万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1521,1522,1523)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P10、P11、P12)―万葉集 巻八 一四八五、巻一 一六六、巻十三 三三一四

―その1521―

●歌は、「夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らばうつろひなむか」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P10)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P10)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆夏儲而 開有波祢受 久方乃 雨打零者 将移香

      (大伴家持 巻八  一四八五)

 

≪書き下し≫夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らばうつろひなむか

 

(訳)夏を待ち受けてやっと咲いたはねず、そのはねずの花は、雨でも降ったら色が褪(あ)せてしまうのではなかろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)まく【設く】他動詞:①前もって用意する。準備する。②前もって考えておく。③時期を待ち受ける。(その季節や時が)至る。 ※上代語。中古以後は「まうく」。ここでは、③の意(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)はねず【唐棣花/棠棣/朱華】:① 初夏に赤い花をつける植物の名。ニワウメ・ニワザクラなど諸説がある。②「唐棣花 (はねず) 色」の略。

(注)ひさかたの【久方の】分類枕詞:天空に関係のある「天(あま)・(あめ)」「雨」「空」「月」「日」「昼」「雲」「光」などに、また、「都」にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)うつろふ【移ろふ】自動詞:①移動する。移り住む。②(色が)あせる。さめる。なくなる。③色づく。紅葉する。④(葉・花などが)散る。⑤心変わりする。心移りする。⑥顔色が変わる。青ざめる。⑦変わってゆく。変わり果てる。衰える。 ※「移る」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」からなる「移らふ」が変化した語。(学研)ここでは②の意

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その571)」で紹介している。

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 「はねず」については、ニワウメ・ニワザクラなど諸説がある。

 (注)【庭梅】:バラ科の落葉低木。葉は卵形で縁にぎざぎざがある。春、新葉とともに白色または淡紅色の花をつけ、赤い実を結ぶ。実は食べられる。中国の原産。庭木や鉢植えにする。郁李(いくり)。こうめ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

「ニワウメ」 (広瀬雅敏氏撮影 weblio辞書 デジタル大辞泉より引用させていただきました。)

(注)ニワザクラ:中国北部及び中部を原産とするバラ科の落葉樹で、ニワウメの変種とされる。背丈が大きくならず、狭い庭でも育てることができるためニワザクラと呼ばれるが、ソメイヨシノなどのサクラよりも、ユスラウメやニワウメに近い雰囲気を持つ低木の一つ。

(庭木図鑑 植木ペディア)

「ニワザクラ」 (庭木図鑑 植木ペディアより引用させていただきました。)

 「はねず」を詠んだ歌四首ならびに「随心院のはねず踊り」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1168)」で紹介している。

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―その1522―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P11)万葉歌碑<プレート>(大伯皇女)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 この歌の「歌碑」は万葉の森公園にあり、直近のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1511)」で紹介している。

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―その1523―

●歌は、「つぎねふ山背道を人夫の馬より行くに己夫し徒歩より行けば見るごとに音のみし泣かゆ・・・」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P12)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆次嶺経 山背道乎 人都末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 毎見 哭耳之所泣 曽許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背

       (作者未詳 巻十三 三三一四)

 

≪書き下し≫つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 人夫(ひとづま)の 馬より行くに 己夫(おのづま)し 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ そこ思(おも)ふに 心し痛し たらちねの 母が形見(かたみ)と 我(わ)が持てる まそみ鏡に 蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ) 負(お)ひ並(な)め持ちて 馬買(か)へ我(わ)が背

 

(訳)つぎねふ山背道 山背へ行くその道を、よその夫は馬でさっさと行くのに、私の夫はとぼとぼと足で行くので、そのさまを見るたびに泣けてくる。そのことを思うと心が痛む。母さんの形見として私がたいせつにしている、まそ鏡に蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ)、これを品々に添えて負い持って行き、馬を買って下さい。あなた。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)つぎねふ 分類枕詞:地名「山城(やましろ)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)より 格助詞《接続》体言や体言に準ずる語に付く。①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段・方法〕…で。④〔比較の基準〕…より。⑤〔範囲を限定〕…以外。…より。▽多く下に「ほか」「のち」などを伴って。⑥〔原因・理由〕…ために。…ので。…(に)よって。⑦〔即時〕…やいなや。…するとすぐに。

※参考(1)⑥⑦については、接続助詞とする説もある。(2)上代、「より」と類似の意味の格助詞に「よ」「ゆ」「ゆり」があったが、中古以降は用いられなくなり、「より」のみが残った。(学研) ここでは③の意。

(注)まそみかがみ 【真澄鏡】名詞:よく澄んで、くもりのない鏡。 ※「ますみのかがみ」の変化した語。中古以後の語で、古くは「まそかがみ」。(学研)

(注)蜻蛉(あきづ)領巾(ひれ):トンボの羽のように透き通った上等な領布上代の婦人の装身具。(学研)

 

 三三一四歌は夫を思いやる妻の健気な心が溢れており、万葉時代の物の価値を推し量る経済的な観点も織り込んだ味わい深い歌である。三三一四から三三一七歌は、問答歌である。これほどまでにお互いを思いやる夫婦愛の歌は、時空を超えて胸を打つものである。

 

三三一四から三三一七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その326)」で紹介している。

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「つぎね」は、「ヒトリシズカ」、「フタリシズカ」と言われている。「つぎねふ」は理由は未詳であるが、「山背」にかかる枕詞とされている。漢字では「次嶺経」となっている。万葉仮名は漢字で一字一音で書かれているが、表意的に「次の嶺を越えて」と読み取れるのは、書き手の遊び心かもしれない。

「つぎね」の花に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1154)」で紹介している。

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万葉集において、このような夫婦(夫婦に準じる)愛を詠った歌は「相聞歌」では勿論「挽歌」においても数多く見られる。

いろいろ検索した中で、猪名川万葉の会で、夫婦愛を猪名川の流れに例えた歌の歌碑を立てられたとの記事があった。

歌をみてみよう。

 

題詞は、「昔者有壮士 新成婚礼也 未經幾時忽為驛使被遣遠境 公事有限會期無日 於是娘子 感慟悽愴沈臥疾▼ 累年之後壮士還来覆命既了 乃詣相視而娘子之姿容疲羸甚異言語哽咽 于時壮士哀嘆流涙裁歌口号 其歌一首」<昔、壮士(をとこ)あり。 新(あらた)しく婚礼を成す。いまだ幾時(いくだ)も経(へ)ねば、たちまちに駅使(はまゆづかひ)となりて、遠き境に遣(つか)はさえぬ。公(おほやけ)の事は限りあり、会(あ)ふ期(ご)は日なし。ここに、娘子(をとめ)、 感慟(いたみ)し悽愴(かな)しびて、疾▼ (やまひ)に沈(しづ)み臥(ふ)しぬ。年(とし)累(かさ)ねての後(のち)に、壮士還り来(きた)り、覆命(ふくめい)することすでに了(をは)りぬ。すなはち、詣(いた)りて相視(あひみ)るに、娘子の姿容(かたち)、疲羸(ひるい)せることはなはだ異(け)にして、言語哽咽(かうえつ)す。時に、壮士、哀嘆(かな)しびて涙(なみた)を流し、歌を裁(つく)りて口号(くちずさ)ぶ。 その歌一首

