万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その984)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(3)―万葉集 巻七 一二四九

●歌は、「君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(3)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉

              (作者未詳 巻七 一二四九)

 

≪書き下し≫君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘むと我(わ)が染(そ)めし袖濡れにけるか

 

(訳)あの方に差し上げるために、浮沼の池の菱の実を摘もうとして、私が染めて作った着物の袖がすっかり濡れてしまいました。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 左注に「右の四首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」とある。

 

 ヒシは、葉の形が特徴的で、菱型という言葉はその葉の形からきているとされている。ヒシは一年生の水草で、七月頃、白い花を咲かせる。それから棘のある特徴的な実をつける。この実は食用になり、栗に似た味がするそうである。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その285)」で紹介している。

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万葉集で詠われた「菱」のような主な水生植物をあげてみる。

あざさ(アサザ)、あやめぐさ(ショウブ)、かきつばた(カキツバタ)、ぬなは(ジュンサイ)、はちす(ハス)、も(カワモ)などである。

これらの万葉植物を詠んだ歌をみてみよう。

(注)万葉の植物名は平仮名で、現在の名前はカタカナで表記している。

 

 

【あざさ(アサザ)】

◆打久津 三宅乃原従 常土 足迹貫 夏草乎 腰尓魚積 如何有哉 人子故曽 通簀文(・)吾子 諾ゝ名 母者不知 諾ゝ名 父者不知 蜷腸 香黒髪丹 真木綿持 阿邪左結垂 日本之 黄楊乃小櫛乎 抑刺 卜細子 彼曽吾孋

               (作者未詳 巻十三 三二九五)

 

 ≪書き下し≫うちひさつ 三宅(みやけ)の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏(ふ)み貫(ぬ)き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑぞ 通(かよ)はすも我子(あご) うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷(みな)の腸(わた) か黒(ぐろ)き髪に 真木綿(まゆふ)もち あざさ結(ゆ)ひ垂(た)れ 大和の 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を 押(おさ)へ刺(さ)す うらぐはし子 それぞ我(わ)が妻

 

(訳)うちひさつ三宅の原を、地べたに裸足なんかを踏みこんで、夏草に腰をからませて、まあ、いったいどこのどんな娘御(むすめご)ゆえに通っておいでなのだね、お前。ごもっともごもっとも、母さんはご存じありますまい。ごもっともごもっとも、父さんはご存じありますまい。蜷の腸そっくりの黒々とした髪に、木綿(ゆう)の緒(お)であざさを結わえて垂らし、大和の黄楊(つげ)の小櫛(おぐし)を押えにさしている妙とも妙ともいうべき子、それが私の相手なのです。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)うちひさす【打ち日さす】分類枕詞:日の光が輝く意から「宮」「都」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは「三宅」にかかっている。

(注)三宅の原:奈良県磯城郡三宅町付近。

(注)ひたつち【直土】名詞:地面に直接接していること。 ※「ひた」は接頭語。(学研)

(注)こしなづむ【腰泥む】分類連語:腰にまつわりついて、行き悩む。難渋する。(学研)

(注)うべなうべな【宜な宜な・諾な諾な】副詞:なるほどなるほど。いかにももっともなことに。(学研)

(注)みなのわた【蜷の腸】分類枕詞:蜷(=かわにな)の肉を焼いたものが黒いことから「か黒し」にかかる。(学研)

(注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(学研)

(注)あざさ:ミツガシワ科アサザ属の多年生水草ユーラシア大陸の温帯地域に生息し、日本では本州や九州に生息。5月から10月頃にかけて黄色の花を咲かせる水草。(三宅町HP) ※あざさは三宅町の町花である。現在の植物名は「アサザ」である。

(注)うらぐはし【うら細し・うら麗し】形容詞:心にしみて美しい。見ていて気持ちがよい。すばらしく美しい。(学研)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(432)」で紹介している。

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【あやめぐさ(ショウブ)】

◆保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具左 加豆良尓勢武日 許由奈伎和多礼

               (田辺福麻呂<誦> 巻十八 四〇三五)

 

≪書き下し≫ほととぎすいとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ

 

(訳)時鳥よ、来てくれていやな時などありはせぬ。だけど、菖蒲草(あやめぐさ)を縵(かうら)に着ける日、その日だけはかならずここを鳴いて渡っておくれ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

古歌(巻十 一九五五)を利用したもの。

 ※一九五五歌と同じ。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その972)」で紹介している。

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【かきつばた(カキツバタ)】

◆加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曽比獦須流 月者伎尓家里

                (大伴家持 巻十七 三九二一)

 

≪書き下し≫かきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付けますらをの着(き)襲(そ)ひ猟(かり)する月は来にけり

 

(訳)杜若(かきつばた)、その花を着物に摺り付け染め、ますらおたちが着飾って薬猟(くすりがり)をする月は、今ここにやってきた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)きそふ【着襲ふ】他動詞:衣服を重ねて着る。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その339)」で紹介している。

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【ぬなは(ジュンサイ)】

◆吾情 湯谷絶谷 浮蒪 邊毛奥毛 依勝益士

            (作者未詳 巻七 一三五二)

 

≪書き下し≫我(あ)が心ゆたにたゆたに浮蒪(うきぬなは)辺にも沖(おき)にも寄りかつましじ

 

(訳)私の心は、ゆったりしたり揺動したりで、池の面(も)に浮かんでいる蒪菜(じゅんさい)だ。岸の方にも沖の方にも寄りつけそうもない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆたに>ゆたなり 【寛なり】形容動詞ナリ活用:ゆったりとしている。(webliok古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。(同上)

(注)寄りかつましじ:寄り付けそうにもあるまい

 

 蒪(ぬなは)は、ジュンサイのことで、スイレン科の多年生植物。沼などの泥の中に根を延ばし、葉は楕円形で10cm程度。葉や茎はぬるぬるしていて水面に浮かんでいる。若い芽は食用にする。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その281)」で紹介している。

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【はちす(ハス)】

◆久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似有将見

                (作者未詳 巻十六 三八三七)

 

≪書き下し≫ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすは)に溜(た)まれる水の玉に似たる見む

 

