万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その992)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(11)―万葉集 巻十 一九九三

●歌は、「外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(11)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆外耳 見筒戀牟 紅乃 末採花之 色不出友

               (作者未詳 巻十 一九九三)

 

≪書き下し≫外(よそ)のみに見つつ恋ひなむ紅(くれなゐ)の末摘花(すゑつむはな)の色に出(い)でずとも

 

(訳)遠くよそながらお姿を見つつお慕いしよう。紅花の末摘花のように、あの方がはっきりと私への思いを面(おもて)に出して下さらなくても。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)三・四句は序。「色の出づ」をおこす。

(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)すゑつむはな【末摘花】名詞:草花の名。べにばなの別名。花を紅色の染料にする。 ⇒ 参考 べにばなは、茎の先端(=末)に花がつき、それを摘み取ることから「末摘花」という(学研)

 

 「くれなゐ」とは紅花(べにばな)のことで「末摘花」とも呼ばれる。花は紅色の染料として使われる。万葉集では、花そのものを詠んだ歌よりも紅色や染色した「紅染の衣など」を詠んだ歌が多い。

 

「くれなゐ」を詠んだ歌をいくつかみてみよう。

 

 ◆春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞

               (作者未詳 巻十 二一七七)

 

≪書き下し≫春は萌え夏は緑に紅(くれなゐ)のまだらに見ゆる秋の山かも

 

(訳)春は木々がいっせいに芽を吹き、夏は一面の緑に色取られたが、今は紅がまだら模様に見える、こよなくすばらしい秋の山だ。(同上)

 

 春は萌えぎ色、夏は緑、秋は紅と自然の色の移り変わりを詠んでいる。

 

 

◆紅 花西有者 衣袖尓 染著持而 可行所念

               (作者未詳 巻十一 二八二七)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)の花にしあらば衣手(ころもで)に染(そ)め付け持ちて行くべく思ほゆ

 

(訳)お前さんがもし紅の花ででもあったなら、着物の袖に染め付けて持って行きたいほどに思っているのだよ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ころもで【衣手】名詞:袖(そで)。(学研)

 

 文字通り紅の花を詠んでいる。

 

 

遣新羅使人等の歌から、題詞「竹敷の浦に船泊(ふなどま)りする時に、おのもおのも心緒(しんしよ)を陳べて作る歌十八首」の内の一首をみてみよう。

(注)竹敷の浦:浅茅湾南部の竹敷の入海。

 

◆多可思吉能 宇敝可多山者 久礼奈為能 也之保能伊呂尓 奈里尓家流香聞

               (大判官 巻十五 三七〇三)

 

≪書き下し≫竹敷(たかしき)の宇敝可多山(うへかた)山は紅(くれなゐ)の八(や)しおの色になりにけるかも

 

(訳)竹敷(たかしき)の宇敝可多山(うへかた)山は、紅花(べにばな)染の八しおの色になってきたな(同上)

(注)宇敝可多山(うへかた)山:竹敷西方の城山か。

(注)やしほ【八入】名詞:幾度も染め汁に浸して、よく染めること。また、その染めた物。 ※「や」は多い意、「しほ」は布を染め汁に浸す度数を表す接尾語。上代語。(学研)

(注)紅の八しおの色:紅花で何回も染めた色

 

 ここは、「紅の」で色にかかる枕詞として使われている。紅の八しおの色の鮮やかさに対し、遣新羅使たちの、これまで幾たびも味わって来た苦難をにじませているのである。

 

 

家持が部下の尾張少咋(おはりのをくひ)の不倫を染色に喩えて諭した歌をみてみよう。

 

◆久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母

               (大伴家持 巻十八 四一〇九)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも

 

(訳)見た目鮮やかでも紅は色の褪(や)せやすいもの。地味な橡(つるばみ)色の着古した着物に、やっぱりかなうはずがあるものか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)紅:紅花染。ここでは、遊女「左夫流子」の譬え

(注)橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ):橡染の着古した着物。妻の譬え

(注)つるばみ【橡】名詞:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。 ※ 古くは「つるはみ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 ここでは、不倫相手の佐夫流子を「紅花染めの衣」に喩え、古女房のことを「橡染の着古した着物」に喩えている。

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その834)」で紹介している。

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◆黒牛乃海 紅丹穂経 百礒城乃 大宮人四 朝入為良霜

               (藤原卿 巻七 一二一八)

(注)藤原卿:藤原不比等のことか

 

≪書き下し≫黒牛(くろうし)の海(うみ)紅(くれなゐ)にほふももしきの大宮人(おおみやひと)しあさりすらしも

 

(訳)黒牛の海が紅に照り映えている。大宮に使える女官たちが浜辺で漁(すなど)りしているらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)黒牛の海:海南市黒江・船尾あたりの海。

(注)あさり【漁り】名詞 <※「す」が付いて他動詞(サ行変格活用)になる>:①えさを探すこと。②魚介や海藻をとること。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 赤裳ではしゃぐ女官たちを詠った歌である。色っぽさを感じさせる。

 