     ▼「疹」の「彡」が「小」である。「疾▼」で「やまひ」

(注)はゆまづかひ【駅使ひ】名詞:「はゆま」を使って旅行する公用の使者。「はゆまつかひ」とも。

(注)はゆま【駅・駅馬】名詞:奈良時代、旅行者のために街道の駅に備えてあった馬。公用の場合は駅鈴をつけた。伝馬(てんま)。 ※「はやうま(早馬)」の変化した語。(学研)

(注の注)駅使いは、急用で遣わされるのが普通。ここは何かの事情で行く先で年を経たらしい。(伊藤脚注)

(注)限りあり:自由にならぬことがあり。(伊藤脚注)

(注)覆命:お上に報告すこと。(伊藤脚注)

(注)ひるい【疲羸】[名](スル):疲れてぐったりすること。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)哽咽 動詞 :感情が激して)涙にむせぶ,喉が詰まって声が出ない(白水社 中国語辞典)

 

 

◆如是耳尓 有家流物乎 猪名川之 奥乎深目而 吾念有来

(作者未詳 巻十六 三八〇四)

 

≪書き下し≫かくのみにありけるものを猪名川(ゐながは)の奥(おき)を深めて我(あ)が思へりける

 

(訳)こんなにもやつれ果てていたものを。ああ、私はそれとも知らず、猪名川(いながわ)の深い水底のように心の底深く若く美しいそなたのことを思いつづけていたのだった。(同上)

(注)かくのみに:「かく」はやつれた妻の姿をさす。(伊藤脚注)

(注)猪名川兵庫県東部を流れる川。ここは「奥」(心の奥底)の枕詞。(伊藤脚注)

 

 

題詞は、「娘子臥聞夫君之歌従枕擧頭應聲和歌一首」<娘子(をとめ)、臥(ふ)しつつ、夫君(つま)の歌を聞き、枕(まくら)より頭(かしら)を挙(あ)げ、声に応(こた)へて和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆烏玉之 黒髪所沾而 沫雪之 零也来座 幾許戀者

       (作者未詳 巻十六 三八〇五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの黒髪濡(ぬ)れて沫雪(あわゆき)の降るにや来(き)ますここだ恋ふれば

 

(訳)黒髪もしとどに濡れて、粉雪の降りしきる中をお帰り下さったのですか。私がこんなにもお慕い申していたので。(同上)

(注)沫雪(あわゆき)の降るにや:沫雪が降りしきるのに。相手の黒髪に積もる雪に白髪をほのめかし、男の旅の長さを皮肉ったものか。(伊藤脚注)

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研)

 

 

左注は、「今案 此歌其夫被使既經累載而當還時雪落之冬也 因斯娘子作此沫雪之句歟」<今案(かむが)ふるに、この歌は、その夫(つま)、使はさえて、すでに載(とし)を経累(へ)ぬ。しかして、還る時に当りて、雪降る冬なり。これによりて、娘子、この沫雪の句を作るか。(同上)

(注)左注は編者の注(伊藤脚注)

 

 この妻は、聡明で気丈な面も持ち合わせている。「沫雪(あわゆき)の降るにや来(き)ますここだ恋ふれば」と釘をさし、男が「仕事だからしかたがないだろう。」と言わせない。後々も主導権は妻が握り、力関係で微妙なバランスに立つ夫婦愛となるのであろう。

 三三一四歌のようなフラットな夫婦愛とは少し異なるように思える。

 猪名川町立ふるさと館芝生広場に歌碑が建っているそうである。機会をみて訪れてみたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「庭木図鑑 植木ペディア」

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

★「猪名川町HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1518,1519,1520)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P7、P8、P9)―万葉集 巻二 八九、巻十四 三五六八、巻十四 三五三七

―その1518―

●歌は、「居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P7)万葉歌碑<プレート>(古歌集)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P7)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆居明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文

       (古歌集 巻二 八九)

 

≪書き下し≫居(ゐ)明(あ)かして君をば待たむぬばたまの我(わ)が黒髪に霜は降るとも

 

(訳)このまま佇(たたず)みつづけて我が君のお出(いで)を待とう。この私の黒髪に霜は白々と降りつづけようとも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゐあかす【居明かす】他動詞:起きたまま夜を明かす。徹夜する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ぬばたまの【射干玉の・野干玉の】分類枕詞:①「ぬばたま」の実が黒いところから、「黒し」「黒髪」など黒いものにかかり、さらに、「黒」の連想から「髪」「夜(よ)・(よる)」などにかかる。②「夜」の連想から「月」「夢」にかかる。(学研)

 

 題詞は、「或本歌日」<或本の歌に日(い)はく>である。

 

 左注は、「右一首古歌集中出」<右の一首は、古歌集の中(うち)に出づ>である。

(注)古歌集とは、万葉集の編纂に供された資料を意味する。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1038)」で紹介している。

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 「ぬばたま」は、黒い玉の意でヒオウギの花が結実した黒い実をいう。

ヒオウギ」については、「weblio 辞書 植物図鑑」に、「わが国の本州から四国、九州それに台湾や中国に分布しています。日当たりのよい山地の草原に生え、高さは60~100センチになります。葉は剣状で、長さが30~50センチあります。8月から9月ごろ、上部で分枝して数個の花苞をつけ、橙色の花を咲かせます。花披の内外片は同じ大きさで、内側に赤い斑点があります。蒴果のなかには、真っ黒な種子があり、これが「烏玉(ぬばたま)」と呼ばれます。万葉集では「黒」や「夜」を導く枕詞として引用されました。・・・アヤメ科ヒオウギ属の常緑多年草で、学名は Belamcanda chinensis。英名は Blackberry lily。」と書かれている。

ヒオウギ」は「weblio 辞書 植物図鑑」より、「ヒオウギの実」は「みんなの趣味の園芸NHK出版HP)」より、それぞれ引用させていただきました。

 

 

―その1519―

●歌は、「芝付の御宇良崎なるねつこ草相見ずあらずば我れ恋ひめやも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P8)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆芝付乃 御宇良佐伎奈流 根都古具佐 安比見受安良婆 安礼古非米夜母

        (作者未詳 巻十四 三五〇八)

 

≪書き下し≫芝付(しばつき)の御宇良崎(みうらさき)なるねつこ草(ぐさ)相見(あひみ)ずあらずば我(あ)れ恋ひめやも

 

(訳)芝付(しばつき)の御宇良崎(みうらさき)のねつこ草、あの一緒に寝た子とめぐり会いさえしなかったら、俺はこんなにも恋い焦がれることはなかったはずだ(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)。

(注)ねつこぐさ【ねつこ草】〘名〙: オキナグサ、また、シバクサとされるが未詳。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典精選版 )

(注の注)ねつこ草は女性の譬え。「寝つ子」を懸ける。

(注)あひみる【相見る・逢ひ見る】自動詞:①対面する。②契りを結ぶ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1146)」で紹介している。