(訳)空から雨でも降って来ないものかな。蓮の葉に留まった水の、玉のようにきらきら光るのが見たい。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右歌一首傳云 有右兵衛<姓名未詳> 多能歌作之藝也 于時府家備設酒食饗宴府官人等 於是饌食盛之皆用荷葉 諸人酒酣歌舞駱驛 乃誘兵衛云関其荷葉而作歌者 登時應聲作斯歌也<右の歌一首は、伝へて云はく、「右兵衛(うひやうゑ)のものあり。<姓名は未詳> 歌作の芸(わざ)に多能なり。時に、府家(ふか)に酒食(しゅし)を備へ設けて、府(つかさ)の官人らに饗宴(あへ)す。ここに、饌食(せんし)は盛(も)るに、皆蓮葉(はちすば)をもちてす。諸人(もろひと)酒(さけ)酣(たけなは)にして、歌舞(かぶ)駱驛(らくえき)す。すなはち、兵衛を誘(いざな)ひて云はく、『その蓮葉に関(か)けて歌を作れ』といへれば、たちまちに声に応へて、この歌を作る」といふ。

(注)うひゃうゑ【右兵衛】名詞:「右兵衛府」の略。また、「右兵衛府」の武官。[反対語] 左兵衛。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うひゃうゑふ【右兵衛府】名詞:「六衛府(ろくゑふ)」の一つ。「左兵衛府(さひやうゑふ)」とともに、内裏(だいり)外側の諸門の警備、行幸のときの警護、左右京内の巡検などを担当した役所。右の兵衛府。[反対語] 左兵衛府。(同上)

(注)らくえき【絡繹・駱駅】人馬などが次々に続いて絶えないさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

  この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その282)」で紹介している。

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【も(カワモ)】

◆飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡(一云、石浪) 下瀬 打橋渡 石橋(一云、石浪) 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王生乃 立者 玉藻之如許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 唯見不献 三五月之 益目頬染 所念之 君与時ゞ 幸而 遊賜之 御食向 木瓲之宮乎 常宮跡定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨(一云、所己乎之毛) 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬(一云、為乍) 朝鳥(一云、朝霧) 往来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼往此去 大船 猶預不定見者 遺問流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将往 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此為

                                          (柿本人麻呂 巻二 一九六)

 

≪書き下し≫飛ぶ鳥 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 石橋(いしばし)渡す<一には「石並」といふ> 下(しも)つ瀬に 打橋(うちはし)渡す 石橋に<一には「石並」といふ> 生(お)ひ靡(なび)ける 玉藻ぞ 絶ゆれば生(は)ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こ)やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背(そむ)きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢば)かざし 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月(もちづき)の いや愛(め)づらしみ 思ほしし 君と時時(ときとき) 出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向かふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ しかれかも<一には「そこをしも」といふ> あやに悲しみ ぬえ鳥(どり)の 片恋(かたこひ)づま(一には「しつつ」といふ) 朝鳥(あさとり)の<一つには「朝霧の」といふ> 通(かよ)はす君が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 夕星(ゆふつづ)の か行きかく行き 大船(おほふな)の たゆたふ見れば 慰(なぐさ)もる 心もあらず そこ故(ゆゑ)に 為(せ)むすべ知れや 音(おと)のみも 名のみも絶えず 天地(あめつち)の いや遠長(とほなが)く 偲ひ行かむ 御名(みな)に懸(か)かせる 明日香川 万代(よろづよ)までに はしきやし 我が大君の 形見(かたみ)にここを

 

(訳)飛ぶ鳥明日香の川の、川上の浅瀬に飛石を並べる(石並を並べる)、川下の浅瀬に板橋を掛ける。その飛石に(石並に)生(お)い靡いている玉藻はちぎれるとすぐまた生える。その板橋の下に生い茂っている川藻は枯れるとすぐまた生える。それなのにどうして、わが皇女(ひめみこ)は、起きていられる時にはこの玉藻のように、寝(やす)んでいられる時にはこの川藻のように、いつも親しく睦(むつ)みあわれた何不足なき夫(せ)の君の朝宮をお忘れになったのか、夕宮をお見捨てになったのか。いつまでもこの世のお方だとお見うけした時に、春には花を手折って髪に挿し、秋ともなると黄葉(もみぢ)を髪に挿してはそっと手を取り合い、いくら見ても見飽きずにいよいよいとしくお思いになったその夫の君と、四季折々にお出ましになって遊ばれた城上(きのえ)の宮なのに、その宮を、今は永久の御殿とお定めになって、じかに逢うことも言葉を交わすこともなされなくなってしまった。そのためであろうか(そのことを)むしょうに悲しんで片恋をなさる夫の君(片恋をなさりながら)朝鳥のように(朝霧のように)城上の殯宮に通われる夫の君が、夏草の萎(な)えるようにしょんぼりして、夕星のように行きつ戻りつ心落ち着かずにおられるのを見ると、私どももますます心晴れやらず、それゆえどうしてよいかなすすべを知らない。せめて、お噂(うわさ)だけ御名(みな)だけでも絶やすことなく、天地(あめつち)とともに遠く久しくお偲びしていこう。その御名にゆかりの明日香川をいついつまでも……、ああ、われらが皇女の形見としてこの明日香川を。(伊藤 博  著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ををれる<ををる 【撓る】:(たくさんの花や葉で)枝がしなう。

                 たわみ曲がる。

(注)もころ【如・若】名詞〔連体修飾語を受けて〕…のごとく。…のように。

                    ▽よく似た状態であることを表す

(注)はるへ<はるべ 【春方】名詞 春のころ。春。古くは「はるへ」

(注)しきたへの 【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞 「しきたへ」が寝具である

      ことから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、

      また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」

      などにかかる。

(注)たづさふ 【携ふ】:手を取りあう。連れ立つ。連れ添う。

(注)あぢさはふ:分類枕詞 「目」にかかる。語義・かかる理由未詳。

(注)目言(めこと):名詞 実際に目で見、口で話すこと。

            顔を合わせて語り合うこと。

(注)たゆたふ:定まる所なく揺れ動く。

        (注)は、「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」による。

 

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(132改)」で紹介している。(初期のブログのためタイトル写真に朝食の写真が載っているが本文では、改訂して削除してあります。ご容赦下さい。)

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その983)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(2)―万葉集 巻二十 四三八七

●歌は、「千葉の野の子手柏のほほまれどあやに愛しみ置きてたか来ぬ」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(2)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(2)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保ゝ麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴

               (作者未詳 巻二十 四三八七)

 

