【業る】自動詞:生業とする。生産する。営む。(学研)

 

この歌は、母の反対がゆえにかなえられない恋を嘆く女心を詠っているのであるが、ここでは「たらちねの母がその業(な)る桑・・・」に注目し、女性の仕事ぶりを歌った歌が万葉集に数多くみられる。

いくつかあげてみよう。

 

志賀島の海女の忙しさを詠った歌■

◆然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尓

     (石川君子 巻三 二七八)

 

≪書き下し≫志賀(しか)の海女(あま)は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛(をぐし)取りも見なくに

 

(訳)志賀島の海女(あま)は、藻を刈ったり塩を焼いたりして暇がないので、櫛笥の小櫛、その櫛を手に取って見ることもできない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)藻:食用や製塩の材料である海藻。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに塩焼く海女を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1636)」で紹介している。

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■機織り■

◆公為 手力勞 織在衣服叙 春去 何色 揩者吉

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一二八一)

 

≪書き下し≫君がため手力(たぢから)疲(つか)れ織(お)れる衣(ころも)ぞ 春さらばいかなる色に摺(す)りてばよけむ

 

 

(訳)あなたのためにと、手の力も抜けてしまうほどに精を出して織った着物です。春になったら、これをどんな色に染め上げたらよいのでしょう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1228)」で紹介している。

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■手染めの糸作り■

◆河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也

       (作者未詳 巻七 一三一六)

 

≪書き下し≫河内女(かふちめ)の手染の糸を繰(く)り返し片糸(かたいと)にあれど絶えむと思へや

 

(訳)河内の国の女たちがその手で染めた糸を、何度も繰った、そんな糸なのだから、片糸であっても、切れてしまうとは思えない。(同上)

(注)河内 分類地名 :旧国名畿内(きない)五か国の一つ。今の大阪府東部。河州(かしゆう)。古くは「かふち」であったらしい。(学研)

(注)くりかへす【繰り返す】他動詞:何度も糸をたぐる。何度も同じことをする。(学研)⇒絶えず思っている様

(注)かたいと【片糸】名詞:より合わせていない糸。 ※縫い合わせる糸は、より合わせた糸を使う。(学研)⇒片思いの譬え

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その451)」で紹介している。

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■麻の栽培■

◆麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹

       (藤原卿 巻七 一一九五)

 

≪書き下し≫麻衣(あさごろも)着(き)ればなつかし紀伊の国(きのくに)の妹背(いもせ)の山に麻蒔(ま)く我妹(わぎも)

 

(訳)麻の衣を着ると懐かしくて仕方がない。紀伊の国(きのくに)の妹背(いもせ)の山で麻の種を蒔いていたあの子のことが。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その732)」で紹介している。

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■麻手刈り干す常陸娘子■

 題詞は、「藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首」<藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、遷任して京に上る時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)が贈る歌一首>である。

(注)常陸娘子:常陸の遊行女婦か。(伊藤脚注)

 

◆庭立 麻手苅干 布暴 東女乎 忘賜名

       (常陸娘子 巻四 五二一)

 

≪書き下し≫庭に立つ麻手(あさで)刈り干(ほ)し布曝(さら)す東女(あづまをみな)を忘れたまふな

 

(訳)庭畑に茂り立っている麻を刈って干し、織った布を日にさらす東女(あずまおんな)、この田舎くさい女のことをどうかお忘れ下さいますな。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)庭:季節によって畑になったり、仕事場になったりする、家の前の空き地。(伊藤脚(注)麻手:布の原料としての麻の意か。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。

 ➡ こちら1721

 

 

「東歌」はあっては、その性格からも「・・・愛(かな)しき子ろが布乾(にのほ)さるかも(巻十四 三三五一歌」、「多摩川にさらす手作りさらさらに・・・(同 三三七三歌)」、「稲搗(つ)けばかかる我が手を今夜もか・・・(同 三四五九歌)」などがみられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の女人たち」 樋口清之 著 (講談社学術文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 植物名辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その1739~1741)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(13)~(14)―万葉集 巻六 九二五、巻六 九七一、巻六 一〇〇九