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―その1520―

●歌は、「馬柵越しに麦食む駒の罵らゆれどなほし恋しく思ひかねつも」と

「くへ越しに麦食む小馬の初は津に相見し子らしあやに愛しも」の二首である。

 

●歌をみていこう。

 

◆柜楉越尓 麦咋駒乃 雖詈 猶戀久 思不勝焉

      (作者未詳 巻十二 三〇九六)

 

≪書き下し≫馬柵(うませ)越(ご)しに麦(むぎ)食(は)む駒(こま)の罵(の)らゆれどなほし恋しく思ひかねつも

 

(訳)馬柵越しに麦を食(は)む駒がどなり散らかされるように、どんなに罵られても、やはり恋しくて、思わずにいようとしても思わずにはいられない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「罵(の)らゆ」を起こす。

(注)おもひかぬ【思ひ兼ぬ】他動詞①(恋しい)思いに堪えきれない。②判断がつかない。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うませ【馬柵】:馬を囲っておく柵(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

●もう一首もみてみよう。

 

◆久敝胡之尓 武藝波武古宇馬能 波都ゝゝ尓 安比見之兒良之 安夜尓可奈思母

       (作者未詳 巻十四 三五三七)

 

≪書き下し≫くへ越(ご)しに麦(むぎ)食(は)む小馬(こうま)のはつはつに相見(あひ)し子らしあやに愛(かな)しも

 

(訳)柵越しに首を伸ばして麦を食む小馬のちらっとしか食べられないように、やっとのことちらっと逢えた子、あの子がむしょうにいとしくてならぬ。(同上)

(注)くへ【柵】名詞:木の柵(さく)。(学研)

(注)上二句は序。「はつはつに」を起こす。

(注)はつはつ(に)副詞:わずか(に)。かすか(に)。 ※形容動詞「はつかなり」の「はつ」を重ねた語。(学研)

 

 「麦」を詠った歌は万葉集では上の二首が収録されている。

 「麦」について、農林水産省HPに、「日本に伝わったのは、弥生時代のこと。大麦、大豆、小豆とともに、朝鮮半島からもたらされたとされています。静岡県静岡市の登呂遺跡や長崎県壱岐市原の辻遺跡など、日本各地から炭化した小麦種粒が出土しています。

麦を詠んだ歌が『万葉集』にあり、また平城宮跡から「小麦五斗」という文字が記された木簡が出土しているように、奈良時代には小麦、大麦が栽培されていたことが分かっています。」と書かれている。

 

 麦を詠んだ歌二首ならびに、三五三七歌の「或る本の歌」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1176)」で紹介している。

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■■■福井県万葉歌碑巡り■■■

 昨年11月に富山県小矢部市、石川県羽咋市福井県の万葉歌碑巡りを行なったのであるが、冬の北陸スコールに見舞われ、大幅な計画変更を余儀なくされた。

 行けなかった福井県のリベンジを計画した。越前市味真野の万葉ロマンの道の道標歌碑は半分ほどしか巡れてなかったので、今回はすべて見て周る計画のたてたのである。

 

■自宅⇒三方石観世音■

 5時前に家を出発し7時過ぎに到着。参道を歩くだけで荘厳な気持ちに包まれる。少し上った左手に大きな歌碑が。

 歌碑の下5m位のところに歌碑の説明案内板が雑草に埋もれていた。風化しておりほとんど読めなかった。

三方観音御霊場の碑

 

■三方観世音⇒三方五湖レインボーライン山頂公園第1駐車場下■

 レインボーライン(有料)の山頂公園を目指す。第1駐車場に登りきる手前左手に歌碑が建てられている。

 三方五湖を見わたせる絶景ポイントである。

歌碑と三方五湖の眺望

 11月の日本海は、荒れ狂い、茶色っぽい白波が濃い灰色の海に立ち冬の日本海の姿を見せていたが、今回は打って変わり、青空のした、白波一つたたない穏やかなブルーの海であった。

 

三方五湖レインボーライン山頂公園第1駐車場下⇒田結口交差点■

 ストリートビューで歌碑を確認していたので、8号線の中州のような所に建てられている歌碑を撮影。

田結口交差点万葉歌碑

田結口交差点



■田結口交差点⇒五幡神社■

 先達のブログには、神社参道が閉鎖されており中に入れなかったと書かれていた。ダメ元で行って見た。参道に軽トラックが止まっており、地元の人であろう右手の建屋の方に入って行かれたのが見えた。

 柵は開いていたので、参道左手の灯篭下の歌碑に巡り合うことができたのであった。有り難いことであった。

五幡神社

■五幡神社⇒万葉の里味真野苑■

 今回は、万葉ロマンの道の道標歌碑を全て撮影することが目的の一つである。

 巻十五 三七二三から三七八五歌までのチェックリストも作成し順に撮影していった。全長2.2kmを歩き撮影の都度屈伸運動である。

 もっとも車を使って、エリアごとにポイントに車を停め、エリア内の撮影をしては移動したのである。

 野々宮廃寺跡などは小丸城址に車を停めそこから歩いて撮影に臨んだ。「マムシに注意」の看板が建てられていた。

 万葉歌碑巡りでも「熊に注意」とか「マムシに注意」の看板に出くわす。用心用心である。

マムシに注意」の看板

 9番目の三七三一歌の道標歌碑が見当たらなかったので、万葉館に行って尋ねてみた。係りの方は、同行して探していただいた。道路わきに正方形の跡が残っていた。多分交通事故にあったのだろう。

歌碑のあった場所か?


 家に帰り調べてみると、前回この9番目の道標歌碑の写真を撮っていたのであった。良かった。

 

 

■万葉の里味真野苑⇒大虫小学校近くの小公園■

 ここは前回、先達のブログに従って「大虫小学校西側北200m」をキーワードに探したが見つけることがことが出来なかった。

 今回は、ストリートビューで丹念に探り突き止めることが出来たので無事に巡り逢えたのである。

 別の人のブログで「国道365号線を越前海岸に向かって走ると途中で看板が見えます。」とあった。新しい歌碑かと、ストリートビューで越前海岸まで写真の後ろの山の形を参考に2回ほど見てみたが見つけられなかった。

 歌碑の形をよーく見てみると、何と「大虫小学校西側北200m」の歌碑と同じであった。

大虫小学校西側北小公園万葉歌碑

 なにはともあれ、先月の広島に引き続き、万葉集巻十五の世界にどっぷりと浸ったのであった。

 歌碑の紹介は後日の予定です。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio 辞書 植物図鑑」

★「みんなの趣味の園芸」 (NHK出版HP)

★「農林水産省HP」

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

★「万葉ロマンの道(歌碑)散策マップ」

万葉歌碑を訪ねて(その1515,1516,1517)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P4、P5、P6)―万葉集 巻十 一八三〇、巻十九 四二七八、巻五 俗道假合の序

―その1515―

●歌は、「うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽打ち触れてうぐひす鳴くも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P4)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆打靡 春去来者 小竹之末丹 尾羽打觸而 鸎之音