≪書き下し≫千葉(ちば)の野(ぬ)の子手柏(このてかしは)のほほまれどあやに愛(かな)しみ置きてたか来(き)ぬ

 

(訳)千葉の野の児手柏の若葉のように、まだ蕾(つぼみ)のままだが、やたらにかわいくてならない。そのままにしてはるばるとやって来た、おれは。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ほほまる【含まる】自動詞:つぼみのままでいる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たか-【高】接頭語:〔名詞や動詞などに付いて〕高い。大きい。立派な。「たか嶺(ね)」「たか殿」「たか知る」「たか敷く」(同上)

 

左注は、「右一首千葉郡大田部足人」<右の一首は千葉(ちば)の郡(こほり)の大田部足人(おほたべのたりひと)>である。

 

「防人歌」である。

 

 この「児の手柏」は、文字通り椎葉を子供の掌に見立てたもので、ブナ科のカシワの若葉と考えられている。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(310)」で紹介している。

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 一方、ヒノキ科のコノテカシワを詠んだ歌がある。こちらもみてみよう。

題詞は、「謗佞人歌一首」<佞人(ねいじん)を謗(そし)る歌一首>である。

 

◆奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 ▼人之友

               (消奈行文大夫 巻十六 三八三六)

 ※ ▼は、「イ+妾」となっているが、「佞」が正しい表記である。➡以下、「佞人」と書く。読みは、「こびひと」あるいは「ねぢけびと」➡以下、「こびひと」と書く。

 

≪書き下し≫奈良山(ならやま)の児手柏(このてかしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも佞人(こびひと)が伴(とも)

 

(訳)まるで奈良山にある児手柏(このてかしわ)のように、表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔をして、いずれにしても始末の悪いおべっか使いの輩よ。(「「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「奈良山乃 兒手柏之」は、「兩面尓」を起こす序。

(注)かにもかくにも 副詞:とにもかくにも。どうであれ。(学研)

(注)ねいじん【佞人】:心がよこしまで人にへつらう人。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)

 

 左注は、「右歌一首博士消奈行文大夫之」<右の歌一首は、博士(はかせ)、消奈行文大夫(せなのかうぶんのまへつきみ)作る>である。

(注)博士:大学寮の大先生が残した教訓なのだという気持ちがこもる。

(注)消奈行文:奈良時代の官吏。高倉福信(たかくらのふくしん)の伯父。幼少より学をこのみ明経第二博士となり、養老5年(721)学業優秀として賞された。神亀(じんき)4年従五位下。「万葉集」に1首とられている。また「懐風藻」に従五位下大学助、年62とあり、五言詩2首がのる。武蔵(むさし)高麗郡(埼玉県)出身。(コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

 

 こちらの歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その540)」で紹介している。

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四三八七歌の「子手柏(このてかしは)のほほまれどあやに愛(かな)しみ」と若葉を「児手柏の若葉のように、まだ蕾(つぼみ)のままだが、やたらにかわいくてならない。」と詠い、

三八三六歌の「児手柏(このてかしは)の両面(ふたおも)」と「表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔をして」と詠う、自然の植物に対する観察力の鋭さから生まれた詠み込みに驚かされる。

 

 巻十六の三八三四歌のように、即興にその場の植物、或は題として出された植物を、或る種、掛詞も駆使し詠うという自然観察力と作歌力、宴会などの場を盛り上げる軽妙洒脱さには舌を巻く。

 三八三四歌をみてみよう。

 

◆成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲

               (作者未詳 巻十六 三八三四)

 

≪書き下し≫梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く

 

(訳)梨、棗、黍(きび)、それに粟(あわ)と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のようにのちにでも逢うことができようと、葵(逢ふ日)の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)はふくずの「延(は)ふ葛(くず)の」枕詞:延びていく葛が今は別れていても先で逢うことがあるように、の意で「後も逢はむ」の枕詞になっている。

 

 この歌には、植物の名前にかけた言葉遊びが隠されている。「黍(きみ)」は「君(きみ)」に、「粟(あは)」は「逢(あ)ふ」に、そして「葵(あふひ)」には「逢(あ)ふ日(ひ)」の意味が込められている。このような言葉遊びは、後の時代に「掛詞(かけことば)」という和歌の技法として発展していくのである。

 

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その667)」で紹介している。

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 植物園で万葉植物とそれにちなんだ万葉歌の歌碑やプレートが建てられている。歌を通して、今とちがう植物との接し方と、作者の思いをもっと深く探っていきたい。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

★「コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

万葉歌碑を訪ねて(その982)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(1)―万葉集 巻二十 四四四八

 一宮市萩原町の萬葉公園をあとにして、名古屋市内の東山植物園に向かう。地下鉄「東山公園駅」で降りるつもりであったが、車内放送で植物園は次の「星が丘駅」が近いと知る。

 駅から登り坂である。間もなく正面左手に「東山動植物園星が丘門」が見えてくる。入園料を支払い、検温、アルコール消毒の後、園内に入る。

 まず、見つけたのがこの歌碑であった。

 

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(1)万葉歌碑<橘諸兄

●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

                (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)        

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東山植物園「万葉の散歩道」の碑


 

 

橘諸兄は、光明皇后の異父兄で葛城王と称する皇族であったが、天平八年(736年)、橘宿禰姓を賜わり、名を諸兄と改めた。

この時に、聖武天皇が詠われた、題詞「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>の歌(巻六 一〇〇九)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その966)」で紹介している。

 

橘諸兄が政治の世界で全盛期を迎えるのは、天平九年(七三七年)天然痘が大流行し、藤原不比等四子(武智麻呂,房前,宇合,麻呂) が相次いで没し、大納言、右大臣と躍進していった頃である。しかし,天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱恭仁京遷都の失敗などにみまわれ、同十五年(743年)左大臣になるも、藤原仲麻呂の台頭によって、その影は薄くなっていった。天平勝宝八歳(756年)藤原仲麻呂一族に誣告(ぶこく)され自ら官を辞した。そして翌年失意のうちに亡くなったのである。

 大伴家持との接点についてもブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その967)」で触れている。

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 橘諸兄が、田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として、その当時、越中守であった大伴家持のところに遣わしている。四〇三二から四〇三五歌の歌群の題詞は、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌幷便誦古詠各述心緒」<天平(てんびやう)二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が舘(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)いき歌を作り、幷(あは)せてすなはち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ>である。

