万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1211)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(9)―万葉集 巻八 八一八

●歌は、「春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(9)万葉歌碑<プレート>(山上憶良



●歌碑(プレート)は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(9)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武  [筑前守山上大夫]

          (山上憶良 巻八 八一八)

 

≪書き下し≫春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日(はるひ)暮らさむ [筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上大夫(やまのうへのまへつきみ)]

 

(訳)春が来るとまっ先に咲く庭前の梅の花、この花を、ただひとり見ながら長い春の一日を暮らすことであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 山上憶良について、鳥取県HPに非常に分かりやすく、次のように書かれている。

山上憶良は、奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く、万葉集に80首の歌が収められている。

 660年頃の生まれと推定され、粟田朝臣の同族で、天足彦国忍人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫とされる説と朝鮮半島からの渡来人ではないかという説がある。

 憶良は、42歳で遣唐使書記に抜擢され、貴族になったが、出世に恵まれず、54歳の時に上級官人になり、716年(霊亀2年)に57歳で初めての国司として、伯耆守に任命された。その後、726年(神亀3年)ごろに67歳で筑前守として赴任。その地で大宰府の長官に着任した大伴旅人大伴家持の父)と交流があったとされ、赴任4年後の730年(天平2年)に令和の典拠となった梅花の歌32首が詠まれた大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴に出席している。

 筑前守を退官した後、733年(天平5年)に病気により74歳でその生涯を閉じたとされている。

 

【梅花の歌32首に納められている憶良の歌】

春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ

(春になると最初に咲く屋敷の梅の花よ、私ひとりで眺めながら、ただ春の一日を暮らすことにしよう)

 

 716年(霊亀2年)4月に伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の国守として赴任し、約5年間を伯耆の地で過ごしたとされる。伯耆国赴任中の歌は、確認されていないが、赴任した間に体験、見聞した伯耆の自然、文化がこの後の歌づくりに影響したと考えられている。

 

 後に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として万葉集の最後を飾る歌を詠んだ大伴家持も憶良の影響を強く受けていると言われ、憶良の「士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして(男子として、空しく人生を終わってよいものだろうか。万代の後まで語り継いでいくよう名を立てずに。)」に対して、大伴家持は「大夫は 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(大夫はりっぱな名をたてるべきである。後の世に聞き継ぐ人もまた語り継ぐように。)」と追和したとされている。」

 

 万葉歌人のなかで、山上憶良ほど、犬養 孝氏の言葉を借りれば、「生老病死、あるいは家庭生活の問題、貧困の問題といった、術なき人生に真正面から取り組んでいる」(同氏著「万葉の人びと」)歌人はいない。

 これまで、ブログでとりあげて来た山上憶良の歌を順にあげていってみてみよう。(重複する歌は省く)

 

 

奈良市北御門町五劫院の歌碑

 

 ◆水沫奈須 微命母 栲縄能 千尋尓母何等 慕久良志都

          (山上憶良 巻五 九〇二)

 

≪書き下し≫水沫(みなわ)なす微(もろ)き命も栲縄(たくなは)の千尋ちひろ)にもがと願ひ暮らしつ

 

(訳)水の泡にも似たもろくはかない命ではあるものの、楮(こうぞ)の綱のように千尋ちひろ)の長さほどもあってほしいと願いながら、今日もまた一日を送り過ごしてしまった。(同上)

(注)みなわ【水泡】名詞:水の泡。はかないものをたとえていう。 ※「水(み)な泡(あわ)」の変化した語。「な」は「の」の意の上代の格助詞。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たくなは【栲縄】名詞:こうぞの皮をより合わせて作った白い縄。漁業に用いる。 ※後世「たぐなは」とも。(学研)

(注)ちひろ千尋】名詞:千尋(せんひろ)。また、長さ・遠さ・深さが甚だしいことにいう。「ちいろ」とも。 ※「ひろ」は長さや深さの単位。(学研)

 

 この歌は、題詞、「老身重病經年辛苦及思兒等歌七首  長一首短六首」(老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌七首 長一首短六首)とある短歌六首のうちの一つである。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その44改)」で紹介している。

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※以下、「改」とあるのは、初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されているため、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しています。ご了承下さい。

 

天理市新泉町大和神社の歌碑

 

大和神社(おおやまとじんじゃ)のHPには、好去好來(かうきよかうらい)の歌碑について、「天平5年(733年)第9次唐遣使の大使として派遣される多治比広成に無事の帰国を祈って、山上憶良が『好去好来』の歌を送っています。好去とは『さようなら』、好来とは『御無事で帰還を』の意味