―その1739―

●歌は、「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(13)万葉歌碑(山部赤人

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(13)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

       (山部赤人 巻六 九二五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)の更けゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く

 

(訳)ぬばたまの夜が更けていくにつれて、久木の生い茂る清らかなこの川原で、千鳥がちち、ちちと鳴き立てている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ぬばたま:黒い玉の意で、ヒオウギの花が結実した黒い実をいう。ヒオウギはアヤメ科の多年草で、アヤメのように、刀形の葉が根元から扇状に広がっている。この姿が、昔の檜扇に似ているのでこの名がつけられたという。

(注)ひさぎ:植物の名。キササゲ、またはアカメガシワというが未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 この歌は、題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌(九二三歌)と反歌二首(九二四・九二五歌)であり、後群は天皇を讃える長歌(九二六歌)と反歌一首(九二七歌)という構成をなしている。

 

 前群の反歌(九二四歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その776)」で、吉野町喜佐谷 桜木神社の歌碑を紹介している。

 ➡ 

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 九二三~九二七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その125改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

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―その1740―

●歌は、「白雲の竜田の山の・・・岡辺の道に丹つつぢのにほはむ時の・・・」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(14)万葉歌碑(高橋虫麻呂

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麻呂作歌一首并短歌」<四年壬申(みづのえさる)に、藤原宇合卿(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、西海道(さいかいどう)の節度使(せつどし)に遣(つか)はさゆる時に、高橋連蟲麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の作る歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

◆白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行公者 五百隔山 伊去割見 賊守筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬木成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 公之来益者

      (高橋虫麻呂 巻六 九七一)

 

≪書き下し≫白雲の 龍田(たつた)の山の 露霜(つゆしも)に 色(いろ)づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重(いほへ)山 い行いきさくみ 敵(あた)まもる 筑紫(つくし)に至り 山のそき 野のそき見よと 伴(とも)の部(へ)を 班(あか)ち遣(つか)はし 山彦(やまびこ)の 答(こた)へむ極(きは)み たにぐくの さ渡る極み 国形(くにかた)を 見(め)したまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道(たつたぢ)の 岡辺(をかへ)の道に 丹(に)つつじの にほはむ時の 桜花(さくらばな) 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参(ま)ゐ出(で)む 君が来まさば

 

(訳)白雲の立つという龍田の山が、冷たい霧で赤く色づく時に、この山を越えて遠い旅にお出かけになる我が君は、幾重にも重なる山々を踏み分けて進み、敵を見張る筑紫に至り着き、山の果て野の果てまでもくまなく検分せよと、部下どもをあちこちに遣わし、山彦のこだまする限り、ひきがえるの這い廻る限り、国のありさまを御覧になって、冬木が芽吹く春になったら、空飛ぶ鳥のように早く帰ってきて下さい。ここ龍田道の岡辺の道に、赤いつつじが咲き映える時、桜の花が咲きにおうその時に、私はお迎えに参りましょう。我が君が帰っていらっしゃったならば。(同上)

(注)しらくもの【白雲の】分類枕詞:白雲が立ったり、山にかかったり、消えたりするようすから「立つ」「絶ゆ」「かかる」にかかる。また、「立つ」と同音を含む地名「竜田」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)つゆしも【露霜】名詞:露と霜。また、露が凍って霜のようになったもの。(学研)

(注)五百重山(読み)いおえやま:〘名〙 いくえにも重なりあっている山(コトバンク精選版 日本国語大辞典

(注)さくむ 他動詞:踏みさいて砕く。(学研)

(注)まもる【守る】他動詞:①目を放さず見続ける。見つめる。見守る。②見張る。警戒する。気をつける。守る。(学研)

(注)そき:そく(退く)の名詞形<そく【退く】自動詞:離れる。遠ざかる。退く。逃れる(学研)➡山のそき:山の果て

(注)あかつ【頒つ・班つ】他動詞:分ける。分配する。分散させる。(学研)

(注)たにぐく【谷蟇】名詞:ひきがえる。 ※「くく」は蛙(かえる)の古名。(学研)