この歌群の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。

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 橘諸兄は、万葉集編纂に関わったといわれているが、田辺福麻呂を「左大臣橘家之使者」として家持のところに遣わした目的の一つとして、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)の中で、「田辺福麻呂がもたらした京の情報には、時の政治情勢も含まれたにちがいない。とりわけ左大臣橘諸兄の政治的擁護者である元正太上天皇の病状や藤原氏の動向は、家持にとっても大きな関心事にほかならなかった。福麻呂は越中を離れる際の宴で『太上皇御在於難波宮之時歌』(太上皇難波宮に御在しし時の歌)として、元正太上天皇左大臣橘諸兄・河内女王(かわちのおおきみ)・粟田(あわた)女王らの歌を伝誦している。(中略)ここでは家持が心を寄せる宮廷びと、とくに元正太上天皇橘諸兄らの伝誦歌が記録され家持に伝わったことに注意すべきであろう。それは左大臣の指示によるものであって、宮廷びとの詠歌に深い関心を抱き、天平一九年(七四七)までに一三〇首もの歌を詠んでいた家持への格別の贈り物にほかならなかった。この点は、橘諸兄が家持にみずから特使を送った目的を考える上で興味深いものがある。」と書いておられる。

 

 田辺福麻呂が伝誦した歌についてみてみよう。四〇五六から四〇六二歌の歌群の左注には「伝承する人は、田辺史福麻呂ぞ」とある。

 

総題詞は、「太上皇御在於難波宮之時歌七首 清足姫天皇也」 <太上皇(おほきすめらみこと)、難波(なには)の宮に御在(いま)す時の歌七首 清足姫天皇(きよたらしひめのすめらみこと)なり>である

(注)太上皇元正天皇

 

題詞は、「左大臣橘宿祢歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)が歌一首>である。

 

◆保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆

                 (橘諸兄 巻十八 四〇五六)

 

≪書き下し≫堀江(ほりえ)には玉敷かましを大君(おほきみ)を御船(みふね)漕(こ)がむとかねて知りせば

 

(訳)堀江には玉を敷き詰めておくのでしたのに。我が大君、大君がここで御船を召してお遊びになると、前もって存じ上げていたなら。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)堀江:難波の堀江。今の天満橋あたりの大川。

 

◆多萬之賀受 伎美我久伊弖伊布 保里江尓波 多麻之伎美弖ゝ 都藝弖可欲波牟 <或云 多麻古伎之伎弖>

                (元正天皇 巻十八 四〇五七)

 

≪書き下し≫玉敷かず君が悔(く)いて言ふ堀江には玉敷き満(み)てて継ぎて通(かよ)はむ  <或いは「玉扱き敷きて」といふ>

 

(訳)玉を敷かないで、そのことをあなたが悔やんで言うこの堀江には、私が玉を一面に敷き詰めてあげて、これからの何度でも通ってきましょう。<私がこの玉を散らかして敷いてあげて>(同上)

 

左注は、「右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏幷御製」<右の二首の件(くだり)の歌は、御船(おほみふね)江(かわ)を泝(さかのぼ)り遊宴する日に、左大臣が奏、幷(あは)せて御製>である。

(注)奏:天皇に奏上した歌

 

題詞は、「御製歌一首」である。

(注)元正上皇御製の意

 

◆多知婆奈能 登乎能多知婆奈 夜都代尓母 安礼波和須礼自 許乃多知婆奈乎

               (元正上皇 巻十八 四〇五八)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)のとをの橘八(や)つ代(よ)にも我(あ)れは忘れじこの橘を

 

(訳)橘の中でもとくに枝も撓(たわ)むばかりに実をつけた橘、この橘をいつの世までも私は忘れはすまい。この見事な橘のことを。(同上)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

題詞は、「河内女王歌一首」<河内女王(かふちのおほきみ)が歌一首>である。

 

◆多知婆奈能 之多泥流尓波尓 等能多弖天 佐可弥豆伎伊麻須 和我於保伎美可母

               (河内女王 巻十八 四〇五九)

 

≪書き下し≫橘の下照(したで)る庭に殿(との)建てて酒(さか)みづきいます我が大君かも

 

(訳)橘の実が木蔭に赤々と照り映えるこの庭に、御殿を建ててご機嫌うるわしく宴に興じていらっしゃる、我が大君ですこと。(同上)

(注)殿:諸兄邸の肆宴の屋敷をこう言ったもの。

(注)さかみづく【酒水漬く】自動詞:酒にひたる。酒宴をする。(学研)

 

 

題詞は、「粟田女王歌一首」<粟田女王(あはたのおほきみ)が歌一首>である。

 

◆都奇麻知弖 伊敝尓波由可牟 和我佐世流 安加良多知婆奈 可氣尓見要都追

               (粟田女王 巻十八 四〇六〇)

 

≪書き下し≫月待ちて家には行(ゆ)かむ我が挿(さ)せる赤ら橘影に見えつつ

 

(訳)月の出を待ってから、家には帰ることに致しましょう。私どもが挿頭(かざし)にしている赤々と色づいた橘の実、この実を月の光に照らし出しながら。(同上)

 

左注は、「右件歌者在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌幷奏歌也」<右の件(くだり)の歌は、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)が宅(いへ)に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)したまふ時の御歌、幷(あは)せ奏歌>である。

(注)肆宴(とよのあかり):天皇の催す宴をいう

 

 

◆保里江欲里 水乎妣吉之都追 美布祢左須 之津乎能登母波 加波能瀬麻宇勢

              (田辺福麻呂 巻十八 四〇六一)

 

≪書き下し≫堀江より水脈引(みをび)きしつつ御船(みふね)さす賤男(しつを)のともは川の瀬(せ)申(まう)せ

 

(訳)堀江を通って、水脈をあとに引きながら御船の棹(さお)を操っている下々の者どもは、川の瀬によく注意してお仕え申せよ。(同上)

(注)みをびく【水脈引く・澪引く】自動詞:水先案内に従って船が進む。(学研)

(注)しづを【賤男】名詞:身分の低い男。「しづのを」とも。(学研)

 

 

◆奈都乃欲波 美知多豆多都之 布祢尓能里 可波乃瀬其等尓 佐乎左指能保礼

               (田辺福麻呂 巻十八 四〇六二)

 

≪書き下し≫夏の夜(よ)は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹(さを)さし上(のぼ)れ

 