 大和への帰還をこの大和神社の大國魂の神にご加護を祈りました。唐遣使の大使として派遣に際し、幸いをもたらすという『言霊(ことだま)』に餞(はなむけ)の祈りを託さずにはいられなかったのかもしれません。

 大和神社の静寂な境内の、落ち着いた雰囲気の中で、憶良の壮麗な『言霊』の思いを描いてみてはいかがでしょう」と書かれている。

 

「好去好來(かうきよかうらい)歌一首反歌二首」である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その57改)」で紹介している。

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春日大社北参道の歌碑

 

◆秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花  其一

         (山上憶良 巻八 一五三七)

 

≪書き下し≫秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花  その一

 

(訳)秋の野に咲いている花、その花を、いいか、こうやって指(および)を折って数えてみると、七種の花、そら、七種の花があるんだぞ。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝顔之花  其二

          (山上憶良 巻八 一五三八)

      ※「朝顔」と「顔」の字を用いているが、「白の下に八」であるが、

        漢字が見当たらなかったため「顔」としている。

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花  その二

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(同上)

 

 一五三七歌に「其一」、一五三八歌に「其二」となっているのは、組歌で一つの内容をなす謡いものであることを示している。

 

 憶良の、荘厳な歌から見れば、このような歌も詠うのだという驚きとともに憶良の幅広い分野での知識の広がりに驚かされる。また、ある意味ホッとする歌である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その61改、62改)」で紹介している。

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奈良県橿原市南浦町万葉の森歌碑

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓

         (山上憶良 巻五 七九八)

 

≪書き下し≫妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た楝(あふち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。妻を悲しんでなく私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)楝(あふち)の花:せんだんの花。筑紫の楝の散りそうなのを見つつ奈良の楝を思っている。

 

 この歌は、題詞「日本挽歌一首」(巻五 七九四歌)の長歌反歌五首(七九五~七九九歌)の一首である。

 

ここで、「日本挽歌」とあるのは、漢文(前文として)と漢詩と「日本挽歌」とからなる一つの作品として万葉集に収録されているのである。

 

 ボリュームがあるので、「漢文と漢詩」と「日本挽歌」の二回に分けてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その127-1、127-2)で紹介している。

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東近江市糠塚町 万葉の森船岡山の歌碑

 

◆宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農

          (山上憶良 巻五 八〇二)

 

≪書き下し≫瓜(うり)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しの)はゆいづくより 来(きた)りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安(やす)寐 (い)し寝(な)さぬ

 

(訳)瓜を食べると子どもが思われる。栗を食べるとそれにも増して偲(しの)ばれる。こんなにかわいい子どもというものは、いったい、どういう宿縁でどこから我が子として生まれてきたものであろうか。そのそいつが、やたらに眼前にちらついて安眠をさせてくれない。(同上)

(注)まなかひ【眼間・目交】名詞:目と目の間。目の辺り。目の前。※「ま」は目の意、「な」は「つ」の意の古い格助詞、「かひ」は交差するところの意。(学研)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。※上代語。(学研)

(注)やすい【安寝・安眠】名詞:安らかに眠ること。安眠(あんみん)。※「い」は眠りの意。(学研)

 

 題詞は、「思子等歌一首并序」<子等(こら)を思う歌一首併せて序>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その289)」で紹介している。

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大阪府枚方市香里ケ丘 観音山公園の歌碑

 

◆牽牛之 迎嬬船 己藝出良之 天漢原尓 霧之立波

                           (山上憶良 巻八 一五二七)

 

≪書き下し≫彦星(ひこぼし)の妻迎(むか)へ舟(ぶね)漕(こ)ぎ出(づ)らし天(あま)の川原(かはら)に霧(きり)の立てるは

 

(訳)彦星の妻を迎えに行く舟、その舟が今漕ぎ出したらしい。天の川原に霧がかかっているところから推すと。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

この歌は、題詞「山上臣憶良七夕歌十二首」<山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)が七夕(たなばた)の歌十二首>のうちの一首である。

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その390)」で紹介している。

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太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園の歌碑

 

◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

         (山上憶良 巻五 八〇三)

 

≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも

 

(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(学研)

 (注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その897)」で紹介している。

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太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパークの歌碑

 

◆伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母

          (山上憶良 巻五 七九五)

 

≪書き下し≫家に行(ゆ)きていかにか我(あ)がせむ枕付(まくらづ)く妻屋(つまや)寂(さぶ)しく思ほゆべしも

 