(注)きはみ【極み】名詞:(時間や空間の)極まるところ。極限。果て。(学研)

(注)ふゆごもり【冬籠り】分類枕詞:「春」「張る」にかかる。かかる理由は未詳。(学研)

(注)とぶとりの【飛ぶ鳥の】分類枕詞:①地名の「あすか(明日香)」にかかる。②飛ぶ鳥が速いことから、「早く」にかかる。(学研)

(注)に【丹】名詞:赤土。また、赤色の顔料。赤い色。(学研)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞;「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(学研)

 

高橋虫麻呂は、藤原宇合の庇護を受けた歌人である。虫麻呂が宇合の事を詠った歌が万葉集には六首収録されている。この六首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1365)」で紹介している。

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―その1741―

●歌は、「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(15)万葉歌碑(聖武天皇

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

       (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞:①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(学研)

 

 題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

 

 ここに聖武天皇橘諸兄を中核とするグループと藤原仲麻呂を中心とする藤原一族との対立の萌芽が見られるのである。諸兄の子、橘奈良麻呂の変へと歴史は大きく舵を切って行くのである。この歌と共にこの流れにも触れてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1044)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

万葉歌碑を訪ねて(その1736~1738)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(10)~(12)―万葉集 巻四 六六九、巻五 七九八、巻八 八三四

―その1736―

●歌は、「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(10)万葉歌碑(春日王

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(10)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「春日王歌一首 志貴皇子之子母日多紀皇女也」<春日王(かすがのおほきみ)が歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ>である。

(注)多紀皇女は、天武天皇の娘

 

◆足引之 山橘乃 色丹出与 語言継而 相事毛将有

         (春日王    巻四 六六九)

 

≪書き下し≫あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出でよ語らひ継(つ)ぎて逢ふこともあらむ

 

(訳)山陰にくっきりと赤いやぶこうじの実のように、いっそお気持ちを面(おもて)に出してください。そうしたら誰か思いやりのある人が互いの消息を聞き語り伝えて、晴れてお逢いすることもありましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)山橘:やぶこうじ。上二句は序、「色に出づ」を起す。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに春日王についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1077)」で紹介している。

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 山橘を詠んだ歌は万葉集では六首収録されているが、これについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その664)」で紹介している。

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―その1737―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(11)万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 「日本挽歌」の反歌の四首目である。

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

      (山上憶良 巻五 七九八)

 

≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)楝は、陰暦の三月下旬に咲く、花期は二週間程度。筑紫の楝の花散りゆく様を見て、奈良の楝に思いを馳せて詠っている。

(注)ぬべし 分類連語:①〔「べし」が推量の意の場合〕きっと…だろう。…てしまうにちがいない。②〔「べし」が可能の意の場合〕…できるはずである。…できそうだ。③〔「べし」が意志の意の場合〕…てしまうつもりである。きっと…しよう。…てしまおう。④〔「べし」が当然・義務の意の場合〕…てしまわなければならない。どうしても…なければならない。 ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

 

 この歌については、これまでに幾度も紹介している。太宰府歴史スポーツ公園の歌碑と「楝」を詠んだ歌四首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その893)」で紹介している。

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 万葉集巻五の巻頭歌「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、凶問(きようもん)に報(こた)ふる歌一首(七九三歌)」ならびに山上憶良が旅人に贈った「漢文の序」「日本挽歌一首(七九四歌)」ならびに「反歌」(七九五~七九九歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その489)」で紹介している。

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―その1738―

●歌は、「梅の花今盛なり百鳥の声の恋しき春来るらし」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(12)万葉歌碑(田氏肥人)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛ゝ等利能 己恵能古保志枳 波流岐多流良斯  [小令史田氏肥人]

       (田氏肥人 巻八 八三四) 

 

≪書き下し≫梅の花今盛りなり百鳥(ももとり)の声の恋(こほ)しき春来(きた)るらし  [小令史(せうりゃうし)田氏肥人(でんじのこまひと)]

 