(訳)夏の夜は、川辺の道は心もとない。引き船をやめて船に乗り、流れの早い浅瀬に来るたびに棹をさして泝るがよい。(同上)

(注)たづたづし形容詞:「たどたどし」に同じ。

(注の注)たどたどし形容詞:①心もとない。おぼつかない。はっきりしない。②あぶなっかしい。たどたどしい。(学研)

(注)船に乗る:引船をやめて船にじかに乗る。

 

左注は、「右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也 傳誦之人田邊史福麻呂是也」<右の件の歌は、御船(おほみふね)綱手(つなて)をもちて江(かは)を泝(さかのぼ)り、遊宴する日に作る  伝誦(でんしよう)する人は田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)ぞ>である。

 

 田辺福麻呂造酒司に帰属しつつ左大臣橘諸兄の要請で橘家の家事を兼任したことについて、藤井一二氏は、前出の著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」のなかで、「橘諸兄田辺福麻呂歌人としての卓越した資質を評価したからであろう。この人事には橘諸兄の歌集編纂に対する熱い思いが込められていた(後略)」と書かれている。

 

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東山動植物園星が丘門

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その979,980,981)―一宮市萩原町 高松分園(51,52,53)―万葉集 巻十 二一〇七、二一九一、巻三 二六六

―その979―

●歌は、「ことさらに衣は摺らじをみなへし佐紀野の萩ににほいて居らむ」である。

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一宮市萩原町 高松分園(51)万葉歌碑<作者未詳>


 

 

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(51)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆事更尓 衣者不揩 佳人部為 咲野之芽子尓 丹穂日而将居

              (作者未詳 巻十 二一〇七)

 

≪書き下し≫ことさらに衣(ころも)は摺(す)らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ

 

(訳)わざわざこの着物は摺染めにはすまい。一面に咲き誇るこの佐紀野の萩に染まっていよう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ことさらなり【殊更なり】形容動詞①意図的だ。②格別だ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)をみなへし 枕詞:「佐紀(現奈良市北西部・佐保川西岸の地名)」にかかる枕詞。(weblio辞書 Wiktionary)

(注)佐紀野:平城京北部の野

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その948)」で紹介している。

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―その980―

●歌は、「雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(52)万葉歌碑<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(52)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曽 色付尓家里

                (作者未詳 巻十 二一九一)

 

≪書き下し≫雁(かり)が音(ね)を聞きつるなへに高松(たかまつ)の野(の)の上(うへ)の草ぞ色づきにける

 

(訳)雁の声を聞いた折しも、高松の野辺一帯の草は色づいてきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)なへに 分類連語:「なへ」に同じ。 ※上代語。 ⇒なりたち接続助詞「なへ」+格助詞「に」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)なへ 接続助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。(学研)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その946)」で紹介している。

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―その981―

●歌は、「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(53)万葉歌碑<柿本人麻呂

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(53)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念

                (柿本人麻呂    巻三 二六六)

 

≪書き下し≫近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

 

(訳)近江の海、この海の夕波千鳥よ、お前がそんなに鳴くと、心も撓(たわ)み萎(な)えて、いにしえのことが偲ばれてならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふなみちどり【夕波千鳥】名詞:夕方に打ち寄せる波の上を群れ飛ぶちどり。

(注)しのに 副詞:①しっとりとなびいて。しおれて。②しんみりと。しみじみと。③しげく。しきりに。

(注)いにしへ:ここでは、天智天皇の近江京の昔のこと

 

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その949)」で紹介している。

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 「高松」を詠んだ歌は、巻十に収録されており、巻十他、巻七、巻十一~十四は、「作者未詳歌巻」であることならびに「作者未詳」について前回のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その976,077,978)」でふれた。

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 作者未詳巻の巻頭歌をみてみよう。

 

【巻七巻頭歌】部立は「雑歌」、題詞は「詠天」である。

 

◆天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見

              (作者未詳 巻七 一〇六八)

 

≪書き下し≫天(あめ)の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕(こ)ぎ隠(かく)る見(み)ゆ

 

(訳)天空の海に白雲の波が立って、月の舟が、星の林の中に、今しも漕ぎ隠れて行く。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首柿本朝臣人麻呂歌集出」である。

 

 巻七は、雑歌・譬喩歌・挽歌の部立構成になっており、作者、作歌事情、作歌年代はほとんど記されていない。

 

 

 

【巻十巻頭歌】部立は「春雑歌」である。

 

◆久方之 天芳山 此夕 霞霏▼ 春立下

              (作者未詳 巻十 一八一二)

 ▼は、「あめかんむり」に「微」である。 →「霏▼」=「たなびく」

 

≪書き下し≫ひさかたの天(あめ)の香具山(かぐやま)この夕(ゆうへ)霞(かすみ)たなびく春立つらしも

 

(訳)ひさかたの天の香具山に、この夕べ、霞がたなびいている。まさしく春になったらしい。(同上)

 

一八一二~一八一八歌の左注は、「右柿本朝臣人麻呂歌集出」である。

 

 巻十は、人麻呂歌集ならびに古歌集と出典未詳歌が中心で、雑貨・相聞を四季に分けている。

 

 

【巻十一巻頭歌】題詞は「旋頭歌」である。

 

◆新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公随

              (作者未詳 巻十一 二三五一)

 

≪書き下し≫新室(にひむろ)の壁(かべ)草刈(くさか)りにいましたまはね 草のごと寄り合う娘子(をとめ)は君がまにまに

 

(訳)今新しく建てている家の壁草を刈りにいらっしゃいな、その草の靡(なび)くようにここに寄り集まる娘子(おとめ)たちは、あなたの思(おぼ)し召しのまま。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

二三五一から二三六二歌の左注は、「右十二首柿本朝臣人麻呂之歌集出」である。

 

 巻十一は、人麻呂歌集・古歌集ならびに出典未詳歌の恋歌からなる。目録によれば、「古今相聞往来歌類の上」となっている。

 

 

【巻十二巻頭歌】部立は、「正述心緒」である。

 

◆我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨

              (作者未詳 巻十二 二八四一)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)が朝明(あさけ)の姿(すがた)よく見ずて今日(けふ)の間(あひだ)を恋ひ暮らすかも

 

(訳)あの方が明け方帰って行かれる姿、っその姿をはっきりと見とどけることができなくて、今日一日中、恋しさにうち沈んでいる。(同上)