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その744)」で紹介している。

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「紅(くれなゐ)」というと家持のこの歌は外せない。

 

 ◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

               (大伴家持 巻十九  四一三九)

     ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

この歌はの題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。

 

 鮮やかな紅色の桃の花に照らし娘子(おとめ)たちのはつらつとした躍動感を詠っている。

 

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その956)」で紹介している。

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 万葉びとの、植物に対する細やかな観察力やそこに重ねる己の心情から巧みな歌を詠いあげているのにはいつもながら驚かされるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その991)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(10)―万葉集 巻十 一九五三

●歌は、「五月山卯の花月夜ほととぎす聞けども飽かずまた鳴かぬかも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(10)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(10)にある。

 

●歌をみていこう。

 

五月山 宇能花月夜 霍公鳥 雖聞不飽 又鳴鴨

             (作者未詳 巻十 一九五三)

 

≪書き下し≫五月山(さつきやま)卯(う)の花月夜(づくよ)ほととぎす聞けども飽かずまた鳴くぬかも

 

(訳)五月の山に卯の花が咲いている月の美しい夜、こんな夜の時鳥は、いくら聞いても聞き飽きることがない。もう一度鳴いてくれないものか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)うのはなづくよ【卯の花月夜】:卯の花の白く咲いている月夜。うのはなづきよ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 月夜の情景を美しく詠っているが、月夜には男女の逢瀬が考えられる。そういった充実した心情が研ぎ澄まされた歌になったと考えられる。

 

 この歌ならびに、逢瀬に関する月夜の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その528)で紹介している。

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 月夜の逢瀬をめぐる大伴家持坂上大嬢の歌をみてみよう。

 

題詞は、「同坂上大嬢贈家持歌一首」<同じき坂上大嬢、家持に贈る歌一首>である。

(注)同じき:同じ大伴の、の意

 

春日山 霞多奈引 情具久 照月夜尓 獨鴨念

               (坂上大嬢 巻四 七三五)

 

≪書き下し≫春日山(かすがやま)霞たなびき心ぐく照れる月夜(つくよ)にひとりかも寝む

 

(訳)春日山に霞(かすみ)がたなびいて、うっとうしく月が照っている今宵(こよい)、こんな宵に私はたった一人で寝ることになるのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)こころぐし【心ぐし】形容詞ク活用:心が晴れない。せつなく苦しい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌に対する家持の歌をみてみよう。

 

 題詞は、「又家持和坂上大嬢歌一首」<また家持、坂上大嬢に和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆月夜尓波 門尓出立 夕占問 足卜乎曽為之 行乎欲焉

                (大伴家持 巻四 七三六)

 

≪書き下し≫月夜(つくよ)には門(かど)に出で立ち夕占(ゆふけ)問ひ足占(あしうら)をぞせし行かまくを欲(ほ)り

 

(訳)あなたが言われるその月夜の暁には、門(かど)の外に出(い)で立って、夕方の辻占(つじうら)をしたり足占(あしうら)をしたりしたのですよ。あなたのところへ行きたいと思って(同上)

(注)ゆふけ【夕占・夕卜】名詞:夕方、道ばたに立って、道行く人の言葉を聞いて吉凶を占うこと。夕方の辻占(つじうら)。「ゆふうら」とも。 ※上代語。(学研)

(注)あしうら【足占】名詞:「あうら」に同じ。

(注の注)あうら【足占】名詞:古代の占いの一つ。目標の地点まで歩いて行って、右足で着くか左足で着くかによって恋などの吉凶を占ったといわれる。「あしうら」とも。(学研)

 

 月夜が詠われるのは、特殊な夜つまり逢引は原則的には月夜になされていたと考えられる。

 七三五歌で、大嬢は、月の夜にひとり寝しなければならない嘆きを詠っている。これに対して家持は、月の夜だからあなたに逢いに行こうとしたとしきりに弁解しているのである。

 

 紀女郎の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「紀女郎歌一首 名日小鹿也」<紀女郎(きのいらつめ)が歌一首 名を小鹿といふ>である。

 

◆闇夜有者 宇倍毛不来座 梅花 開月夜尓 所念可聞

              (紀女郎 巻八 一四五二)

 

≪書き下し≫闇(やみ)ならばうべも来(き)まさじ梅の花咲ける月夜(つくよ)に出(い)でまさじとや

 

(訳)闇夜ならばおいでにならないのもごもっともなことです。が、梅の花の咲いているこんな月夜の晩にも、お出ましにならないというのですか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)うべも【宜も】分類連語:まことにもっともなことに。ほんとうに。なるほど。道理で。 ⇒なりたち 副詞「うべ」+係助詞「も」(学研)

(注)とや 分類連語〔文末の場合〕:(ア)…とかいうことだ。▽伝聞あるいは不確実な内容であることを表す。(イ)…というのだな。…というのか。▽相手に問い返したり確認したりする意を表す。 ⇒ なりたち 格助詞「と」+係助詞「や」(古語)ここでは(イ)の意(学研)

 