(訳)梅の花が今がまっ盛りだ。鳥という鳥のさえずりに心おどる春が、今まさにやってきたらしい。(同上)

(注)百鳥(ももとり):多くの鳥。種々の鳥。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その4)」で紹介している。

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 太宰府には、2020年11月17日に、「太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園」→「同大佐野 太宰府メモリアルパーク」→「同石坂 九州国立博物館」→「同宰府 太宰府天満宮」→「同観世音寺 太宰府市役所」→「同 観世音寺」→「同 太宰府政庁跡バス停」→「同 太宰府展示館横」→「同 太宰府政庁跡北西」→「同坂本 坂本八幡宮」→「同宰府 太宰府政庁跡北側」→「同 朱雀大橋北詰」と万葉歌碑を訪ねている。

 

 主な歌碑を見てみよう。

太宰府歴史スポーツ公園■

伴氏百代の「梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ(巻五 八二三歌)」である。この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その890)」で紹介している。

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太宰府メモリアルパーク

大伴旅人の「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(巻五 八二二歌)」である。この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)」で紹介している。

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九州国立博物館

大伴旅人の「ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし(巻五 五七四歌)」である。この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で紹介している。

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太宰府天満宮

 佐氏子首の「万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし(巻五 八三〇歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その917)」で紹介している。

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太宰府市役所■

山上憶良の「春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(巻五 八一八歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その919)」で紹介している。

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観世音寺

沙弥満誓の「しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その920)」で紹介している。

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太宰府政庁跡バス停■

 大伴旅人の「やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ(巻六 九五六歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。

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太宰府展示館横■

 小野老の「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり(巻三 三二八歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その922)」で紹介している。

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太宰府政庁跡北西■

 紀卿の「正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(巻五 八一五歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その923)」で紹介している。

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■坂本八幡宮■

 大伴旅人の「我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿(巻八 一五四一歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その924)」で紹介している。

 

 

太宰府政庁跡北側■

 大伴旅人の「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりける(巻五 七九三歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その925)」で紹介している。

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■朱雀大橋北詰■

 柿本人麻呂の「大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ(巻三 三〇四歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その926)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

 

万葉歌碑を訪ねて(その1733~1735)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(7)~(9)―万葉集 巻三 二七七、巻三 三七九、巻五 八一〇の書簡

―その1733―

●歌は、「早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(7)万葉歌碑(高市黒人

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(7)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「高市連黒人覊旅歌八首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が覊旅(きりょ)の歌八首>である。

 

◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去毛奚留鴨

        (高市黒人 巻三 二七七)

 

≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀の槻群(たかのつきむら)散にけるかも

 

(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)早来ても:旅から早く帰って来ての意。(伊藤脚注)

(注):山背の多賀:京都府綴喜郡井手町多賀。(伊藤脚注) 

 

 この羇旅の歌八首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で紹介している。

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 羇旅の歌八首の書き下しを並べて見る。

◆(二七〇歌)旅にしてもの恋(こひ)しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船(ふね)沖に漕(こ)ぐ見ゆ

 

◆(二七一歌)桜田 (さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る

 

◆(二七二歌)四極山(しはつやま)うち越(こ)え見れば笠縫(かさぬひ)の島漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1459)」で紹介している。

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◆(二七三歌)磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)の港(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く 

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その410)」で紹介している。

 ➡ 

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◆(二七四歌)我(わ)が舟は比良(ひら)の港に漕(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜(よ)更(ふ)けにけり

 

◆(二七五歌)いづくにか我(わ)が宿りせむ高島(たかしま)の勝野(かつの)の原にこの日暮れなば

 

◆(二七六歌)妹も我(あ)れも一つなれかも三河(みかは)なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1460)」で紹介している。

 ➡ 

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◆(二七七歌)早(はや)来ても見てましものを山背の多賀(たが)の槻群(つきむら)散りにけるかも

 