 

二八四一から二八六三歌の左注は、「右廿三首柿本朝臣人麻呂之歌集出」である。

 

巻十二は、目録によれば「古今相聞往来歌類の下」となっており、巻十一と姉妹巻になっている。

 

 

【巻十三巻頭歌】部立は、「雑歌」である。

 

◆冬木成 春去来者 朝尓波 白露置 夕尓波 霞多奈妣久 汗瑞能振樹奴礼我之多尓 鸎鳴母

               (作者未詳 巻十三 三二二一)

 

≪書き下し≫冬木も茂る春がやって来ると、朝方には白露が置き、夕方には霞がたなびく。そして、嵐の吹く山の梢(こずえ)の下では、鴬(うぐいす)がしきりに鳴き立てている。(同上)

 

 巻十三は、万葉集唯一の長歌集。

 

 

【巻十四巻頭歌】「東歌」

 

◆奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等<杼>米牟 佐欲布氣尓家里

               (作者未詳 巻十四 三三四八)

 

≪書き下し≫夏麻(なつそ)引(び)く海上潟(うなかみがた)の沖つ洲(す)に舟は留(とど)めむさ夜更(よふ)けにけり

 

(訳)夏麻(なつそ)を引き抜く畝(うね)というではないが、海上潟(うなかみがた)の沖の砂州(さす)に、この舟はもう泊めることにしよう。夜もとっぷり更けてきた。(同上)

 

左注は、「右一首上総國歌」である。

 

 巻十四の総題は「東歌」である。

 

 これで、萩原町万葉公園ならびに同高松分園の歌碑の紹介は終わりである。

 次は、東山動植物園の歌碑めぐりである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 Wiktionary

万葉歌碑を訪ねて(その976,977,978)―一宮市萩原町 高松分園(48,49,50)―万葉集 巻十 二一〇一、二三一九、一八七四

 樫の木文化資料館の前の道路の車避けのような石柱の上に、歌のレリーフが埋め込められた形の歌碑が六基並んで建てられている。

 六基というから、高松を詠んだ歌六首と思ったらそうではない。高松論争の対象歌二首を外して、それ以外かと考えたがそれでもない。分園であるから、離れたところにある萬葉公園の歌を選んだわけでもない。

 何はともあれ六基の歌碑があるのが現実の姿である。

 

―その976―

●歌は、「我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(48)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(48)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾衣 揩有者不在 高松之 野邊行之者 芽子之揩類曽

              (作者未詳 巻十 二一〇一)

 

≪書き下し≫我(あ)が衣(ころも)摺(す)れるにはあらず高松(たかまつ)の野辺(のへ)行きしかば萩の摺れるぞ

 

(訳)私の衣は、摺染(すりぞ)めしたのではありません。高松の野辺を行ったところ、あたり一面に咲く萩が摺ってくれたのです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)摺染(読み)すりぞめ:〘名〙: 染色法の一つ。草木の花、または葉をそのまま布面に摺りつけて、自然のままの文様を染めること。また花や葉の汁で模様を摺りつけて染める方法もある。この方法で染めたものを摺衣(すりごろも)という。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版 )

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

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―その977―

●歌は、「夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(49)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(49)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曽零有

              (作者未詳 巻十 二三一九)

 

≪書き下し≫夕されば衣手(ころもで)寒し高松(たかまつ)の山の木ごとに雪ぞ降りたる

 

(訳)夕方になるにつれて、袖口のあたりがそぞろに寒い。見ると、高松の山の木という木に雪が降り積もっている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)高松:「高円」に同じ

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その968)」で紹介している。

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―その978―

●歌は、「春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(50)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(50)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓

               (作者未詳 巻十 一八七四)

 

≪書き下し≫春霞(はるかすみ)たなびく今日(けふ)の夕月夜(ゆふづくよ)清(きよ)く照るらむ高松(たかまつ)の野に

 

(訳)春霞がたなびく中で淡く照っている今宵(こよい)の月、この月は、さぞかし清らかに照らしていることであろう。霞の彼方の、あの高松の野のあたりでは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その960)」で紹介している。

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「高松」を詠った歌が収録されている巻十は、すべて「作者未詳歌」である。

 作者未詳歌は万葉集全体の約半数弱に上るという。万葉集巻七、十~十四の六巻が作者未詳歌巻である。この六巻分だけで1807首が作者未詳歌である。

 

 なぜこれほどまでに作者未詳歌が多いかについては、遠藤 宏稿「東歌・防人歌・作者未詳歌―万葉和歌史」(別冊國文學 万葉集必携<學燈社>)に次のような記述があるので引用させていただく。

 

 「『日本古典文学大系万葉集三』に説くところによってかなり解明することができる。即ち、(中略)巻七、巻十~十二は、奈良朝(天平期)の人々が作歌の参考のために作ったもの、またはその手控えをもとにしたものであり、それゆえ、作者名や作歌事情は不要であって逆に部立・分類が重視される。そして、歌の質がある程度平均的なのもそのゆえであると。」し、「主として編纂の在り様から追っていった作者未詳歌の意味なのである」さらに、「贈答・宴席あるいは旅中など、時と場合に応じた歌が求められ、作者未詳歌巻はそのための資料として有効であった。それゆえ、作者未詳歌巻の歌は型にはまったものが集められ、質的にも平均的なものとならざるをえないのである。」

 

 「人々が作歌の参考のために」万葉集が編纂されたとの見方になっているが、万葉集が、「口誦から記載」の流れの中で生み出されたことを考えると、歌を作る意識の変遷をみておく必要があると思う。

 

 上野 誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)のなかで、「歌というものは、歌い継ぐもので、本来、文字を必要としない。」歌い手と聞き手しかいないからである。「歌を書き記すことが一般化すると、『いつ』『どこで』(中略)『誰か』ということが問題となってくる(作者が顕在化する)。」「作者と作品」というとらえ方は文字社会の発想である。「古い歌や、古い物語に作者が伝わらないのは、作者がいないのではなくして、そういう考え方が存在しなかった、ないしは、定着していなかったからである。」と、書かれている。

 類歌や「巻一 七歌」の題詞「額田王歌 未詳」や「同 一〇から一二歌」の左注の「右撿山上憶良大夫類聚歌林日 天皇御製歌云々」などについても。書き記す必要性から生じた問題であると考えると理解できるのである。

 