 「梅の花咲ける月夜(つくよ)に出(い)でまさじとや」には、梅の花が美しく見えるこんな月の夜にも来ないことを非難している。「とや」に強い気持ちが出ている。紀女郎は、名を小鹿というが、なかなかに気の強い女性のようである。

 

 月の夜から脱線するが、大伴家持と紀女郎のやりとりにも彼女の性格が出ている。

家持の、「鶉(うづら)鳴く古(ふ)りにし里ゆ思へども何(なみ)ぞも妹(いも)に逢ふよしもなき(巻四 七七五歌)に対して、紀女郎は、「言出(ことだ)しは誰(た)が言(こと)にあるか小山田(をだやま)の苗代水(なはしろみず)の中淀にして(巻四 七七六歌)」と和(こた)えている。

 「言出(ことだ)しは誰(た)が言(こと)にあるか」の「か」に強い気持ちが表れている。書き手の遊び心であろうか、この「か」を「鹿」と書いているのである。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その945)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」 古橋信孝 著 (NHKブックス

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

万葉歌碑を訪ねて(その990)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(9)―万葉集 巻十 一八九五

●歌は、「春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(9)万葉歌碑<柿本人麻呂歌集>

●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(9)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹

               (柿本朝臣人麿歌集 巻十  一八九五)

 

≪書き下し≫春さればまづさきくさの幸(さき)くあらば後(のち)にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)

 

(訳)春になると、まっさきに咲くさいぐさの名のように、命さえさいわいであるならば、せめてのちにでも逢うことができよう。そんなに恋い焦がれないでおくれ、お前さん。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「春去 先三枝」は、「春去 先」が「三枝」を起こし、「春去 先三枝」が、「幸(さきく)」を起こす二重構造になっている。

(注)そ 終助詞:《接続》動詞および助動詞「る」「らる」「す」「さす」「しむ」の連用形に付く。ただし、カ変・サ変動詞には未然形に付く。:①〔穏やかな禁止〕(どうか)…してくれるな。しないでくれ。▽副詞「な」と呼応した「な…そ」の形で。②〔禁止〕…しないでくれ。▽中古末ごろから副詞「な」を伴わず、「…そ」の形で。

参考(1)禁止の終助詞「な」を用いた禁止表現よりも、禁止の副詞「な」と呼応した「な…そ」の方がやわらかく穏やかなニュアンスがある。(2)上代では「な…そね」という形も併存したが、中古では「な…そ」が多用される。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その494)」で紹介している。

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 この歌は、巻十の部立「春相聞」の先頭歌一八九〇から一八九六歌の歌群に収録されている。この歌群の左注は、「右は、柿本人麻呂が歌集に出づ」である。

 

 今回は、この「柿本人麻呂歌集」について考えてみよう。

 手っ取り早く、「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」をみてみると、次のように書かれている。

「《万葉集》成立以前の和歌集。人麻呂が2巻に編集したものか。春秋冬の季節で分類した部分をもつ〈非略体歌部〉と,神天地人の物象で分類した部分をもつ〈略体歌部〉とから成っていたらしい。表意的な訓字を主として比較的に少ない字数で書かれている〈略体歌〉には,676年(天武5)ころ以後の宮廷の宴席で歌われたと思われる男女の恋歌が多い。いっぽう助詞などを表音的な漢字で書き加えて比較的に多い字数で書かれている〈非略体歌〉には,680‐701年ころの皇子たちを中心とする季節行事,宴会,出遊などで作られた季節歌,詠物歌,旅の歌が多い。」

 

柿本人麻呂歌集は、現存するものはなく、万葉集に上記のように「柿本人麻呂が歌集に出づ」といった文言から、柿本人麻呂歌集が存在しそこから万葉集編者は引用していることが分かる。

万葉集の巻毎に「柿本人麻呂歌集」から収録された歌の数をみてみると、第二に一首、巻七に五六首、巻九に四四首、巻十に六八首、巻十一に一六一首、巻十二に二十七首、巻十三に三首、巻十四に四首であり、二十巻四五一六首中、八巻三六四首に上るのである。

左注には、「右柿本人麻呂之歌集出」や「右〇首柿本朝臣人麻呂之歌集出」とあり、単に「右」とあるのは、当該歌の左注のみで、一首と数えるか、右歌群の左注と考えるかによって歌数は変わってくる。

 一八九五歌を含む巻十の部立「春相聞」の先頭歌一八九〇から一八九六歌の歌群の左注は、「右は、柿本人麻呂が歌集に出づ」であるが、この歌群はすべて特異な「略体」で書かれていることから人麻呂歌集からの収録であると判断されるのである。

 典型的な「略体」で書かれた歌は、巻十一の二四五三歌である。

 この歌をみてみよう。

 

◆春楊 葛山 發雲 立座 妹念

                                  (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四五三)

 

≪書き下し≫春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居(ゐ)ても妹(いも)をしぞ思ふ

 