 旅路で目にしたものが姿を消して行くとか人の別れといった時間軸での移動の対極にある「自己は、孤独に残された姿」(中西進著「古代史で楽しむ万葉集<角川文庫>)であり、「『何処(いづく)にか』―『どこ』というのも彼の口ぐせである。・・・どことも何とも定まらない不安定さが、黒人の心の色彩を決定する。・・・動きやまないもので、それらに心を捉えられること自体が、すでに黒人の身についた情緒であって、物すべてが揺れやまぬ不定の世界に存在する。行幸に供奉(ぐぶ)しながら、そうした風景が黒人の棲んだ世界であった。」(前著)

 

 

 

―その1734―

●歌は、「ひさかたの・・・奥山の賢木の枝に白香付け木綿取り付けて・・・」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(8)万葉歌碑(大伴坂上郎女

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大伴坂上郎女祭神歌一首并短歌」<大伴坂上郎女、神を祭る歌一首并せて短歌>である。

 

◆久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 齊戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝析伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者祈奈牟 君尓不相可聞

       (大伴坂上郎女 巻三 三七九)

 

≪書き下し≫ひさかたの 天(あま)の原(はら)より 生(あ)れ来(き)たる 神の命(みこと) 奥山の 賢木(さかき)の枝(えだ)に 白香(しらか)付け 木綿(ゆふ)取り付けて 斎瓮(いはひへ)を 斎(いは)ひ掘り据(す)ゑ 竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂(た)れ 鹿(しし)じもの 膝(膝)折り伏して たわや女(め)の 襲(おすひ)取り懸(か)け かくだにも 我(わ)れは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも

 

(訳)高天原の神のみ代から現われて生を継いで来た先祖の神よ。奥山の賢木の枝に、白香(しらか)を付け木綿(ゆう)を取り付けて、斎瓮(いわいべ)をいみ清めて堀り据え、竹玉を緒(お)にいっぱい貫き垂らし、鹿のように膝を折り曲げて神の前にひれ伏し、たおやめである私が襲(おすい)を肩に掛け、こんなにまでして私は懸命にお祈りをしましょう。それなのに、我が君にお逢いできないものなのでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しらか【白香】名詞:麻や楮(こうぞ)などの繊維を細かく裂き、さらして白髪のようにして束ねたもの。神事に使った。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(学研)

(注)いはひべ【斎ひ瓮】名詞:神にささげる酒を入れる神聖な甕(かめ)。土を掘って設置したらしい。(学研)

(注)たかだま【竹玉・竹珠】名詞:細い竹を短く輪切りにして、ひもを通したもの。神事に用いる。(学研)

(注)しじに【繁に】副詞:数多く。ぎっしりと。びっしりと。(学研)

(注)ししじもの【鹿じもの・猪じもの】分類枕詞:鹿(しか)や猪(いのしし)のようにの意から「い這(は)ふ」「膝(ひざ)折り伏す」などにかかる。(学研)

(注)おすひ【襲】名詞:上代上着の一種。長い布を頭からかぶり、全身をおおうように裾(すそ)まで長く垂らしたもの。主に神事の折の、女性の祭服。(学研)

(注)だにも 分類連語:①…だけでも。②…さえも。 ※なりたち副助詞「だに」+係助詞「も」

(注)君に逢はじかも:祖神の中に、亡夫宿奈麻呂を封じ込めた表現

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1079)」で紹介している。

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 樋口清之氏は、その著「万葉の女人たち」(講談社学術文庫)のなかで、「(大伴坂上郎女が)大伴氏の祭神すなわち祖神を祭ったということは、なお寧楽時代にあっても、皇室の斎宮を始めとし、各氏々の主要な女性が神に奉仕する職掌を有するものであったことを示すものといえましょう。かかる点より見れば万葉女人が神に通ずる強いそして純粋な感情を所有していたということも単なる抽象的考察ではなくして、女性の生活に裏付けられた必然性であるということができます。(後略)」と書かれている。

 当時の祭神を祀る儀式の詳細がうかがえる歌である。と同時に「かくだにも 我(わ)れは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも」と、本音を詠っている。

 一族の代表として神を祀るという任務を果たしながら、「神」とはと考える郎女ならではの鋭い歌でもある。

 

 

 