 さらに、「歌を漢字で書き留めるようになると、作者が生まれる(中略)すると、歌を作る側にも、変化が起き始める。そして、当然、歌の表現も変化する。なぜならば、自分の歌が書き留められ、その歌の作者としての名前が書き留められることを意識するようになるからである。こうなってくると、ほかにはない新しい表現を求めて独自に工夫するようになるし、今の自分の心情を歌に盛り込もうとするようにもなる。つまり、歌が個人の心情を表現する道具になってゆくのである。これは、歌にも大きな変化をもたらすことになる。」と書かれている。

 

 作者未詳歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その52改)」で触れている。(初期ブログのため、タイトル写真に朝食が写っているが、改訂し本文では削除しております、ご容赦下さい。)

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 万葉集が、作者未詳歌を約半数収録していることが、口誦から記載への歴史的資料そのもと位置づけられる。万葉集編纂のエネルギーを感じながら万葉集と接していくことが求められる。

 脱帽の毎日である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫) 

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その975)―一宮市萩原町 高松分園(47)―万葉集 巻十 二二三三 

●歌は、「高松のこの嶺も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ」である。

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一宮市萩原町 高松分園(47)万葉歌碑<作者未詳>


 

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(47)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「詠芳」<芳(か)を詠(よ)む>である。

 

◆高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者

               (作者未詳 巻十 二二三三)

 

≪書き下し≫高松(たかまつ)のこの嶺(みね)も狭(せ)に笠(かさ)立てて満(み)ち盛(さか)りたる秋の香(か)のよさ

 

(訳)高松のこの峰も狭しと傘を突き立てて、満ち溢(あふ)れている秋のかおりの、なんとかぐわしいことか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)秋の香:松茸の香りか

 

 マツタケは今では、超貴重品であるが、昭和の初期でも、アカマツ林では秋になると全山、マツタケの香りが漂い、簡単に段ボール一杯すぐに採れたという話を聞いたことがある。

この歌そのものの様相である。

 

 

樫の木文化資料館、白山社をめぐり、花しょうぶ苑をほぼ廻り終えた時に、歌碑と歌碑の説明案内板が設置してあるのを見つけた。

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「『高松論争』になった萬葉歌」説明案内板

 案内板の説明を読んで驚いた。説明文には次のように書かれていた。

 

「高松論争」になった萬葉歌

一九五五(昭和三十)年、詩人の佐藤一秀(一八九九~一九七九)は、「高松を詠んだ萬葉歌六首(巻十)は、わが故郷の『萩の原』の風情を詠んだ歌である。ぜひ萩の群落を保護し、公園にしてほしいと」、一宮市に要望した。

市は、現地調査を踏まえ、「萬葉公園設立」の計画を発表したところ、萬葉学者から、「六首のうちの二首は、当地の地形から見て、歌との結びつきは極めて薄い」と指摘され、計画は中断し、歌の解釈をめぐって論争が始まった。マスコミにも取り上げられ、大きな話題を呼び、世に言う「高松論争」が繰り広げられた。

 市は「萬葉歌六首の地と明記せず、文化事業として萩を保護し、萬葉の古を偲ぶ市民の憩いの庭を造り、論争の成果を後日に期する」(設立趣旨書)として一九五七(昭和三十二)年春、「一宮萬葉公園」を開園することにした。

論争となった二首は、高松の白山神社境内(昭和四十五年)と高松公民館(昭和四十六年)に歌碑が建立されたが、「高松論争」は、時と共に忘れ去られ今日に至っている。

このたび、公民館の改築を機会に歌碑を「萬葉公園高松分園」に移転し、「高松論争」を後世に語り継ぐと共に、先人たちの萬葉歌に寄せる熱い思いと、萬葉人の自然を愛する豊かな心情を感じていただけたら幸甚である。

二〇一八(平成三十)年六月吉日 寄贈 一宮中ライオンズクラブ

 

 

 現地でないと知りえないことであり、公園の設立に当たった当時の関係者の熱い思いがひしひしと伝わって来た。

 

 万葉歌碑めぐりを計画する時は、先達たちのブログや関係資料をネット検索し、時にはグーグルアースも使って事前に歌碑を見つけておくなどしている。

 今回もそれなりの計画をたて、巡る順番なども決めていた。白山社や樫の木文化資料館が公園と隣接しているのも現地に足を踏み入れて驚いたことであった。

さらに、高松公民館にあるこの二二三三歌の歌碑は、検索するも見つからず諦めていたのである。それが、目の前にある。そしてその経緯が分かり、熱い思いの背景も知りえたのである。

 

「高松論争」になった萬葉歌の説明案内板に「高松を詠んだ歌四首」と「論争になった歌二首」が記されている。

これまでのブログでそれぞれ解説してきたが、改めて六首をみてみよう。

 

【高松を詠んだ歌四首】

◆春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓

               (作者未詳 巻十 一八七四)

 

≪書き下し≫春霞(はるかすみ)たなびく今日(けふ)の夕月夜(ゆふづくよ)清(きよ)く照るらむ高松(たかまつ)の野に

 

(訳)春霞がたなびく中で淡く照っている今宵(こよい)の月、この月は、さぞかし清らかに照らしていることであろう。霞の彼方の、あの高松の野のあたりでは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その960)で紹介している。

 ➡ 

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◆吾衣 揩有者不在 高松之 野邊行之者 芽子之揩類曽

              (作者未詳 巻十 二一〇一)

 

≪書き下し≫我(あ)が衣(ころも)摺(す)れるにはあらず高松(たかまつ)の野辺(のへ)行きしかば萩の摺れるぞ

 

(訳)私の衣は、摺染(すりぞ)めしたのではありません。高松の野辺を行ったところ、あたり一面に咲く萩が摺ってくれたのです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

 ➡ 

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◆鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曽 色付尓家里

(作者未詳 巻十 二一九一)

 

≪書き下し≫雁(かり)が音(ね)を聞きつるなへに高松(たかまつ)の野(の)の上(うへ)の草ぞ色づきにける

 

(訳)雁の声を聞いた折しも、高松の野辺一帯の草は色づいてきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(946)」で紹介している。

 ➡ 

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◆里異 霜者置良之 高松 野山司之 色付見者

               (作者未詳 巻十 二二〇三)

 

≪書き下し≫里ゆ異(け)に霜は置くらし高松(たかまつ)の野山(のやま)づかさの色づく見れば

 