(訳)春柳を鬘(かずら)くというではないが、その葛城山(かつらぎやま)に立つ雲のように、立っても坐っても、ひっきりなしにあの子のことばかり思っている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)春柳(読み)ハルヤナギ:①[名]春、芽を出し始めたころの柳。②[枕]芽を出し始めた柳の枝をかずらに挿す意から、「かづら」「葛城山(かづらきやま)」にかかる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序、「立ち」を起こす。

 

 この歌ならびに、この十文字の歌をどう紐解くかについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その433)」で紹介している。

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 柿本人麻呂歌集から収録した歌数の多さや、「万葉集巻一から巻六」と「巻七から巻十二」と巻十三以降の段差を考えた時に「巻七から巻十二」における柿本人麻呂歌集の万葉集における位置づけなどからこれまでいろいろな議論が展開されてきた。

 万葉集から切り出した柿本人麻呂歌集を基に人麻呂歌集の姿を探る研究もなされてきた。

 あたかも埋蔵されていた土器の破片等から器などを再現させるように。

 

 神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)のなかで、「『人麻呂歌集』という歌集があったであろうことは否定されないとして、その歌集そのものを考えることはできない(中略)あたりまえのことですが、わたしたちが見ているもの、正確に言えば、見ることができるものは、『万葉集』としてあるものしかないからです。」と書かれている。さらに、「略体」・「非略体」書記についても、「『略体』であれ、そうでないものであれ、人麻呂歌集歌の書記は、『万葉集』のなかでの問題であり、その特異さにおいて『万葉集』にあることの意味を見なければならないのです。そして・・・その人麻呂歌集歌を核として構成する巻々が、巻一~六の『歴史』とあいまって、『万葉集』としてなにを実現しているかということです。」と書かれている。

 

 柿本人麻呂歌集以外にも高橋虫麻呂歌集、笠金村歌集、田辺福麻呂歌集等からも収録されており、歌集をもすべてではないにしろ収録したという事実は、万葉集が壮大な構想の下に構築されていったと考えることができよう。とてつもない万葉集のパワーに圧倒されたのである。

 これらの歌集との位置づけなども今後の課題としてのしかかってきたように思える。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その989)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(8)―万葉集 巻八 八二二

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(8)万葉歌碑<大伴旅人

●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻八 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人

 

 「梅花の歌三十二首」の一つである。この歌については、これまでも度々ブログの中で紹介してきた。

 

 今回は、旅人の生涯をこれまでにブログで紹介した歌を主軸に追ってみよう。

 

■天智(称制)四年(665年)大納言大伴安麻呂の長男として生まれる。

神亀四年(727年)大宰帥に任命される。(六十三歳)

神亀五芽(728年)大宰府着任後間もなくして妻(大伴郎女)を亡くす。

天平二年(730年)正月、梅花宴を催す。

■同       十一月、大納言に任ぜられ、十二月、上京。

天平三年(731年)七月 没(六十七歳)

(注)称制:天皇の在位しないとき,皇族が天皇に代わって政治を執ることをいう。古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

 

 万葉集に収録されている旅人の歌は七十二首である。その内の六十三首は大宰府時代に詠まれている。

 大宰府赴任以前は、吉野行幸歌(奏上にいたらずとある)二首(三一五、三一六歌)、大納言となり帰京後七首(四五一から四五三歌、五七四・五七五歌、九六九、九七〇歌)となっている。

 

  

 吉野行幸歌ならびに大宰府時代に作歌が集中している事情に関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その974)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 大宰府の帥として着任してほどなく妻を亡くすのである。この時に、七九三歌(世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりける)を詠んでいる。この報凶問歌は、序文(書簡文)は漢文で、和歌を詠む「漢倭混淆(こんこう)」形式を生み出し、これが歌の在り方に新風を吹き込んだのである。山上憶良は、この形式に刺激を受け、呼応した形で日本挽歌を旅人に奉っている。これが世にいう筑紫歌壇の形成の始まりであった。

 

七九三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その909)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

憶良の日本挽歌群については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その910)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 「梅花の歌三十二首 幷せて序」については、

序文と旅人の八二二歌を、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(大宰府番外編その1)で、

➡ 

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八一五から八二一歌を、同・その2で

➡ 

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八二三から八二九歌を、同・その3で

➡ 

tom101010.hatenablog.com

八三〇から八三七歌を、同・その4で

➡ 

tom101010.hatenablog.com

八三八から八四五歌を、同・その5で紹介している。

➡ 

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亡妻悲傷歌のうち、「故人を思ひて恋ふる歌三首」(四三八から四四〇歌)、「京に向ひて道に上る時に作る歌五首」(四四六から四五〇歌)、ならびに帰京後七首のうちの故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首」(四五一から四五三歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。

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 三位以上の人が、父母や妻を喪った時には、勅使が派遣されることになっているが、この勅使の歌に対して、旅人が和(こた)えた歌が一四七三歌(橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き)である。

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その896)」で紹介している。

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 ユニークな題材を扱った「酒を讃(ほ)むる歌十三首」(三三八から三五〇歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その898-1)、同・898-2で紹介している。