―その1735―

大伴旅人藤原房前に送った書状の書き出しは、「大伴旅人謹状 梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝なり・・・」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(9)万葉歌碑(大伴旅人

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(9)にある。

 

●書状ならびに歌(八一〇歌)をみていこう。

 

 書状の書き出しは、「大伴淡等謹状 梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝」<大伴淡等(おほとものたびと)謹状(きんじょう) 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石(ゆひし)の山の孫枝(ひこえ)なり>である。

(注)ごとう【梧 桐】: アオギリの異名。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)「淡等」:旅人を漢字音で書いたもの

(注)結石(ゆひし)の山:対馬北端の山

(注)孫枝(読み)ヒコエ:枝からさらに分かれ出た小枝。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 前文は、「此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞▼九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴 不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰」<この琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて日(い)はく、『余(われ)、根(ね)を遥島(えうたう)の崇巒(すうらん)に託(よ)せ、幹(から)を九陽(きうやう)の休光(きうくわう)に晒(さら)す。長く煙霞(えんか)を帯びて、山川(さんせん)の阿(くま)に逍遥(せうえう)す。遠く風波(ふうは)を望みて、雁木(がんぼく)の間(あひだ)に出入す。ただに恐る、百年の後(のち)に、空(むな)しく溝壑(こうかく)に朽(く)ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭(あ)ひ、斮(き)られて小琴(せうきん)と為(な)る。質麁(あら)く音少なきことを顧(かへり)みず、つねに君子の左琴(さきん)を希(ねが)ふ』といっふ。すなはち歌ひて曰はく>である。

 

(訳)この琴が、夢に娘子(おとめ)になって現れて言いました。「私は、遠い対馬(つしま)の高山に根をおろし、果てもない大空の光に幹をさらしていました。長らく雲や霞(かすみ)に包まれ、山や川の蔭(かげ)に遊び暮らし、遥かに風や波を眺めて、物の役に立てるかどうかの状態でいました。たった一つの心配は、寿命を終えて空しく谷底深く朽ち果てることでありました。ところが、偶然にも立派な工匠(たくみ)に出逢い、伐(き)られて小さな琴になりました。音質は荒く音量も乏しいことを顧(かえり)みず、徳の高いお方の膝の上に置かれることをずっと願うております。」と。次のように歌いました。

(注)遥島:はるか遠い島。ここでは対馬のことをいう。

(注)崇巒:高い嶺。

(注)九陽(読み)きゅうよう〘名〙:太陽。日。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)(注)休光:うるわしい光

(注)逍遥(読み)ショウヨウ [名]:気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)雁木の間:古代中国の思想家、荘子が旅の途中、木こりが木を切り倒していた。「立派な木だから、いい材料になる」。しばらく行くと、親切な村人がごちそうしてくれた。「この雁はよく鳴かないので殺しました」。役に立つから切られるものと、役に立たないから殺されるもの。荘子いわく、「役に立つとか立たないとか考えず生きるのが一番いい」(佐賀新聞LIVE)

(注)百年:人間の寿命➡百年の後>寿命を終えて

(注)溝壑(読み)こうがく:みぞ。どぶ。谷間。(コトバンク 大辞林 第三版)

(注)君子の左琴:『白虎通』に「琴、禁也、以禦二止淫邪_、正二人心,.一也。」、つまり琴が君子の身を修め心を正しくする器であるといい、そのゆえに『風俗通義』に「君子の常に御する所のもの、琴、最も親密なり、身より離さず」という、「君子左琴」「右書左琴」などの、“君子の楽器としての琴”という通念が生まれて来た。(明治大学大学院紀要 第28集1991.2)

 

 

◆伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武

        (大伴旅人 巻五 八一〇)

 

≪書き下し≫いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)どういう日のどんな時になったら、この声を聞きわけて下さる立派なお方の膝の上を、私は枕にすることができるのでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 前文ならびに後文・八一一歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外200513⁻2)」で紹介している。

 ➡ 

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 この大伴旅人の書簡と歌に対して藤原房前が返書と歌を贈っている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1472)」で紹介している。

 ➡ 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川文庫)