(訳)あそこには人里とは違って霜は格別ひどく置くらしい。高松の野山の高みが色づいているのをいると。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(969)」で紹介している。

 ➡ 

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【論争になった歌二首】

◆高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者

               (作者未詳 巻十 二二三三)

 

≪書き下し≫高松(たかまつ)のこの嶺(みね)も狭(せ)に笠(かさ)立てて満(み)ち盛(さか)りたる秋の香(か)のよさ

 

(訳)高松のこの峰も狭しと傘を突き立てて、満ち溢(あふ)れている秋のかおりの、なんとかぐわしいことか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

➡ 上述 

 

◆暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曽零有

              (作者未詳 巻十 二三一九)

 

≪書き下し≫夕されば衣手(ころもで)寒し高松(たかまつ)の山の木ごとに雪ぞ降りたる

 

(訳)夕方になるにつれて、袖口のあたりがそぞろに寒い。見ると、高松の山の木という木に雪が降り積もっている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(968)」で紹介している。

 ➡ 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「『高松論争』になった萬葉歌」 (一宮中ライオンズクラブ

 

万葉歌碑を訪ねて(その974)―一宮市萩原町 高松分園(46)―万葉集 巻八 一五四一

●歌は、「我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(46)万葉歌碑(プレート)<大伴旅人

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 高松分園(46)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大宰帥大伴卿歌二首」<大宰帥大伴卿が歌二首>である。

 

◆吾岳尓 棹壮鹿来鳴 先芽之 花嬬問尓 来鳴棹壮鹿

               (大伴旅人 巻八 一五四一)

 

≪書き下し≫我が岡にさを鹿(しか)来鳴く初萩(はつはぎ)の花妻(はなつま)どひに来鳴くさを鹿

 

(訳)この庭の岡に、雄鹿が来て鳴いている。萩の初花を妻どうために来て鳴いているのだな、雄鹿は。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)さをしか【小牡鹿】名詞:雄の鹿(しか)。 ※「さ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)はなづま【花妻】名詞:①花のように美しい妻。一説に、結婚前の男女が一定期間会えないことから、触れられない妻。②花のこと。親しみをこめて擬人化している。③萩(はぎ)の花。鹿(しか)が萩にすり寄ることから、鹿の妻に見立てていう語(学研)ここでは、③の意

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その924)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

大伴旅人の歌については、六十三歳の頃、大宰帥に任命されて以降がそのほとんどを占めている。それ以前の歌としては、万葉集にはわずか二首が収録されているだけである。

 

 この二首をみてみよう。

 

題詞は、「暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首幷短歌 未逕奏上歌」<暮春の月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首幷(あは)せて短歌 いまだ奏上を経ぬ歌>である。

 

◆見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 水可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之宮

                              (大伴旅人 巻三 三一五)

 

≪書き下し≫み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴(たふと)くあらし 水(かは)からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 改(かは)らずあらむ 幸(いでま)しの宮

 

(訳)み吉野、この吉野の宮は山の品格ゆえに尊いのである。川の品格ゆえに清らかなのである。天地とともに長く久しく、万代にかけて改(あら)たまることはないであろう。我が大君の行幸(いでまし)の宮は。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)吉野では、「山」と「水」をほめるのが人麻呂以来の伝統。

(注)-から【柄】接尾語:名詞に付いて、そのものの本来持っている性質の意を表す。「国から」「山から」 ⇒参考 後に「がら」とも。現在でも「家柄」「続柄(つづきがら)」「身柄」「時節柄」「場所柄」などと用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)し 副助詞 《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。:〔強意〕 ⇒参考 「係助詞」「間投助詞」とする説もある。中古以降は、「しも」「しぞ」「しか」「しこそ」など係助詞を伴った形で用いられることが多くなり、現代では「ただし」「必ずしも」「果てしない」など、慣用化した語の中で用いられる。(学研)

(注)天地と 長く久しく:「天地長久」の翻読語

 

反歌もみてみよう。

 

◆昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨

                (大伴旅人 巻三 三一六)

 

≪書き下し≫昔見し象(さき)の小川(をがは)を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

 

(訳)昔見た象(さき)の小川を今再び見ると、流れはいよいよますますさわやかになっている。(同上)

(注)昔見し:天武・持統朝の昔

(注)象(さき)の小川:喜佐谷を流れて宮滝で吉野川にそそぐ川

 

 大伴旅人は、大和歌ではなく、漢詩漢文学に精通していた。大和歌については、彼の周りには、師とあおぐ柿本人麻呂山部赤人のような歌人がいなかった。

 漢詩漢文学と大和歌の組み合わせという新しい歌の在り方への挑戦がこの吉野行幸歌にあったともいわれている。題詞にあるように「勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首幷(あは)せて短歌」であり、残念ながら「いまだ奏上を経ぬ歌」となってしまったが、これまでのような、人麻呂や赤人といった宮廷歌人行幸従駕し作るといった流れから中央歌壇においても変化がみられる時代になってきていたのである。

 政治的な流れから旅人は大宰帥に任官されたのであるが、漢文と大和歌の組み合わせた巻五の巻頭歌「報凶聞歌」(七九三歌)に答えた山上憶良の「日本挽歌」(七九四歌)によって両者の接近が強固になり都の歌壇を凌ぐ筑紫歌壇の基盤ともなっていったのである。

 大宰府時代に、旅人の「歌人」としての地位を確固たるものにした流れについて、原田貞義氏は、「大伴旅人―人と作品」(中西 進 編 祥伝社)のなかで、「歌が詠出されるには、それを待ち受ける時と場、取り分け良い耳翼(じよく)を持つ聞き手であると同時に、速やかな応唱者にもありうる受け手がいなければならなかった」と分析されている。

 

 万葉集の読み方、見方について、またひとつ教えられたように思う。これはあらたな課題であり、万葉集がまたふたたび遠い存在になっていったのである。しかし遠く離れても、あきらめず一歩一歩近づくべく挑戦していきたい。

 

 

 旅人の「象の小川」を懐かしむ次の歌も、単に景色だけでなく、筑紫歌壇で花開いた原点を懐かしんでいるとみると見方が変わってくる。

 

◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

               (大伴旅人 巻三 三三二)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むため

 

(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(同上)

 

 この三三二歌ならびに「象の小川」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その776)」で紹介している・

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」