 ➡ 三三八から三四四歌

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 ➡ 三四五から三五〇歌

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小野老が従五位上になったことを契機に宴席がもたれそこで詠われた歌群がある。(三二八から三三七歌)。

 小野老の三二八歌(あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり)ではじまり、大伴四綱の三二九、三三〇歌(藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君)問いに対して、大伴旅人が三三一、三三二歌で答え、さらに三三三から三三五歌で吉野ならびに明日香への望郷の気持ちを詠っている。

 沙弥満誓の三三六歌、山上憶良の三三七歌(宴を罷る歌:憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ)で締めている。一つの歌物語的な歌群になっている。

 三二八から三三七歌すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

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帰京後七首のうちの沙弥満誓とのやり取り五七四、五七五歌(草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で紹介している。

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題詞、「冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首」<冬の十二月に、大宰帥大伴卿、京(みやこ)に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が作る歌二首>(九六五ならびに九六六歌)に対して旅人が和(こた)えた歌二首(九六七ならびに九六八歌:ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その801)」で紹介している。

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 万葉集には、大伴旅人の歌は、七十二首収録されていると書いたが、大伴家持の歌は四百七十九首におよぶ。大伴氏の歌とみていくと、池主(いけぬし)、駿河麻呂、百代、書持(ふみもち)、四綱(よつな)、坂上郎女、坂上大嬢他の歌を合わせると七百首を越えるのである。

 大伴氏一族の万葉集における位置づけを考えていくことも求められるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

 

万葉歌碑を訪ねて(その988)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(7)―万葉集 巻二 一八五

●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(7)万葉歌碑<日並皇子尊舎人等>

●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(7)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

               (草壁皇子の宮の舎人 巻二 一八五)

 

≪書き出し≫水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 一七一から一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。

 

 持統朝に、皇子尊(みこのみこと)と称したのは草壁皇子高市皇子である。この題詞にいう、皇子尊は草壁皇子である。

 

 草壁皇子といえば、「悲劇の皇子」大津皇子について触れずにはおかれない。

草壁皇子大津皇子はともに天武天皇の子供である。草壁皇子は鸕野(うの)讃良皇女(後の持統天皇)を母に、大津皇子は、大田皇女を母に持つ。(母どうしは姉妹)。

 

六八一年、草壁皇子は皇太子に任ぜられる。そして六八三年、大津皇子太政大臣となり、天武天皇諸皇子の中にあって、皇太子と太政大臣という最高の政治社会的地位を分担したが、大津皇子は、文武に通じた英才豪放で人望が高かった。このことは、皇后、皇太子側にとっては、不気味な存在を意味する。そのため、執拗な圧迫が大津皇子にそそがれることとなり、ついには大津皇子の「謀反」となったと思われる。

 

 天武十五年(686年)九月九日天武天皇が崩じるや、一か月も経たない十月二日に大津皇子は「謀反の発覚」により捕えられ翌日には死を賜っているのである。

日本書紀」は大津皇子を謀反人として記録しながらも、優秀な人物であったと評価し、漢詩等の文学の才も認めている。

ところが、草壁皇子は持統三年(689年)に急逝し、持統天皇の即位となったのである。

「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の全歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その502)」で紹介している。

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 草壁皇子の住居は飛鳥の島の宮であったといわれている。この島の宮は蘇我氏の旧邸宅の後を、宮殿にしたものであった。飛鳥川などの水を利用した宮殿造りで、蘇我馬子は島大臣(しまのおとど)と呼ばれていた。

 島の宮の故地は、今の飛鳥の岡の南の島の庄の地で、飛鳥川に臨んだところで、橘の島の宮ともいわれる。

 

 橘の島の宮に関しては、コトバンク 世界大百科事典の「橘の島の宮の言及」として、「大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる」と書かれている。

 

 「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」の次の歌から、池(上の池と下の池)があり、庭石を置いて磯をかたどり、水鳥が放たれ、池辺には岩つつじが咲いていたという「島」=庭園の情景がうかがえるのである。(書き下しのみ掲載)

 

◆島の宮上(かみ)の池なる放ち鳥荒(あら)びな行きそ君座(いま)さずとも(一七二歌)

 

◆み立たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば生(お)ひずありし草生ひにけるかも(一八一歌)

 

◆水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも(一八五歌)

 

 「島」=庭園については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その121改)」で紹介している。(初期のブログであるので、タイトル写真は朝食の写真となっているが、本分は改訂し削除してあります。ご容赦下さい。)

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  先に、草壁皇子大津皇子のことを書いたが、大津皇子は、「謀反」である以上反体制勢力に位置づけられる。また、有間皇子もそうである。ところが万葉集では、両者とも「辞世の歌」的な歌や両者をそれぞれ偲ぶ歌などが収録されている。大伴家持も大伴一族の一員であることを考えると、「万葉集」の存在自体にも疑問が生じて来る。