★「万葉の女人たち」 樋口清之 著 (講談社学術文庫

★「明治大学大学院紀要 第28集1991.2」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「佐賀新聞LIVE」

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1730~1732)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(4)~(6)―万葉集 巻二 一六六、巻二 一八五、巻三 二五九

―その1730―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(4)万葉歌碑(大伯皇女)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」他で、斎王の宮址に関しては「同(その429)」で、紹介している。

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 葛城市HPに「大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子(おおつのみこ)」と題する記事が次の様に掲載されているので、引用させていただきます。

「本市で『万葉集』ゆかりの歌人として忘れてならないのは、大伯皇女(661年~702年)と大津皇子(663年~686年)姉弟です。二人は天武天皇を父に、天智天皇の皇女・大田皇女を母に生まれました。やがて姉の大伯皇女は伊勢の斎宮(注釈)

に召されます。弟の大津皇子は「体格や容姿が逞しく、寛大。幼いころから学問を好み知識は深く、見事な文章を記した。長じては武芸にすぐれ、その人柄は自由闊達つ皇子ながら謙虚、多くの人々の信望を集めた」(『懐風藻』)と、将来を嘱望される皇子に成長したようです。ところが天武天皇崩御の後、川島皇子の密告がもとで謀反のかどで捕らえられ、磐余にある訳語田(現奈良県桜井市)の自宅で死を賜りました。皇太子草壁皇子の即位の妨げになるためだったとの説もあります。辞世の歌として、

ももづたふ磐余の池に鳴く鴫を 今日のみ見てや雲隠りなむ

が、『万葉集』巻三・四一五に残されています。

弟への慈愛を母のように注いだ皇女は、弟を案じ、その死に臨んで悲嘆に暮れる歌を詠んでいます。伊勢を訪ねた皇子が帰途についた際

わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし (巻二・一〇五)

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (巻二・一〇六)

皇子の亡がらは、二上山に移葬されました。雄岳頂上には、大津皇子二上山墓が築かれています。

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背とわが見む (巻二・一六五)

(注釈)「いつきのみや」とも呼ばれ、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替わりごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣された。」

 

 一六五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その437)」で紹介している。

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―その1731―

●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(5)万葉歌碑(日並皇子尊宮舎人)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。

 

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

       (日並皇子尊宮舎人 巻二 一八五)

 

≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。「うらわ」とも。(学研)

(注)茂く>もし【茂し】( 形ク ):草木の多く茂るさま。しげし。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)

 

 この歌ならびに全二十三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その502)」で紹介している。

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―その1732―

●歌は、「いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔生すまでに」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(6)万葉歌碑(鴨君足人)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(6)にある。

 

●歌をみていこう。

 

二五七から二五九歌の題詞は、「鴨君足人香具山歌一首 幷短歌」<鴨君足人(かものきみたりひと)が香具山(かぐやま)の歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆何時間毛 神左備祁留鹿 香山之 鉾椙之本尓 薜生左右二

       (鴨君足人 巻三 二五九)

 

≪書き下し≫いつの間(ま)も神(かむ)さびけるか香具山(かぐやま)の桙杉(ほこすぎ)の本(もと)に苔(こけ)生(む)すまでに

 

(訳)いつの間にこうも人気がなく神さびてしまったのか。香具山の尖(とが)った杉の大木の、その根元に苔が生すほどに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ほこすぎ【矛杉・桙杉】:矛のようにまっすぐ生い立った杉。(広辞苑無料検索)

(注)桙杉(ほこすぎ)の本(もと):矛先の様にとがった、杉の大木のその根元。(伊藤脚注)

 

 二五七から二五九歌ならびに「或る本」の歌(二六〇歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1466)」で紹介している。

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 大伯皇女は、斉明天皇7年(661年)、大伯(今の岡山県瀬戸市内沿岸)沖合の船上で生まれたという。この船は、斉明天皇の征西の船である。母は大田皇女である。この船には妹にあたる鸕野讃良(うのささら)皇女<後の持統天皇>も乗っており、船が那の大津(今の博多)に着いてから、日並皇子尊(草壁皇子)を生んでいる。