(訳)あの奈良の家に帰って、何としたら私はよいのか。二人して寝た妻屋がさぞさびしく思われることだろう。(同上)

(注)まくらづく【枕付く】分類枕詞:枕が並んでくっついている意から、夫婦の寝室の意の「妻屋(つまや)」にかかる。(学研)

(注)つまや【妻屋】名詞:夫婦の寝所。「寝屋(ねや)」とも。(学研)

(注)おもほゆ【思ほゆ】自動詞:(自然に)思われる。 ※動詞「思ふ」+上代の自発の助動詞「ゆ」からなる「思はゆ」が変化した語。「おぼゆ」の前身。(学研)

(注)も 終助詞《接続》文末、文節末の種々の語に付く。:〔詠嘆〕…なあ。…ね。…ことよ。 ※上代語。(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その911)」で紹介している。

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以下七九六歌から七九九歌まで太宰府メモリアルパークの歌碑でブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その912~915)」で紹介している。

 

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生駒郡三郷町 近鉄信貴山下駅前の歌碑

 

◆比等母祢能 宇良夫禮遠留尓 多都多夜麻 美麻知可豆加婆 和周良志奈牟迦

         (山上憶良 巻五 八七七)

 

≪書き下し≫ひともねのうらぶれ居(を)るに竜田山(たつたやま)御馬(みま)近(ちか)づかば忘らしなむか

 

(訳)周りの者が皆あなたの旅立ちにうちしおれているのに、竜田山にお馬が近づく頃には、一同のことなどお忘れになってしまうのではありますまいか。(同上)

(注)ひともね:「人皆」の方言か

(注)うらぶる 自動詞:わびしく思う。悲しみに沈む。しょんぼりする。 ※「うら」は心の意。(学研)

(注)たつたやま【竜田山/立田山】:奈良県北西部、三郷(さんごう)町と大阪府柏原市との間の山地の古名。大和から河内へ行く「竜田越え」の山。(weblio辞書 デジタル大辞泉)西を旅する人の帰郷のめどとされた。

 

題詞は、「書殿餞酒日倭歌四首」<書殿にして餞酒(せんしゅ)する日の倭歌(やまとうた)四首>である。

(注)書殿:図書・文書を置く座敷。ここは、筑前国山上憶良公館の部屋であろう。(大宰府または帥大伴旅人邸の書殿と見る説もある。)

(注)餞酒:旅人送別の宴の意。天平二年十二月、旅人は大納言となり帰京。

(注)倭歌:(筑紫歌壇であるので)漢詩でなく日本の歌であることを強調。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1031)」で紹介している。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園の歌碑

 

題詞は、「戀男子名古日歌三首 長一首短二首」<男子(をのこ)名は古日(ふるひ)に恋ふる歌三首 長一首短二首>である。

 

◆世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者 明星之 開朝者 敷多倍乃 登許能邊佐良受 立礼杼毛 居礼杼毛 登母尓戯礼 夕星乃 由布弊尓奈礼婆 伊射祢余登 手乎多豆佐波里 父母毛 表者奈佐我利 三枝之 中尓乎祢牟登 愛久 志我可多良倍婆 何時可毛 比等ゝ奈理伊弖天 安志家口毛 与家久母見武登 大船乃 於毛比多能無尓 於毛波奴尓 横風乃尓 尓布敷可尓 覆来礼婆 世武須便乃 多杼伎乎之良尓 志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖 天神 阿布藝許比乃美 地祇 布之弖額拜 可加良受毛 可賀利毛 神乃末尓麻尓等 立阿射里 我例乞能米登 須臾毛 余家久波奈之尓 漸ゝ 可多知都久保里 朝ゝ 伊布許等夜美 霊剋 伊乃知多延奴礼 立乎杼利 足須里佐家婢 伏仰 武祢宇知奈氣吉 手尓持流 安我古登婆之都 世間之道

       (山上憶良 巻五 九〇四)

 

 