 これに関して、高橋睦郎氏は、「万葉集の詩性」(中西 進 編 角川新書)のなかで「部立の成立」も含め、明快に書かれている。

 思わず、そういうことか!とうなってしまったので、長いが引用させていただく。

 「・・・持統王統を正統化するための持統王朝讃歌である原万葉集が、編集完了後に讃歌だけではじゅうぶんに有効ではないと意識されてくる。そこで讃歌成立のために排除された王統挽歌群を増補する。つぎには王統挽歌群を成立させるためには王統成立のために排除された敗者側の挽歌の増補が必須であることが認識されてくる。ここに挽歌という部立が生じ、挽歌に対応する相聞という部が立てられる。そこから翻って王朝讃歌が挽歌でも相聞でもないということで雑歌と名付けられる。こうして『万葉集』の三大部立、雑歌・相聞・挽歌が生まれた。(後略)」

 

 万葉集とは、という課題がまたひとつ大きくのしかかってきたのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉集の詩性」 中西 進 編 (角川新書)

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 世界大百科事典」

万葉歌碑を訪ねて(その987)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(6)―万葉集 巻一 五七

●歌は、「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(6)万葉歌碑<長忌寸意吉麻呂>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(6)にある。

 

●歌をみていこう。

 

  題詞は、「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」<二年壬寅(みずのえとら)に、太上天皇(おほきすめらみこと)、三河の国に幸(いでま)す時の歌>である。

 

◆引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓

               (長忌寸意吉麻呂 巻一 五七)

 

≪書き下し≫引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに

 

(訳)引馬野(ひくまの)に色づきわたる榛(はり)の原、この中にみんな入り乱れて衣を染めなさい。旅の記念(しるし)に。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)引馬野(ひくまの):愛知県豊川市(とよかわし)御津(みと)町の一地区。『万葉集』に「引馬野ににほふ榛原(はりばら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた引馬野は、豊川市御津町御馬(おんま)一帯で、古代は三河国国府(こくふ)の外港、近世は三河五箇所湊(ごかしょみなと)の一つだった。音羽(おとわ)川河口の低湿地に位置し、引馬神社がある。(コトバンク 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)はり【榛】名詞:はんの木。実と樹皮が染料になる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)にほふ【匂ふ】:自動詞 ①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。

他動詞:①香りを漂わせる。香らせる。②染める。色づける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首長忌寸奥麻呂」<右の一首は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)>である。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その265)で紹介している。

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長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)については、「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」に、「《万葉集》第2期(壬申の乱後~奈良遷都),藤原京時代の歌人。生没年不詳。姓(かばね)は長忌寸(ながのいみき)で渡来系か。名は奥麻呂とも記す。柿本人麻呂と同時代に活躍,短歌のみ14首を残す。699年(文武3)のおりと思われる難波行幸に従い,詔にこたえる歌を作り,701年(大宝1)の紀伊国行幸(持統上皇文武天皇),翌年の三河国行幸(持統上皇)にも従って作品を残す。これらを含めて旅の歌6首がある。ほかの8首はすべて宴席などで会衆の要望にこたえた歌で,数種のものを詠み込む歌や滑稽な歌などを即妙に曲芸的に作るのを得意とする」とある。

 

五七歌以外の旅の歌五首と物名歌等宴会での八首をみてみよう。

 

【羇旅の歌】

 

有間皇子の「結び松」を見て哀咽(かな)しぶる歌二首である。

◆磐代乃 崖之松枝 将結 人者反而 復将見鴨

              (長忌寸意麻呂 巻二 一四三)

 

≪書き下し≫岩代の崖(きし)の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも

 

(訳)岩代の崖のほとりの松が枝、この枝を結んだというそのお方は、立ち帰って再びこの松をご覧になったことであろうか。(同上)

 

◆磐代乃 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念

              (長忌寸意麻呂 巻二 一四四)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けずいにしへ思ほゆ

 

(訳)岩代の野中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心もふさぎ結ぼおれて、去(い)にし時代のことが思われてならない。(同上)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その478)」で紹介している。

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三首目は、文武三年(699年)正月から二月に行われた持統上皇文武天皇の難波行幸の時に詠った歌である。

 

◆大宮之 内二手所聞 網引為跡 網子調流 海人之呼聲

               (長忌寸意麻呂 巻三 二三八)

 

≪書き下し≫大宮の内まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あご)ととのふる海人(あま)の呼(よ)び声(こゑ)

 

(訳)御殿の内まで聞こえてくる。網を引くとて。網子(あみこ)たちを指揮する漁師の掛け声が。(同上)

 

 

四首目は、「三輪の崎」あたりで詠った歌である。

 

◆苦毛 零来雨可 神之崎 狭野乃渡尓 古所念

                              (長忌寸意吉麿 巻三 二六五)

 

≪書き下し≫苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに

 

(訳)何とも心せつなく降ってくる雨であることか。三輪の崎の佐野の渡し場に、くつろげる我が家があるわけでもないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

 詠われている「三輪の崎」について同著の脚注は、「新宮市三輪崎および佐野一帯という」とある。

 

 この歌碑が立っていた場所の近くの橋は式島橋であるがその上の橋は「新佐野渡橋」である。(桜井市の橋一覧 橋の名前を調べる地図参照)