      (作者未詳 巻十 一八三〇)

 

≪書き下し≫うち靡(なび)く春さり来(く)れば小竹(しの)の末(うれ)に尾羽(をは)打ち触(ふ)れてうぐひす鳴くも

 

(訳)草木の靡く春がやって来たので、篠(しの)の梢に尾羽(おばね)を打ち触れて、鶯がしきりにさえずっている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)うちなびく【打ち靡く】分類枕詞:なびくようすから、「草」「黒髪」にかかる。また、春になると草木の葉がもえ出て盛んに茂り、なびくことから、「春」にかかる。

(注)しの【篠】名詞:篠竹。群らがって生える細い竹。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)をは【尾羽】名詞:鳥の尾と羽。(学研)

 

「しの」には「小竹」「細竹」の字をあてている。文字通り、稈(茎)が細くて群がって生えている小形の竹類の総称で、ネザサ、メダケ、ヤダケなどがあてはまる。


この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1043)」で紹介している。

 ➡ 

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 この歌には、「尾羽打ち触れ」と鶯のしきりにさえずり尾羽を震えさせているかわいらしい光景が詠われているが、このような表現を用いた歌を探したが見つからなかった。

「尾羽(おは)うち枯からす」という意味は、「《鷹(たか)の尾羽が傷ついてみすぼらしくなるところから》落ちぶれて、みすぼらしい姿になる。尾羽うち枯れる。」(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)である。

 鶯のように華麗に尾羽を打ち触れてさえずっていたいものである。

 

 

 

―その1516―

●歌は、「あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P5)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「廿五日新甞會肆宴應詔歌六首」<二五日に、新嘗会(にひなへのまつり)の肆宴(とよのあかり)にして詔(みことのり)に応(こた)ふる歌六首>である。

(注)新嘗会>新嘗祭りに同じ。

(注の注)にひなめまつり【新嘗祭り】名詞:宮中の年中行事の一つ。陰暦十一月の中の卯(う)の日、天皇が新穀を皇祖はじめ諸神に供え、自らもそれを食べる儀式。即位後初めてのものは、大嘗祭(だいじようさい)または大嘗会(だいじようえ)と呼ぶ。新嘗祭(しんじようさい)。(学研)

 

◆足日木之 夜麻之多日影 可豆良家流 宇倍尓左良尓 梅乎之努波

      (大伴家持 巻十九 四二七八)

 

≪書き下し≫あしひきの山下(やました)ひかげかづらける上(うへ)にやさらに梅をしのはむ

 

(訳)山の下蔭の日蔭の縵、その日陰の縵を髪に飾って賀をつくした上に、さらに、梅を賞でようというのですか。その必要もないと思われるほどめでたいことですが、しかしそれもまた結構ですね。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ひかげ【日陰・日蔭】名詞:①日光の当たらない場所。世間から顧みられない境遇にたとえることもある。②「日陰の蔓(かづら)」の略。(学研)ここでは②の意

(注の注)ひかげは蔓性の常緑草木。これを縵にするのは新嘗会の礼装。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1235)」で紹介している。

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 「ひかげのかずら」について、「万葉植物物語」(広島大学附属福山中・高等学校/編著 中国新聞社)には、「今も生きている古代植物の代表種です。四億年前に陸上に現れたといわれています。古事記日本書紀にも出ており、古くから清浄なものとされてきました。現代でも、正月のめでたい料理の飾りにしたり、花輪や卓上の飾りとして使われます。長く緑色を保っているのも飾りに適しています。万葉集には三首詠まれています。」と書かれている。

 

 他の二首をみてみよう。

 

◆安之比奇能 夜麻可都良加氣 麻之波尓母 衣我多奇可氣乎 於吉夜可良佐武

       (作者未詳 巻十四 三五七三)

 

≪書き下し≫あしひきの山かづらかげましばにも得(え)がたきかげを置きや枯らさむ

 

(訳)あしひきの山の中に生えるひかげのかずら、そうめったに得られないかずらだもの、むざむざ捨て置いて枯らすようなことはしないぞ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)山かづら:ひかげのかずら。女の譬え。(伊藤脚注)

(注)ましばにも:打消に応じて、めったにの意を表す。マは接頭語。(伊藤脚注)

 

 

◆見麻久保里 於毛比之奈倍尓 賀都良賀氣 香具波之君乎 安比見都流賀母

       (大伴家持 巻十八 四一二〇)

 

≪書き下し≫見まく欲(ほ)り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相見(あひみ)つるかも

 

(訳)お逢いしたいものだと思っていたちょうどその折しも、縵(かずら)をつけた、お姿のすばらしいあなた様にお逢いすることができました。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)山かづら:ひかげのかずら。女の譬え。(伊藤脚注)

(注)ましばにも:打消に応じて、めったにの意を表す。マは接頭語。(伊藤脚注)

(注)置きや枯らさむ:妻にしないではおかない、の意。ヤは反語。男の執念。(伊藤脚注)

 

「ヒカゲノカズラ」 「福岡市薬剤師会」HPより引用させていただきました。

 福岡市薬剤師会HPには、「ヒカゲノカズラ」の名前の由来について、「自生する場所によっては群落となり周りをおおって日陰をつくるという意味で付けられたといわれる。」と書かれている。

 

 

―その1517―

●序は「・・・このゆゑに維摩大士は玉体を方丈に疾ましめ釈迦能仁は金容を双樹に掩したまへり・・・」である。

歌ではなく、「仮合即離し、去りやすく留みかたきことを悲歎しぶる詩一首 幷せて序」の漢詩文の序の一部である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P6)<俗道假合の序のプレート>(山上憶良

●序のプレートは、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P6)俗道假合の序にある。

 

●内容をみていこう。

 

題詞は、「悲歎俗道假合即離易去難留詩一首幷序」<俗道(ぞくだう)の仮合即離(けがふそくり)し、去りやすく留(とど)みかたきことを悲歎(かな)しぶる詩一首 幷(あは)せて序>である。

 

◆「・・・所以維摩大士疾玉體于方丈 釋迦能仁掩金容于雙樹・・・」

       (山上憶良 巻五 俗道假合の序)

 

≪書き下し≫・・・このゆゑに維摩大士(ゆいまだいじ)は玉体を方丈(はうぢやう)に疾(や)ましめ、釈迦能仁(しやかのうにん)は金容(こんよう)を双樹(さうじゆ)に掩(かく)したまへり・・・      

 

(訳)・・・それゆえ、維摩大士は尊い体(からだ)を方丈の室(へや)に横たえたし、釈迦如来は貴い姿を沙羅双樹(さらそうじゅ)の中に隠されたのである。・・・(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆいま【維摩】:[一] (Vimalakīrti (毘摩羅詰利帝)の音訳、維摩詰の略。浄名、無垢称(むくしょう)などと訳す) 維摩経に登場する主人公で、古代インドの毘舎離(びしゃり)城に住んだとされる大富豪。学識に富み、在家(ざいけ)のまま菩薩の道を行じ、釈迦の弟子としてその教化を助けたといわれる。維摩詰(ゆいまきつ)。[二] 「ゆいまきょう(維摩経)」の略。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)方丈【ほうじょう】:禅宗寺院で長老や住持の居室または客間をいう。堂頭(どうちょう)・堂上・正堂・函丈(かんじょう)とも。維摩居士(ゆいまこじ)の居室が1丈四方であったという伝説に由来。また住持や師に対する尊称にも用いる。最古の遺構は建仁寺。(コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア) 