 そして天智二年(663年)の大津の皇子が誕生している。

 こうして大津皇子の悲劇へのドラマは幕を開けたのである。

 

 大津皇子辞世の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

★「広辞苑無料検索」

★「葛城市HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1727~1729)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(1)~(3)―万葉集 巻一 二八、巻二 一一一、巻二 一四一

―その1727―

●歌は、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(1)万葉歌碑(持統天皇

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

標題は、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号太上天皇」<藤原(ふぢはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位(みくらゐ)を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲りたまふ。尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ>である。

(注)藤原宮:持統・文武両天皇の皇居。香具山の西方、橿原市高殿町付近。(伊藤脚注)

(注)高天原広野姫天皇:四一代持統天皇。(伊藤脚注)

(注)軽太子(かるのひつぎのみこ):草壁皇子の第二子。697年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。707年25歳で崩御

(注)おほきすめらみこと【太上天皇】〘名〙:退位した天皇をいう尊称。文武天皇元年(六九七)に譲位した持統天皇に対して用いたのに始まる。だいじょうてんのう。だじょうてんのう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

 

◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

    (持統天皇 巻一 二八)

 

≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣干したり天の香具山

 

(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 (注の注)ここは、まっ白いの意。「栲」は楮の樹皮で作った白い布。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに持統天皇の他の五首ならびに藤原宮跡についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で紹介している。

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―その1728―

●歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(2)万葉歌碑(弓削皇子

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。

(注)弓削皇子天武天皇の子。母は大江皇女。文武三年(699年)没。持統統治政下に不遇であったらしい。(伊藤脚注)

 

◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久

      (弓削皇子 巻二 一一一)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く

 

(訳)古(いにしえ)に恋の焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)弓絃葉の御井:吉野離宮の清泉の通称か。

 

 この歌ならびに額田王が和えた歌(一一二歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その110改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 こちらの歌碑は、奈良県桜井市栗原 栗原寺跡(おうばらでらあと)のものです。

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 弓削皇子に忍びよる持統の恐怖についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その200)」で紹介している。

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―その1729―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(3)万葉歌碑(有間皇子

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

        (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、これまで幾度となく紹介している。和歌山県日高郡みなべ町西岩代の光照寺の歌碑、ならびに「有間皇子結松記念碑」にちてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1193、番外岩代)」で紹介している。

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 ナカンダ浜の柿本人麻呂の歌碑に続いて「万葉樹木園」の歌碑群が並んでいる。瀬戸大橋の遠望も見られ、現代から万葉時代へのタイムスリップの架け橋となっているようである。

人麻呂の歌碑・万葉樹木園の歌碑群そして瀬戸大橋

 「万葉樹木園」とあるが、先達のブログや一部の書物に「こども樹木園」という言い方が使われている。

 「万葉樹木園の記」には、「万葉人の愛せし樹木より五十種を選び自然の中にとけこんで生きた遠い人の心を思い自然をとうとび人間と自然の調和を願って坂出市小中学校児童生徒が心を込めて植樹するものである。 昭和六十三年三月坂出市教育研究所」と書かれている。

「万葉樹木園の記」の碑

 何故か気になり、検索して、「坂出市沙弥島ナカンダ浜等のあり方検討協議会」の平成28年3月の第1次報告書を見てみた。沙弥島の歴史略年表が「時代・出来事・関連史蹟等」が書かれているが、そこには、「昭和62年(1987年)・市内24の小中学校児童が万葉樹木を植樹→平成16年の台風によりほぼ全壊・万葉樹木園」と書かれていた。

 「こども樹木園」の記述は残念ながら見当たらなかった。

 現在の「万葉樹木園」の歌碑の並べ方を見る限り、他の場所に「こども樹木園」があり、台風被害により歌碑を全て現在地に持って来たのではと勝手に考えている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「坂出市沙弥島ナカンダ浜等のあり方検討協議会平成28年3月の第1次報告書」 (坂出市HP)

★「万葉樹木園の記」 (坂出市教育研究所)