この辺りは、三輪山の裾野であるから、三輪の崎という地名と佐野の渡しを踏まえて歌碑を建てたようである。

というより、三輪山の先っぽ的感覚でとらえたら面白い気がする。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その92改)」で紹介している。初期のブログの為タイトル写真には朝食が写っているが、本文は改訂し削除してあります。ご容赦ください。

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 六首目は、大宝元年(701年)十月に持統天皇文武天皇紀伊の国に行幸された時の歌である。

 

題詞「大宝元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみいこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首」のうちの一六七三歌には左注があり、「右の一首は、山上臣憶良が類聚歌林には『長忌寸意吉麻呂、詔(みことのり)に応(こた)へてこの歌を作る』といふ」とある。

 

◆風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無  <一云 於斯依来藻>

               (作者未詳 巻九 一六七三)

 

≪書き下し≫風莫(かぎなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに  <一には「ここに寄せ来も」と云ふ>

 

(訳)風莫(かぎなし)の浜の静かな白波、この波はただ空しくここに寄せてくるばかりだ。見て賞(め)でろ人もないままに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)風莫(かぎなし)の浜:黒牛潟の称か。

 

 この歌群(一六六七から一六七九歌)の十三首すべてについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

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次に宴会等で詠われた「物名歌」などをみてみよう。

 標題は、「長忌寸意吉麻呂歌八首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌八首>であり、三八二四~三八三一歌の歌群となっている。

 

◆刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武

               (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二四)

 

≪書き下し≫さし鍋(なべ)に湯沸(わ)かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ

 

(訳)さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)を渡って、コムコムとやって来る狐に浴びせてやるのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)さすなべ【(銚子)】:柄と注口(つぎぐち)のついた鍋、さしなべ。

 

 

題詞は、「行騰(むかばき)、蔓菁(あをな)、食薦(すごも)、屋梁(うつはり)を詠む歌」である。

 

◆食薦敷 蔓菁▼将来 樑尓 行騰懸而 息此公

               (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二五)

  • ▼は「者」に下に「火」=「煮」

 

≪書き下し≫食薦(すごも)敷き青菜煮(に)て来(こ)む梁(うつはり)に行縢(むかばき)懸(か)けて休めこの君

 

(訳)食薦(すごも)を敷いて用意し、おっつけ青菜を煮て持ってきましょう。行縢(むかばき)を解いてそこの梁(はり)に引っ懸(か)けて、休んでいて下さいな。お越しの旦那さん。(同上)

(注)すごも 【簀薦・食薦】名詞:食事のときに食膳(しよくぜん)の下に敷く敷物。竹や、こも・いぐさの類を「簾(す)」のように編んだもの。(学研)

(注)樑(うつはり):家の柱に懸け渡す梁

(注)むかばき【行縢】名詞:旅行・狩猟・流鏑馬(やぶさめ)などで馬に乗る際に、腰から前面に垂らして、脚や袴(はかま)を覆うもの。多く、しか・くまなどの毛皮で作る。

 

 

題詞は、「荷葉(はちすは)を詠む歌」である。

 

蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之

                (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二六)

 

≪書き下し≫蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家にあるものは芋(うも)の葉にあらし

 

(訳)蓮(はす)の葉というものは、まあ何とこういう姿のものであったのか。してみると、意吉麻呂の家にあるものなんかは、どうやら里芋(いも)の葉っぱだな。(同上)

(注)蓮葉:宴席の美女の譬え。

(注)宇毛乃葉:妻をおとしめて言った。芋(うも)に妹(いも)をかけた。

 

 ここにいう「芋(うも)」は、現在の「里芋」である。日本にはイネよりも早く伝わっている。昔から食用にしていた「山芋(やまいも)」(自然生<じねんじょう>)に対し、里(人の住むところ)で栽培したので「里芋」という。

蓮は、きれいな花を咲かせるので、美人の形容とされていた。

 

 

題詞は、「双六(すごろく)の頭(さえ)を詠む歌」である。

 

◆一二之目(いちにのめ) 耳不有(のみにはあらず) 五六三(ごろくさむ) 四佐倍有来(しさへありける) 雙六乃佐叡(すぐろくのさえ)

               (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二七)

 

≪書き下し≫一二之目(いちに)の目のみにはあらず五六三四(ごろくさむしさへありけり 双六(すぐろく)の頭(さえ)

 

(訳)一、二の黒目だけじゃない。五、六の黒目、三と四の赤目さえあったわい。双六の賽ころには。(同上)

 

 

題詞は、「香(かう)、塔(たふ)、厠(かはや)、屎(くそ)、鮒(ふな)、奴(やつこ)を詠む歌」である。

 

◆香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴

            (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二八)

 

≪書き下し≫香(かう)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそぶな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)

 

(訳)香を塗りこめた清らかな塔に近寄ってほしくないな。川の隅に集まるある屎鮒(くそぶな)など食って、ひどく臭くてきたない女奴よ。(同上)