 

 漢文の「沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)」と漢詩文「悲歎俗道假合即離易去難留詩一首幷序」そして倭歌「老身重病經年辛苦及思兒等歌七首  長一首短六首」<老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首 長一首短六首>の三部構成からなる。憶良七十四年の生涯の総決算ともいうべき大作である。

 

この序についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1214)」で紹介している。

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沙羅双樹の花」 一般財団法人国民公園協会 新宿御苑HPより引用させていただきました。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著 (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア」

★「国土交通省 近畿地方整備局 六甲砂防事務所HP」

★「一般財団法人国民公園協会 新宿御苑HP」

★「福岡市薬剤師会HP」

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

万葉歌碑を訪ねて(その1512,1513,1514)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P1、P2、P3)―万葉集 巻十八 四一三六、巻二 一一一、巻二〇 四五一三

―その1512―

●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P1)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習いがある。

 

 律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

       (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌については、富山県高岡市伏木国府にある勝興寺の歌碑とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

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コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)の「ヤドリギ」の「文化史」の項に、「落葉した木に着生し常緑を保つヤドリギは、古代の人々にとって驚きであったとみえ、ヨーロッパ各国でセイヨウヤドリギの土着信仰が生じ、儀式に使われた。(中略)北欧では冬至の火祭りに光の神バルデルの人形とセイヨウヤドリギを火のなかに投げ、光の新生を願った。常緑のヤドリギを春の女神や光の精の象徴として室内に飾る風習は、クリスマスと結び付き、現代に残る。

 日本でもヤドリギは、常緑信仰の対象とされていた。大伴家持(おおとものやかもち)は『万葉集』巻18で、『あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りて挿頭(かざ)しつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとそ』と、宴(うたげ)の席で詠んでいる。ほよはヤドリギの古名で、髪に挿し長寿を祈る習俗があったことがわかる。」

ヤドリギ」 (左)20220125平城宮跡で撮影 (中)20220125東大寺三笠山の遠望(三笠山にいでし月のよなヤドリギ) (右)20220401 平城宮跡ヤドリギと桜)

 

 

―その1513―

●歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P2)万葉歌碑<プレート>(弓削皇子

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。

(注)吉野の宮に幸(いでま)す時藤原遷都(持統八年 694年)以前の行幸らしい。

 

◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久

       (弓削皇子 巻二 一一一)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く

 

(訳)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こふ【恋ふ】他動詞:心が引かれる。慕い思う。なつかしく思う。(異性を)恋い慕う。恋する。 ⇒注意 「恋ふ」対象は人だけでなく、物や場所・時の場合もある。(学研全訳)

(注)弓絃葉の御井:吉野離宮の清泉の通称か。(伊藤脚注)

 

 弓削皇子持統天皇吉野行幸の際、のため行幸に参加できなかった額田王のことを思い出されて作られた歌である。

 

 弓削皇子のこの歌に和える額田王の一一二歌、ならびに一一三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で紹介している。

 ➡ 

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―その1514―

●歌は、「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P3)万葉歌碑<プレート>(甘南備伊香真人)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊蘇可氣乃 美由流伊氣美豆 氐流麻泥尓 左家流安之婢乃 知良麻久乎思母

      (大蔵大輔甘南備伊香真人 巻二〇 四五一三)

 

≪書き下し≫磯影(いそかげ)の見ゆる池水(いけみづ)照るまでに咲ける馬酔木(あしび)の散らまく惜しも

 

(訳)磯の影がくっきり映っている池の水、その水も照り輝くばかりに咲きほこる馬酔木の花が、散ってしまうのは惜しまれてならない。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首大蔵大輔甘南備伊香真人」<右の一首は大蔵大輔(おほくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごのまひと)>である。

 

 直近では、甘南備伊香真人の歌四首とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1226)」で紹介している。

 ➡ こちら1226

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 「あしび」について、「万葉植物物語」(広島大学附属福山中・高等学校/編著 中国新聞社)では、「早春の山野を彩る美しい花を咲かせますが、有毒植物であるため野生動物は食べません。安芸の宮島広島県佐伯郡宮島町)でもシカの被害を受けずにすくすくと育っています。もし、牛馬がこれを食べたら麻痺(まひ)するであろうというところから「馬酔木」という名前が付いています。」と書かれている。

「あしび」 20220317撮影 庭の紅白の馬酔木

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著 (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

万葉歌碑を訪ねて(その1511)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(3)―万葉集 巻二 一六六

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(3)万葉歌碑(大伯皇女)

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

一六五、一六六歌の題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

一六五歌もみてみよう。

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

      (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

 この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介している。

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 大伯皇女について、「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」の記載をベースにみてみよう。

 

次の様に書かれている。

「おおくのひめみこ【大伯皇女】:661‐701(斉明7‐大宝1) 万葉歌人天武天皇の皇女で大津皇子の同母姉。母は天智天皇の皇女大田皇女だが,大伯が6歳のおりに没した。673年(天武2)斎宮に命じられ,13歳から26歳までの間伊勢神宮に仕えた。686年(朱鳥1)父天皇の死にともない斎宮の任を解かれ,それと前後して弟大津皇子の謀反事件がおこる。皇女の歌は《万葉集》巻二に6首あり,事件の直前ひそかに伊勢へ下ってきた大津を見送る歌2首,大津の処刑後上京したときの2首,大津の屍を二上山へ移葬するさいの2首と,すべて弟の謀反にかかわって詠まれている。」

 

大伯皇女は、斉明七年(661年)の生まれである。この年斉明天皇百済救援のため自ら出陣、九州の朝倉宮で病死したが、この西征の船旅の途上、今の岡山県大伯に近い海上で生まれたので「大伯皇女」と名付けられたという。

額田王の「巻一 八歌」は、西征の折、今の愛媛県松山市の熟田津で詠われたものである。

 

八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1139)」で紹介している。

➡ 

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母の大田皇女の姉は鸕野讃良(うのささら)皇女で後の持統天皇である。

 

 

天武二年(673年)、大伯皇女は、父天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)に任じられ、翌三年伊勢国に下向したのである。そして朱鳥元年(686年)天武天皇の死にともない斎宮の任を解かれたのである。十一月に帰京している。

大津皇子が謀反をおこしたとして刑死させられたのが十月三日である。

事件の直前、大津皇子が姉大伯皇女に逢うべくひそかに伊勢下ってきたのは同年九月二十八日であった。

その大津を見送る歌二首が、一〇五・一〇六歌である。

この歌ならびに斎宮についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その427~429)」で紹介している。