≪書き下し≫世の人の 貴(たふと)び願ふ 七種(ななくさ)の 宝も 我(わ)れは何せむ 我(わ)が中(なか)の 生(うま)れ出(い)でたる 白玉(しらたま)の 我(あ)が子古日(ふるひ)は 明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は 敷栲の 床(とこ)の辺(へ)去らず 立てれども 居(を)れども ともに戯(たはぶ)れ 夕星(ゆふつづ)の 夕(ゆふへ)になれば いざ寝(ね)よと 手をたづさはり 父母(ちちはは)も うへはなさかりり さきくさの 中にを寝むと 愛(うつく)しく しが語らへば いつしかも 人と成(な)り出(い)でて 悪(あ)しけくも 良けくも見むと 大船(おおぶね)の 思ひ頼むに 思はぬに 横しま風のに にふふかに 覆(おほ)ひ来れば 為(な)むすべの たどきを知らに 白栲(しろたへ)の たすきを懸(か)け まそ鏡 手に取り持ちて 天(あま)つ神 仰ぎ祈(こ)ひ禱(の)み 国つ神 伏して額(ぬか)つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 我れ祈(こ)ひ禱 (の)めど しましくも 良(よ)けくはなしに やくやくに かたちくつほり 朝(あさ)な朝(さ)な 言ふことやみ たまきはる 命(いのち)絶えぬれ 立ち躍(をど)り 足(あし)すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子飛ばしつ 世の中の道

 

(訳)世間の人が貴び願う七種の宝、そんなものも私にとっては何になろうぞ。われわれ夫婦の間の、願いに願ってようやくうまれてきてくれた白玉のような幼な子古日は、明星の輝く朝になると、寝床のあたりを離れず、立つにつけ座るにつけ、まつわりついてはしゃぎ回り、夕星の出る夕方になると、「さあ寝よう」と手に縋(すが)りつき、「父さんも母さんもそばを離れないでね。ぼく、まん中に寝る」と、かわいらしくもそいつが言うので、早く一人前になってほしい、良きにつけ悪しきにつけそのさまを見たいと楽しみにしていたのに、思いがけず、横ざまのつれない突風がいきなり吹きかかって来たものだから、どうしてよいのか手だてもかわらず、白い襷(たすき)を懸け、鏡を手に持ちかざして、仰いで天の神に祈り、伏して地の神を拝み、治して下さるのも、せめてこのままで生かして下さるのも、神様の思(おぼ)し召(め)しのままですと、ただうろうろと取り乱しながら、ひたすらお祈りしたけれども、ほんの片時も持ち直すことはなく、だんだんと顔かたちがぐったりし、日ごとに物も言わなくなり、とうとう息が絶えてしまったので、思わず跳(と)びあがり、地団駄(じだんだ)踏んで泣き叫び、伏して仰ぎつ、胸を叩(たた)いて嘆きくどいた、だが、そのかいもなく、この手に握りしめていた我が幼な子を飛ばしてしまった。ああ、これが世の中を生きていくということなのか。(同上)

(注)七種の宝>しちほう【七宝】: 仏教で、7種の宝。無量寿経では金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)。法華経では金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい)。七種(ななくさ)の宝。七珍。しっぽう。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)しらたま【白玉・白珠】名詞:白色の美しい玉。また、真珠。愛人や愛児をたとえていうこともある。(学研)

(注)あかほしの【明星の】分類枕詞:「明星」が明け方に出ることから「明く」に、また、それと同音の「飽く」にかかる。(学研)

(注)ゆふつづの【長庚の・夕星の】分類枕詞:「ゆふつづ」が、夕方、西の空に見えることから「夕べ」にかかる。また、「ゆふつづ」が時期によって、明けの明星として東に見え、宵の明星として西の空に見えるところから「か行きかく行き」にかかる。(学研)

(注)うへはなさかり:そばを離れないで、の意か。

(注)さきくさの【三枝の】分類枕詞:「三枝(さきくさ)」は枝などが三つに分かれるところから「三(み)つ」、また「中(なか)」にかかる。「さきくさの三つ葉」(学研)

(注)し【其】代名詞〔常に格助詞「が」を伴って「しが」の形で用いて〕:①それ。▽中称の指示代名詞。②おまえ。なんじ。▽対称の人称代名詞。③おのれ。自分。▽反照代名詞(=実体そのものをさす代名詞)。(学研)ここでは②の意

(注)横しま風:子に取りついた病魔のことか。

(注)にふふかに;俄かに、の意か。

(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考 古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)

(注)あざる【戯る・狂る】自動詞:取り乱して動き回る。(学研)

(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。 ※上代語。(学研)

(注)やくやく【漸漸】[副]:《「ようやく」の古形》だんだん。しだいに。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)かたちつくほり:「かたち」は顔かたち。「つくほり」はしぼんで勢いがなくなる意か。

 

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1103)」で紹介している。

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 読み返してみると、どの歌もなかなかに重い歌である。並外れた歌人である。万葉の世にこれほどまでの歌人がいたとは。

どの時代にも桁外れの人物というのは存在し、日本を引っ張ってきたのである。そういった歴史の重みをも感じさせるのが万葉集でもある。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「鳥取県HP」

★「大和神社HP」