(注)いたし【痛し・甚し】形容詞:①痛い。▽肉体的に。②苦痛だ。痛い。つらい。▽精神的に。③甚だしい。ひどい。④すばらしい。感にたえない。⑤見ていられない。情けない。(学研)ここでは、⑤

 

 

題詞は、「酢(す)、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛(たひ)、水葱(なぎ)を詠む歌」である。

 

◆醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃▼物

(長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二九)

※   ▼は、「者」の下が「灬」でなく「火」である。「▼+物」で「あつもの」

 

≪書き下し≫醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ我(われ)にな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)は

 

(訳)醤(ひしお)に酢を加え蒜(ひる)をつき混ぜたたれを作って、鯛(たい)がほしいと思っているこの私の目に、見えてくれるなよ。水葱(なぎ)の吸物なんかは。(同上)

 

 

題詞は、「玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌」である。

 

◆玉掃(たまばはき) 苅来鎌麻呂(かりこかままろ) 室乃樹(むろのきと) 與棗本(なつめがもとと) 可吉将掃為(かきはかむため)

               (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八三〇)

 

(訳)鎌麿よ、玉掃を刈り取って来なさい。むろの木と棗の木の下を掃こうと思うから。(同上)

 

  題詞が、「詠白鷺啄木飛歌」<白鷺(しらさぎ)の木を啄(く)ひて飛ぶを詠む歌>一首である。

 

 ◆池神 力士舞可母 白鷺乃 桙啄持而 飛渡良武

                             (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八三一)

 

≪書き下し≫池神の力士舞かも白鷺の桙啄ひ持ちて飛び渡るらむ

 

(訳)池の神の演じたまう力士舞(りきじまい)とでもいうのであろうか、白鷺が長柄の桙(ほこ)をくわえて飛び渡っている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)りきじまひ【力士舞ひ】名詞:「伎楽(ぎがく)」の舞の一つ。「金剛力士(こんがうりきし)」の扮装(ふんそう)をして、鉾(ほこ)などを持って舞う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

この歌群(三八二四から三八三一歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その380)」で紹介している。

 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その985,986)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(4)―万葉集 巻十九 四一四三

―その985―

●歌は、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(4)万葉歌碑(プレート)<大友家持>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「攀折堅香子草花歌一首」堅香子草(かたかご)の花を攀(よ)ぢ折る歌一首>である。

 

◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花

              (大伴家持 巻十九 四一四三)

     ※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

 

(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その823)」で紹介している。

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 令和二年十一月五日に、越中万葉のメッカ高岡の街を訪れた。

 越中国庁の跡とされる勝興寺の境内の二つの歌碑を見て周った後が、「寺井の跡」の歌碑である。

寺を出て、歌に詠まれた堅香子の名を冠したかたかご幼稚園の前の道の緩やかな坂道を寺に沿って上っていく。勝興寺の北西エリアには、台所や米蔵があるが、ちょうどそのあたりから駆け下りる感じのところの隅エリアに歌碑らしきものが見えて来た。(当時の様子は分からないが、台所と井戸をイメージで結んだだけであるが)

歌碑と歌碑の説明案内板と「寺井の跡」の碑がある。

 

 ちょうど、修学旅行か遠足か、中学生の1クラスの学生さんらが高岡市万葉歴史館あたりから、こちらに向かってくる。男女混合であるが、わいわいがやがやと、楽しそうに。

目をとじれば、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ」かの情景が感じられる。

現地ならではの感覚である。

 

 

 

―その986-

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(5)万葉歌碑(プレート)<額田王

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまふ時に、額田王(ぬかたのおほきみ)が作る歌>である。

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

 この歌については、ブログでは度々紹介している。

蒲生野の地といわれるところの歌碑とともに大海人皇子の歌も、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(258)」で紹介している。

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題詞のある「蒲生野」については、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」には、「滋賀県中南部の愛知川(えちがわ)中流左岸の台地。東近江(おうみ)市西部、近江八幡(おうみはちまん)市東部などの範囲をいう。古代には狩猟の場で、額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)の相聞(そうもん)歌『あかねさす紫野行き……』(万葉集 巻1)で知られる。歌碑が舟岡山にある。中世以降、その開発が進み、現在では農業用地が広がる」と書かれている。

 

 令和元年十一月四日に滋賀県東近江市の万葉の森船岡山を訪れている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(258)」の写真にある船岡山のふもとにある蒲生野での遊猟の様子を描いた巨大なレリーフをみているとタイムスリップして遊猟に参加しているような感覚に引き込まれる。

 歌碑も現地にちなんだところにあると歌の作り人の感覚がよみがえってくるように思えて来るのである。

 現地の魔力かもしれない。

 

 犬養 孝氏が、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「・・・万葉の歌は、あたう限り歴史と共に、時代と共に理解していかねばならない。そうしてまた、風土と共に理解していかなくてはなりません。このようにして、万葉の歌を理解し、万葉の人びととの心の世界を探っていってみたい・・・」と書かれている。

 このことを肝に銘じ、万葉歌碑を通して万葉集に挑戦していきたい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」