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大津の処刑後上京したときの歌二首が、一六三・一六四歌である。

この歌ならびに、懐風藻に収録されている「臨終 一絶」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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 大津皇子の辞世の歌は、巻三 四一六に収録されている。みてみよう。

 

 題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>である。

 

◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟

       (大津皇子 巻三 四一六)

 

≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ

 

(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ももづたふ【百伝ふ】:枕詞 數を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。

 

 左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(118改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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 ここで改めて、大伯皇女の歌を時系列的にならべてみてみよう。

 

■■■一〇五・一〇六歌■■■

 題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である

 

◆吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之

       (大伯皇女 巻二 一〇五)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかつき)露に我(わ)が立ち濡れし

 

(訳)わが弟を大和へ送り帰さねばならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れた。(同上)

 

 

◆二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

     (大伯皇女 巻二 一〇六)

 

≪書き下し≫ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

 

(訳)二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を、今頃君はどのようにしてただ一人越えていることであろうか。(同上)

 

 

■■■一六三・一六四歌■■■

 題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。

 

◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

       (大伯皇女 巻二 一六三)

 

≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに

 

(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(同上)

 

 

◆欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

       (大伯皇女 巻二 一六四)

 

≪書き下し≫見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 

(訳)逢いたいと私が願う弟ももうこの世にいないのに、どうして帰って来たのであろう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに。(同上)

 

 

■■■一六五・一六六歌■■■

題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

      (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(同上)

 

 大津皇子の謀反という時代のどろどろとした蠢きの渦中にあって、何というピュアーな心根で詠っているのであろうか。まるで隔絶した世界を作っているが故に、歌を読んだ人々は事件の背景を踏まえ、より胸を熱くさせたことであろう。

 弟大津皇子を包み込む大伯皇女・・・。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「万葉の草花が薫たつ 万葉の森公園」 パンフレット

★「はままつ 万葉歌碑・故地マップ」 (浜松市制作)

 

万葉歌碑を訪ねて(その1510)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(2)―万葉集 巻十四 三三五四

●歌は、「伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(2)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓

      (作者未詳 巻十四 三三五四)

 

≪書き下し≫伎倍人(きへひと)のまだら衾(ぶすま)に綿(わた)さはだ入(い)りなましもの妹(いも)が小床(をどこ)に

 

(訳)伎倍人(きへひと)の斑(まだら)模様の蒲団(ふとん)に真綿がたっぷり。そうだ、たっぷり入りこみたいものだ。あの子の床の中に。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)伎倍:所在未詳。(伊藤脚注)

(注)まだらぶすま【斑衾】:まだら模様のある夜具。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序。「入り」を起こす。(伊藤脚注)

(注)さはだ【多だ】副詞:たくさん。多く。 ※「だ」は程度を表す接尾語。(学研)

(注)なまし 分類連語:①〔上に仮定条件を伴って〕…てしまっただろう(に)。きっと…てしまうだろう(に)。▽事実と反する事を仮想する。②〔上に疑問語を伴って〕(いっそのこと)…たものだろうか。…してしまおうか。▽ためらいの気持ちを表す。③〔終助詞「ものを」を伴って〕…してしまえばよかった(のに)。▽実現が不可能なことを希望する意を表す。 ⇒注意:助動詞「まし」の意味(反実仮想・ためらい・悔恨や希望)に応じて「なまし」にもそれぞれの意味がある。 ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の未然形+反実仮想の助動詞「まし」(学研)ここでは③の意

(注) をどこ【小床】〘名〙: (「お」は接頭語) 床。寝床。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 左注は、「右二首遠江國歌」<右の二首は遠江(とほつあふみ)の国の歌>である。

(注)遠江静岡県西部(伊藤脚注)

曲水庭園と歌碑

歌碑背面



 三三五三歌もみてみよう。

 

◆阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼

       (作者未詳 巻十四 三三五三)

 

≪書き下し≫麁玉(あらたま)の伎倍(きへ)の林に汝(な)を立てて行きかつましじ寐(い)を先立(さきだ)たね

 

(訳)麁玉のこの伎倍の林にお前さんを立たせたままで行ってしまうなんてことは、とてもできそうもない。何はさておいても、寝ること、そいつを先立てよう。(同上)

(注)麁玉:遠江の郡名。(伊藤脚注)

(注)汝(な)を立てて行きかつましじ:お前を立てたままで行き過ごすことはできそうにない。もと、歌垣での歌か。(伊藤脚注)

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒なりたち:可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

 

 この二首は、巻十四「東歌」の部立「相聞」の遠江国の歌として収録されているが、加藤静雄氏は、その著「万葉集東歌論」(桜楓社)のなかで、「・・・家持は、遠江の防人の歌<わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず(20-四三二二)>の左注の<右一首主帳丁麁玉(あらたま)郡若倭部身麻呂>に依拠して、『あらたま』を地名と見、遠江の国に分類したと思うのである。そしてこの『あらたま』を郡名と見ると、それによって『伎倍(きへ)』も遠江の国の地名ということになる。そこで、<伎倍人の斑衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に(14-三三五四)>の歌も遠江国の歌として分類されたのである。これを筆者は二次的分類とよぶことにする。だから、これを遠江の国に分類されている歌であるから『あらたま』を遠江の中の地名として求めるのであるというのは逆である。むしろこの二首を遠江の国の歌という注から解放することが本来の歌のあり方ではなかったろうか。」と述べておられる。

 同氏は、三三五三歌の「あらたま」は枕詞であると考えておられるのである。

 

 四三二二歌については、前稿ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1509)」で紹介している。

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「あらたまの」を枕詞で検索してみると、「あらたまの【新玉の】分類枕詞:『年』『月』『日』『春』などにかかる。かかる理由は未詳。『あらたまの年』(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)」と書かれている。

 朴炳植氏は、その著「万葉集の発見」(学研)で、「『アラタマ』は『年』にかかる枕詞とされている。『アラタマ』の語源は『改(アラタ)』『新(アラタ)』と同じで。『アラタマノ年』とは『新しくなる年』『次から次へと変わり行く年』の意であると考えられる。」と書いておられる。新しくなる、次から次へと変わり行く、と考えると、「来経(きへ)行く」に懸るのも肯けるのである。

 

八八一、二五三〇、三六九一歌をみてみよう。

 

◆加久能未夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提

      (山上憶良 巻五 八八一)

 

≪書き下し≫かくのみや息づき居(を)らむあらたまの来経(きへ)行(ゆ)く年の限り知らずて

 

(訳)私は、ここ筑紫でこんなにも溜息(ためいき)ばかりついていなければならぬのであろうか。来ては去って行く年の、いつを限りとも知らずに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あらたまの【新玉の】分類枕詞:「年」「月」「日」「春」などにかかる。かかる理由は未詳。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その902)」で紹介している。

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◆璞之 寸戸我竹垣 編目従毛 妹志所見者 吾戀目八方

       (作者未詳 巻十一 二五三〇)

 

≪書き下し≫あらたまの寸戸(きへ)が竹垣(たかがき)網目(あみめ)ゆも妹し見えなば我(あ)れ恋ひめやも

 

(訳)寸戸の竹垣、この垣根のわずかな編み目からでも、あなたの姿をほの見ることさえできたら、私はこんなに恋い焦がれたりなどするものか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あらたまの:「寸戸」の枕詞。懸り方未詳。(伊藤脚注)

(注)寸戸:未詳。寸戸の竹垣の編み目からでも。(伊藤脚注)

 

 

◆天地等 登毛尓母我毛等 於毛比都ゝ 安里家牟毛能乎 波之家也思 伊敝乎波奈礼弖 奈美能宇倍由 奈豆佐比伎尓弖 安良多麻能 月日毛伎倍奴 可里我祢母 都藝弖伎奈氣婆 多良知祢能 波ゝ母都末良母 安佐都由尓 毛能須蘇比都知 由布疑里尓 己呂毛弖奴礼弖 左伎久之毛 安流良牟其登久 伊▼見都追 麻都良牟母能乎 世間能 比登乃奈氣伎波 安比於毛波奴 君尓安礼也母 安伎波疑能 知良敝流野邊乃 波都乎花 可里保尓布<伎>弖 久毛婆奈礼 等保伎久尓敝能 都由之毛能 佐武伎山邊尓 夜杼里世流良牟

      (葛井連子老 巻十五 三六九一)

    ▼は「亻(にんべん)」+「弖」 「伊▼見都追」=「出で見つつ」

 

≪書き下し≫天地(あめつち)と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離(はな)れて 波の上(うへ)ゆ なづさひ来(き)にて あらたまの 月日(つきひ)も来経(きへ)ぬ 雁(かり)がねも 継(つ)ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳(も)の裾(すそ)ひづち 夕霧に 衣手(ころもで)濡(ぬ)れて 幸(さき)くしも あるらむごとく 出(い)で見つつ 待つらむものを 世間(よのなか)の 人の嘆きは 相思(あひおも)はぬ 君にあれやも 秋萩(あきはぎ)の 散らへる野辺(のへ)の 初尾花(はつをばな) 仮廬(かりほ)に葺(ふ)きて 雲離(くもばな)れ 遠き国辺(くにへ)の 露霜(つゆしも)の 寒き山辺(やまへ)に 宿りせるらむ

 

(訳)天地とともに長く久しく生きていられたらと思いつづけていたであろうに、ああ、いたわしいこと、懐かしい家を離れて、波の上を漂いながらやっとここまで来たが、月日もずいぶん経ってしまった上に、雁も次々来て鳴くようになったので、家の母もいとしい妻も、朝露に裳の裾をよごし、夕霧に衣の袖(そで)を濡らしながら、君が恙(つつが)なくあるかのように、門に出ては見やりながらしきりに待っているであろうに、この世の中の人の嘆きなど、何とも思わない君なのか、そんなはずはあるまいに、どうして、秋萩の散りしきる野辺の初尾花、そんな初尾花なんかを仮廬に葺(ふ)いて、雲居はるかに離れた遠い国辺の、冷え冷えと露置くこんなさびしい山辺に、旅寝などしているのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なづさふ 自動詞:①水にもまれている。水に浮かび漂っている。②なれ親しむ。慕いなつく。(学研)ここでは①の意

 

 「麁玉」と「伎倍」が気になるところである。いろいろと検索してみると、「浜松市史」に触れられている箇所があったので長いが抜き出してみた。

 

浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ」の「浜松市史 一 古代編 

第六章 奈良・平安時代の文化 第二節 万葉集 東歌」の項に、

「二首<三三五三、三三五四歌>ともに、まことに率直な思慕の表現であるが、それとは別に、ここで『あらたまの伎倍』という言葉について一言しておこう。

 『あらたまの』という語は、一般には年・月などの枕言葉として用いられているが、ここでは遠江の歌であるから、麁玉郡と考えてよいであろう。そして『伎倍』は『伎倍人』とある点からしても当然地名の類と思われるが、この『きへ』を『柵戸』だと解し、城柵の設備を連想して、麁玉軍団の存在をこれによって推測するのが普通の説であった。

【柵戸は誤】しかし、この『きへ』を『柵戸』と考えるのは、上代特殊仮名遣という原則からみて難がある。この特殊仮名遣の問題はとくに昭和に入ってから大きく進歩した領域であるが、その要旨は、今日では一音になっている『き』『ひ』『み』『け』『へ』『め』などの十三種のかなは、平安時代より前ではそれぞれ二つの類(甲類・乙類)にわかれていた。これは恐らく音が違っていたのであって、これを万葉がなで表わす時には、甲類と乙類それぞれに使用する字がはっきりわかれており、二群に分類できる、というのである。この知識でもって『伎倍』という万葉がなをみると、『伎』はキの甲類、『倍』はへの乙類に属する字である。ところが、『柵戸』の方は、『戸』はやはりへの乙類だからよいが、城というような意味の時のキは、乙類に属するのであって、甲類である『伎』の字は決して使わない。とすると、『伎倍』の『伎』を、柵の意味に解することは誤りであろうということになる。今日でこそどちらも『キ』であるが、当時は音が違い、意味も異なっていたと認められるからである。このような点が明らかになったのは一にこの上代特殊仮名遣の研究が進歩したからであって、古代文献の読解には、この知識は今日不可欠のものとなり、大きな効用を発揮しているのであるが、『伎倍』を『柵戸』と解釈するのがこのように無理だとすれば、やはり麁玉郡内の某地であろうとしか言えないことになろう。これを貴平(きへい)(当市貴平町)にあてる説もあるようだが、その当否は簡単にきめられない。」と書かれている。

 

「あらたま」について、三三五三、三三五四歌は、遠江の歌であるから、麁玉郡と考えてよいであろうとするところがひっかかる。しかも「伎倍」も麁玉郡内の某地であろうとしか言えない、と書かれている。

防人歌の左注に、「麁玉郡」なる地名があったということは間違いないことである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集東歌論」 加藤静雄 著 (桜楓社)

★「万葉集の発見」 朴炳植 著 (学研)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「浜松市史 一」 (浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (浜松市制作)

★「万葉の草花が薫りたつ 万葉の森公園」 パンフレット

 

万葉歌碑を訪ねて(その1509)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(1)―万葉集 巻二十 四三二二

●歌は、「我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(1)万葉歌碑(若倭部身麻呂)

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和我都麻波 伊多久古非良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受

      (若倭部身麻呂 巻二十 四三二二)

 

≪書き下し≫我が妻(つま)はいたく恋ひらし飲む水に影(かげ)さへ見えてよに忘られず

 

(訳)おれの妻は、ひどくこのおれを恋しがっているらしい。飲む水の上に影まで映って見えて、ちっとも忘れられない。(同上)

(注)よに【世に】副詞:①たいそう。非常に。まったく。②〔下に打消の語を伴って〕決して。全然。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌の左注は、「右一首主帳丁麁玉郡若倭部身麻呂」<右の一首は主帳丁(しゆちやうのちやう)麁玉(あらたま)の郡(こほり)の若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)>である。

(注)しゆちやう【主帳】:律令制で、諸国の郡または軍団に置かれ、文書の起草・受理をつかさどった職。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)麁玉の郡:静岡県浜松市付近一帯。(伊藤脚注)

歌の解説案内板

 四三二一から四四二四歌の歌群(中に家持の歌が二十首ある)八十四首の題詞は、「天平勝寶七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌」<天平勝宝(てんびやうしようほう)七歳乙未(きのとひつじ)の二月に、相替(あひかはり)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌>である。

 

 四三二一から四三二七歌の歌群の左注は、「二月の六日、防人部領使(さきもりのことりづかひ)遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首 但有拙劣歌十一首不取載之」<二月六日に、防人(さきもりの)部領使(ことりつかひ)遠江 (とほつあふみ)の国の史生(ししやう)坂本朝臣人上(さかもとのあそみひとかみ)。進(たてまつ)る歌の数(かず)十八首。ただし拙劣(せつれつ)の歌十一首有るは取り載(の)せず。>である。

(注)とほたふみ【遠江】:旧国名の一。現在の静岡県西部。遠淡海(とおつおうみ)(浜名湖)のある国の意。遠州。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 駐車場から回り込むと平城京を模して作られた築地塀と門がある。そこが万葉の森公園の入口である。入ってすぐに出迎えてくれるのが、この歌碑である。万葉の森公園では万葉植物約300種類が植えられ、歌碑4基(①巻二十 四三二二、②巻十四 三三五四、③巻二 一六六、④巻五 八〇三<駐車場>)そして植物に関連した歌碑(プレート)が多数建てられている。

築地塀と門(万葉の入口)

 ④の八〇三歌については、前稿のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1508)」で紹介したところである。

 ➡ 

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 他の歌碑ならびに歌碑(プレート)については次稿以降で紹介させていただきます。

 ここでは、四三二一から四三二七歌をみてみよう。

 四三二一歌からである。

 

◆可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖

       (物部秋持 巻二十 四三二一)

 

≪書き下し≫畏(かしこ)きや命(みこと)被(かがふ)り明日(あす)ゆりや草(かえ)が共(むた)寝む妹(いむ)なしにして

 

(訳)恐れ多い大君の仰せを承(うけたまわ)って、明日からというものは萱(かや)と一緒に寝ることになるのであろうか。いとしい子もいないままに。(同上)

(注)かや【萱・茅】名詞:すすき・すげ・ちがやなど、屋根をふく丈の高い草の総称。▽上代東国方言では「かえ」とも(学研)

(注)いむ:「いも」の東国訛り。

 

 左注は、「右一首國造丁長下郡物部秋持」<右の一首は国造丁(くにのみやつこのちやう)長下(ながしも)の郡(こほり)の物部秋持(もののべのあきもち)>である。

 

 

◆等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曽 波々登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟

      (丈部真麻呂 巻二十 四三二三)

 

≪書き下し≫時々(ときどき)の花は咲けども何すれぞ母(はは)とふ花の咲き出(で)来(こ)ずけむ

 

(訳)四季折々の花は咲くけれど、何でまあ、これまで母という花が咲き出てこなかったのであろう。(同上)

 

 左注は、「右一首防人山名郡丈部真麻呂」<右の一首は、防人 山名(やまな)の郡の丈部真麻呂(はせべのままろ)>である。

 

 

◆等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良婆 己等母加由波牟

      (丈部川相 巻二十 四三二四)

 

≪書き下し≫遠江(とへたほみ)志留波(しるは)の磯(いそ)と爾閇(にへ)の浦と合ひてしあらば言(こと)も通(かゆ)はむ

(注)志留波:静岡県磐田市から袋井市にかけての地。(伊藤脚注)

 

(訳)故郷遠江(とおとうみ)の志留波(しるは)の磯とこの爾閇(にへ)の浦とがもし一続きであったなら、せめて言葉だけなりと交わすことができよう。(同上)

(注)通(かゆ)ふ:通(かよ)ふの東国訛り。

 

左注は、「右一首同郡丈部川相」<右の一首は同(おな)じき郡の丈部川相(はせべのかはひ)>である。

 

 

◆知ゝ波ゝ母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐々己弖由加牟

     (丈部黒当 巻二十 四三二五)

 

≪書き下し≫父母(ちちはは)も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(さき)ごて行かむ

 

(訳)父さん母さんがせめて花ででもあってくれればよい。そしたら草を枕の旅なんかに行くにしても、捧げ持って行こうものを。(同上)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 左注は、「右一首佐野郡丈部黒当」<右の一首は佐野(さや)の郡丈部黒当(はせべのくろまさ)>である。

 

 

◆父母我 等能々ゝ志利弊乃 母ゝ余具佐 母ゝ与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖

      (壬生部足国 巻二十 四三二六)

 

≪書き下し≫父母が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで

 

(訳)父さん母さんが住む母屋(おもや)の裏手のももよ草、そのよももよというではないが、どうか百歳(ももよ)までお達者で。私が帰って来るまで。(同上)

(注)ももよ草:未詳 上三句は序。「百代」を起こす。

 

 左注は、「右一首同郡生玉部足國」<右の一首は、同(おな)じき郡(こほり)の壬生部(みぶべ)足国(たりくに)>である。

(注)みぶべ【壬生部】〔名〕 令制前、王子の養育に奉仕するために設定された部(べ)。壬生。(weblio辞書 精選版日本国語大辞典

 

 

◆和我都麻母 畫尓可伎等良無 伊豆麻母加 多妣由久阿礼波 美都々志努波牟

      (物部古麻呂 巻二十 四三二七)

 

≪書き下し≫我が妻も絵(ゑ)に描(か)き取らむ暇(いつま)もが旅行く我(あ)れは見つつ偲はむ

 

(訳)我が妻をせめて絵に書き写す暇があったならな。長い旅路を行くおれは、それを見ては妻を偲ぼうに。(同上)

 

 左注は、「右一首長下郡物部古麻呂」<右の一首は長下(ながしも)の郡の物部古麻呂(もののべのこまろ)>である。

 

 四三二二、四三二三、四三二五~四三二七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1174)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「防人の歌」というと、九州の任地に派遣され、ある意味国の防衛の任に当たるのであるから、それなりの気構え的な歌が多いとおもいきや自分のことや父母のこと、妻のことなど、「私」の面を前面に押し出している歌がほとんどである。

 万葉集のおおらかさがうかがい知れるのである。

巻二十の防人歌の先頭歌である、四三二一歌の詠いだしは「畏(かしこ)きや命(みこと)被(かがふ)り明日(あす)ゆりや」である。国を守る覚悟の思いを語ると思いきや、「草(かえ)が共(むた)寝む妹(いむ)なしにして」とくるのである。

 「拙劣」と判定せず、万葉集に収録されているのである。素直な人間性を感じさせる一面を感じさてくれるのである。

 万葉集の素晴らしさである。

 

万葉の森公園 案内板


 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 精選版日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

★「万葉の草花が薫りたつ 万葉の森公園」(パンフレット)